九話 極寒の熱
「あまり、出過ぎになられないよう」
行軍の最中、馬を寄せてきたチュウに、話しかけられた。
冒頓は、先の甌脱地付近での戦闘の折、先頭で突っ込んだ。そのことに、チュウは肝を冷やしたらしかった。
「悪いが、それは承知できん。俺は、バガツールであり続ける必要があるのだ」
確かに、前年の活躍によって、匈奴人からは一目置かれる存在になった。勇者を意味する、バガツールという敬称で呼ばれるようにもなった。しかし、所詮は、一度きりの、しかも個人としての活躍だった。一度きりのちっぽけな活躍で得た名声など、一度きりの過失で、やすやすと吹き飛ぶ。今後も、身を危険に晒し続け、強さを、果敢さを見せつけるしかない。積み上げが大事だった。
冒頓は、自分の欲望を実現するため、すべてを犠牲にする覚悟でいる。そして、なんの気兼ねもなく、犠牲にできる唯一の存在が、自分だった。自分の命ですら資源として見ていた。
「まだまだ認められてはいないのだ、俺は」
つぶやくように言った。
チュウは、呆れた顔を隠さなかった。
「わかりました。なら、せめて、私かキのどちらかを常にお側に置かれますよう」
嘆願という感じだった。
守る者の気持ちも理解してほしい。そう言いたいのだ。
「それなら承知できる。苦労をかける」
冒頓は謝罪に近い口調で、首を縦に振った。
「バガツール様に拾っていただけなければ、奴婢で一生を終えていたのです。苦労などとは思ってはおりません。ただ、お守りしたいだけです」
受けた恩を返す。チュウなりの義理立てである。冒頓は、心に何か物足りないものを感じた。
――あの偽装退却作戦を立てたことまで知れ渡れば、俺の置かれる立場も多少は違ってくるか――
ふと、思った。
しかし、父も冒頓もその事実を意図的に伏せていた。
冒頓の思惑は、わかりきっている。まだ、舐められていたほうが都合がよいのだ。特に心配なのは月氏王である。月氏王は、あの作戦を立てたのは頭曼であると信じて疑っていない。だからこそ、冒頓を軽んじ、力を貸しているのだ。事実を知れば、警戒して支援を取りやめるかもしれない。
内には認められ、外には舐められなければならない。難題だった。そう考えると、現在の、個人の武勇を褒められている段階、が一番都合がよいのかもしれない。
一方、父はなぜ黙っているのか。後継者の大手柄なのだ。大いに喧伝すればいいのに、それをしない。やはりまだ完全には冒頓を後継者として認めてはいないのか。それとも、認めてはいるが、黙っていたほうが息子にとって、何かと都合がよいと理解しているのか。
再び、斥候を出した。まだ敵軍との距離には余裕があるはずだ。それと同様に、気持ちにも少しばかりの余裕があった。
しかし、戻ってきた斥候の報告を聞いて、その余裕は簡単に吹き飛んだ。息を呑んだ。
敵の数が膨れ上がっていた。五千と思われた軍が、九千になっているのだ。
なぜ、敵軍が増えたのか。じっと考えた。
行軍してくる道程で、他の諸王が兵を貸したからだ。しかし、一諸王の軍隊に、他の諸王が加勢するのか。しかも、独断専行の軍隊に、である。
が、もし、今迫りくる軍隊が、丁零王の本隊であったらどうか。諸王が、加勢するのは、むしろ自然な流れである。
――見誤った?――
数が少ないから。迎撃してくるのが速かったから。自分の目算は正しいに決まっているから。諸々の理由で丁零王本隊ではないと即断した。けれど、冒頓の考えていたよりずっと、丁零王がしたたかな人物であったら、話は違ってくる。こちらを逃さないために、あるいは、こちらの目的を見破って、まず、わざと少ない数で進発し、行軍途上にて諸王の軍を加えていった可能性がある。十分、ありうることだった。なぜ、考慮に入れることもしなかったのか。
実際のところ、対する敵軍が九千だとわかっていたのなら、冒頓は迷うことなく、撤退を決断していた。
「下知を」
思考を打ち消すようなキの言葉に、はっとする。
二度と立ち止まらないと、去りゆくナルの背に誓ったのではなかったのか。時は動いているのだ。後悔の念に囚われている場合ではなかった。
第一に、迫りくる軍が、丁零王の本隊であると決まったわけではないのだ。こちらの目算が外れたと決まったわけでもない。ありもしない事態を必要以上に恐れ、思考の海に沈むのは、愚者のすることだった。昔の自分に戻りかけていた。
――まだ、どこか甘い――
そう実感せざるを得なかった。
敵の本隊かもしれない。その可能性も念頭に置いて、立ち回ればよい話だった。
対処の方法はふたつ。このまま脇目もふらず、撤退するか。前進して、攻撃を掛けるか、である。
「前進する」
もはや安全に撤退できる時宜は過ぎている。戦うことを決めたあの時点なら、逃げることもできただろうが、今となっては手遅れだった。
基本的に、追う側と追われる側では、追う側のほうが有利である。背中を向けて奔るということは、想像以上の危険を伴う。
もっと言えば、ここは敵の領内であり、地理的にも相手に分がある。こちらの知らない経路を通って、追いついてくるかもしれない。
つまり、事ここに至っては、戦うしかない。すみやかに敵軍を撃破したのち、撤退するしかない。一番、安全だ。
そんな状況に、自軍を陥らせたのは紛れもなく、自分の判断の甘さであったが、悔いるべきは今ではない。
「三千を率い、後発せよ」
チュウに言った。三千とは、元々チュウに預けてあった、あの三千である。
「後発、ですか」
チュウは、唐突な冒頓の命に、怪訝な表情を浮かべる。
「そうだ。こちらの足並みが揃っていないように見せる」
匈奴軍にとって、最も困るのが、睨み合いの膠着状態になることだった。そんなことになれば、いまだ各地に散る諸王の軍が集まってきて、敵軍は、ますます膨れ上がる羽目になる。放置しておけば、少なくとも三万を超える大軍になるだろう。
一方のこちらに後詰の用意はない。今更、父に援軍を請うても、遅い。
九千程度なら勝つ自信はある。それくらいの訓練はやってきた。敵軍とは、吐いてきた血反吐の数が違う。練度が違う。兵力で劣り、置かれた状況で劣っていても、勝てる。
しかし、三万となると話は別である。
だからこそ、小賢しい細工が必要だった。
――待つより、今すぐ攻撃したほうがよいのではないか――
敵にそう思わせるのだ。相手の兵力が増えるという不測の事態が起きずとも、元々考えていた手だった。
チュウと三千を残し、前進した。
「ここに陣を張って、待ち構えるという手は、やはりあり得ませんか?」
ちょうど、小高い丘の頂上に至ったとき、キが確認してきた。ほとんど岩山と言ってよい。一片の草も生えない裸の丘だった。周りには平地が広がっている。
なるほど、陣取れば間違いなく、有利に戦える場所だった。
「駄目だ。通り過ぎる」
くどいようだが、敵が待ちより攻撃を選ぶように立ち回るのが肝要だった。匈奴軍が、これほど有利な場所を取れば、丁零軍も後詰を待つという方針を採るに違いない。そして、負ける。
「承知」
キも自軍の置かれている状況を理解できているのか、それ以上は食い下がらない。一応、確認を取っただけだろう。
丘を越え、不毛な平地に入った。その中央で陣を敷く。
時を置いて、チュウの部隊も到着する。その動きを見た敵の斥候が、匈奴軍の足並みは揃っていないと誤認してくれればよいが。
はるか先に黒い影が、ぽつぽつと現れた。影は、その数を増やしてゆく。敵軍だった。正面である。定石通り、坂の途中に陣を張っている。
明らかにこちらの不利。そう分かっていても、攻撃するしかない。
軍を三段に分ける。各段との間、そして各隊との間には、十分な空間を設けた。
チュウは一段目に、冒頓とキは三段目に入った。
「進め」
剣を中天に掲げた。
近づいてゆくと敵の矢が、次々と飛んできた。一方、こちらはまだ撃てない。高所と低所の差は顕著だった。
敵の陣容もはっきりする。前に騎兵、後に歩兵。
さらに近づく。
突如として、匈奴軍の前方の二段が、下がった。段と段の間隙を縫って、なんと三段目の後方まで退いてしまった。
その動きを見た丁零軍は、『一段目と二段目の隊が、矢の圧力に耐え切れず、勝手に撤退したのだ』と認識した。戦闘前にやった、一部の部隊を遅れさせるという小細工も、いくらかは効いていた。元々、足並みのちぐはぐであった軍隊が、敵を目前にして、ついに崩壊したと思ったのだ。
この機を逃すまいと、敵の騎兵は、歩兵を置き去りに、突撃を敢行する。詰まっていたはずの、騎兵と歩兵の間に、間ができた。
先頭部隊となった匈奴軍の三段目は、敵がやって来るのを認めると、足を止めた。冒頓も、そこにいた。
冒頓は、鏑矢を番えた。
鏑矢とは、簡単に言えば、鏃部分に、いくつかの穴を開けた矢のことである。放つと、穴の中を空気が通り、大きな音が出る。本来、狩りの時に使うものを、冒頓は戦闘で使用した。音がした方向を瞬時に、かつ一斉に射るよう、兵には訓練を施してあった。
強兵なのだろう。先頭で突っ込んでくる敵兵ひとり。
その者目掛けて、撃った。
何かを切り裂いたような音が戦場に響く。鈍い音だった。
味方を鼓舞するように、叫ぶ猛者の口に、鏑矢は吸い込まれた。
直後、三段目の味方は皆、一様に射撃を始めた。キも、鬼のような形相で矢を射かけている。
丁零兵が悲鳴を上げて、落ちる。落ちる。
敵の先陣は完全に乱れた。
一段目、二段目が引いた以上、三段目も当然、引くはずだと思い込んでいた。すでに勝ったと思い込んでいたのだ。であるのに、手痛い反撃を食らったのである。崩されるのも無理はなかった。
すると、今度は三段目が下がり始める。
冒頓とキも、他の全員の後退を見届けたのち、下がった。
頭上を矢が飛んだ。坂の上に残された、敵歩兵によるものだろう。
三段目は、先に下がっていた一段目と二段目のさらに後ろへと引いた。
匈奴軍は崩壊したわけではなかった。すべて訓練のとおりだった。
第一段、第二段に退かせたのは、敵が有利な坂上を捨てて、突出してくるのを誘うためだった。
敵が逸って、突撃してくるのを。そして味方の三段目が、その逸った敵を崩してくれるのを。一段目と二段目は、今か今かと待っていたのだ。
再び、先頭に立った一段目。すでに、突撃の準備は完了していた。
「続け」
チュウは、そう叫ぶと突っ込む。気迫に満ち満ちていた。勢いを完全に削がれた、敵兵目掛けて、一目散に駆け上がる。
チュウを先頭に、一段目が敵の騎兵を突き破った。続いて、後方の歩兵へも襲い掛かる。
「第二段、突撃」
二段目も攻撃を開始する。
最後に三段目も、弓を剣や槍に持ち替えたのち、突っ込む。
冒頓も、剣を振りかざした。キが奇声を上げている。
三段目が、敵に接するころ、チュウ率いる一段目は、歩兵の波すら突き抜け、坂の頂きへと登りつめていた。そして、反転。逆落としをかける。
味方が殺到する。
勝負はついた。
――勝った――
離散しゆく敵軍を見て、冒頓は思った。
頬に滴る、敵の血を、片手で拭った。
北方である。極寒である。なのに、全身が燃えるように熱かった。戦勝の熱だった。
鬨が上がっていた。
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