八話 蹴散らすのは
身を切るような風が吹く、特別寒い朝だった。
北方の日の出は早い。太陽の光を浴びながら、匈奴軍は、原野を走っていた。まだ、匈奴の領内である。
元々の七千に、チュウに預けていた三千が加わり、兵力は、ほぼ一万に達していた。
「略奪をするだけなら、これほどの数を揃えることもないのでは?」
出陣前に、チュウが言った。
確かに、略奪をやるためだけに、一万もの軍をぞろぞろと連れてゆく必要はない。もっともなことであった。
けれども、冒頓には、ちょっとした目算がある。
目算と言っても、もったいつけるほど大層なものではない。ただ単純に、チュウが疑問を呈したのと同様のことを、丁零王も考えるだろうという点である。
――匈奴軍の目的は略奪だけではないのか?――
と、思わせられる。
略奪以外の目的となると、もう決戦以外にない。
さて、丁零や匈奴といった遊牧集団というのは、複数の部族の連合体である。そして、その部族は領内の各地に散り、それぞれに生活を営んでいる。
戦時になると、丁零王や匈奴王は、それらの連中に号令をかけて、軍を組織する必要がある。このあたり、農耕国とあまり変わりはない。城や町が、天幕や草原に代わるだけである。
いや、もちろん王も王庭にて、直属の民を抱えているわけで、『ある程度の軍勢』ならすぐに揃えられる。しかし、心もとない。
匈奴側が、略奪ごときにそんな兵数は必要ないとし、数千で攻め込んだらどうだろうか。丁零側も、その『ある程度の軍勢』で迎撃してくるに違いない。それは困る。略奪に費やせる時間が少なくなってしまう。
逆に、一万で攻め込み、こちらの狙いが決戦であると思い込ませればどうか。丁零王は、各地の部族から兵を集め、大軍を組織する。当然、迎撃に打って出るまでに時がかかり、略奪の時間が稼げる。
結局まとめると、敵にこちらの目的を誤って解釈させて、略奪の時間を稼ごうというあまりに単純な目算だった。
軍勢の先頭を冒頓、チュウ、キの三人が颯爽と駆ける。
ハクは集落で待機させている。彼は、あくまで集落の首長である。
むろん、ただ、手をこまねいて待っているわけではない。三百の兵を任せ、集落の防備を固めさせていた。集落まで敵が寄せてくるような事態にはまずならないだろうが、一応は備えさせる。戦に、『絶対』はない。
「お前に、兵を預けたのは正解だったな」
全軍に停止を命じたのち、冒頓は、チュウを褒めた。
しばらくチュウに預けておいた三千。その動きは、他の兵と比べても遜色ない。巡視の間も、訓練を怠っていなかった証拠である。
「そう言って頂けると、苦労した甲斐があったな、と思えます」
チュウが応えた。
つい先ほどまで、奴隷の身分であったチュウに、命令されたり、訓練されたりする。そのことに不満を持つ兵も、少なくはなかったはずだ。そんな彼らを、ひとりの逃亡者も出さず、扱えた。並々ならぬ苦労があったに違いない。
前方に、騎兵の一団が見えた。敵ではない。
あらかじめ先行させていた、味方の斥候である。
チュウが、馬体を蹴り、斥候隊に接近してゆく。
手持ち無沙汰になったため、冒頓は、自軍を観察する。
動物の皮をなめした薄手の鎧。剣と槍のどちらか。そして、弓と矢筒。それが、兵の装備だった。
一騎の遅れもない。
次に視野を絞って、兵ひとりひとりの顔を見る。
皆、緊張の面持ちでいる。この軍が組織されて、初めて、戦らしい戦をやるのだから、仕方がない。が、悪い緊張ではなさそうである。下手に緩まれるよりは、よほどよい。
「私にも、いつか軍を任せていただけるのですか?」
キが、馬を寄せて、尋ねた。
「初陣のお前が、もう自分の部隊を持ちたがっているのか。ずいぶん気が早いことだ」
冒頓は、笑った。
実は、キにとって、この戦は初陣であった。にもかかわらず、他の兵と違い、どこか余裕を感じさせた。
一方、冒頓もチュウも、そうしてハクもすでに初陣は経験積みであった。
チュウとハクは、当然祖国にいたころ、済ませたのだろう。
冒頓の場合は、匈奴の勢力下から脱却しそうな小さな族を、指揮官として攻めたのが初の戦だった。はっきり言って、ちんけな戦であったが、いきなり指揮官を任されたあたり、あのころはまだ父に期待されていたのだと確信を持って言える。
あの時、父は息子の明るい未来を信じて疑っていなかったし、息子は父を尊敬し、認められようと必死だった。なのに、いつからこうなったのか。もう思い出すのすら億劫だった。
「もう二十を超えているのです。いまさら、初陣など。恥にも程があります」
そう言って、キはうなだれる。
祖国を追われることになったとき、キはまだ童子であった。そして、おそらく、時をおかずして、奴婢に落ちた。初陣を飾る機会がなかったのも無理もない。
「幼少より、ずっと武芸を磨いてきました。しかし、その成果を試す機会すらなかったのです」
キが戦にしか関心を寄せない理由はそこにある。
早く、戦に出たいのだ。幼いころに流した汗が、無駄ではなかったという確証が得たいのだ。いや流したのは多分、汗だけではなかっただろう。
「なら、喜べ。これより先、存分にその力を振るってもらうことになる。働き次第では、軍も率いてもらおう」
冒頓は、また笑って、言った。
「バガツール様。やはり、敵は無警戒なようです。よもや、こちらから攻めて来るとは思っていないのでしょう」
戻ってきたチュウが、報告した。
攻めることばかり考えていて、攻められることなど想定していないのだろう。防御施設を備えた集落を築いたという事実も、敵の油断を誘ったのだろう、と思った。
斥候隊からの報告によれば、匈奴領と丁零領の間の、甌脱地には、二千の敵軍が駐留しているらしい。まずは、それを蹴散らす。
冒頓は、手綱を勢いよく引いた。馬が棹立ちになる。
「さあ、駆けるぞ。この先、止まるのは敵と相対するときか、物資を奪うときだけだ。そう心得よ」
叫んだ。 勢いよく、駆けだした。
およそ一万の味方が、あとに続く。
もう止まれない。さきほどまで停止していたところが、敵に攻撃を察知されないであろう、ぎりぎりの地点だったのだ。
朝の冷気が顔を襲った。
『万の兵を率いたい』という欲望はすでにかなった。けれど、実際に一万の兵を背中に負ってみて、思う。
――まだ足りぬ――
と。
草に生じた朝露を蹴散らしつつ、進んだ。目と鼻の先。甌脱地がある。
農耕世界で言うところの国境である。匈奴側も守備兵をいくらか配置してあった。
その守備兵の横を猛然と駆け抜けた。彼らは、この略奪軍に加勢することはなかった。あらかじめ、使者を送って、決して軍に加わることのないよう通達してあった。
略奪戦で、最も大切なのは速度である。練度の低い彼らに加勢してもらったところで、その速度が落ちるだけだ。
――あれか――
前方に報告にあった敵の二千がいる。
――すべて騎兵か――
敵の顔ぶれを見て、冒頓は意外に感じる。
遊牧民の軍は、基本的には騎兵のみで構成されている。
しかし、丁零軍は違う。丁零領は僻地すぎるのだ。馬に食ませるような豊かな草地は少ない。将来、バイカル湖と呼ばれる、大きな湖の周辺と、モンゴル高原の北。それくらいであった。
当然、牧草地が少ないということは、抱えられる軍馬の数にも限界がある。ゆえ、兵卒全員に、馬が行き渡っていない。
が、王庭へ早急に敵の侵入を伝える必要性もあるからか、この守備軍はすべて騎兵であった。
見たところ、敵は陣形すら満足に組めていない。ただ、匈奴軍の侵入を阻むように、横へ、だらりと展開しているだけだ。
敵は二千。こちらは万。敵軍は、そもそも戦うべきではない。勝ち目のない敵とは戦わない。それが遊牧民の戦である。であるのに、なぜ戦うのか。簡単である。勝ち目があるかどうか。それすら判断できていないのだ。こちらの数すら正確に測れていない。
――すっ飛ばしてきた甲斐はあった――
強襲の目論見は当たったようだ。
あとは、敵の指揮官に考える隙を与えなければ、それで勝てる。
剣を抜き払った。
勢いそのままに、敵へ向かう。少し遅れて、キとチュウ。味方も怯まず、続く。
接敵まで今少し。敵兵の放った矢が頬を掠める。
叫んだ。それを合図に、味方軍が四つに分かれる。
わざわざ停止して、陣形を整える必要はない。移動しながら、陣形を組む。幾度も訓練した動き。実戦でもうまくいった。
丁零軍は、匈奴の四つの塊に対して、ばらばらと突っ込んでくる。敵指揮官が、とっさに指示を出せなかったのだろう。ただでさえ、数で劣る敵軍は、さらに分散する形になった。
――狙い通りよ――
冒頓は、圧勝を確信する。
匈奴の四つの鏃は、敵軍を食い破った。冒頓も、ふたりを斬っていた。
匈奴軍が突き抜け、反転し、再び敵に向かおうしたとき、敵『軍』は、もうそこにいなかった。いたのは、散り散りに逃げ出す騎兵だけであった。
「追うな」
追撃に移ろうとする味方兵を制した。今は、追いすがるときではない。むしろ、例の目算のためには、逃げ延びて、こちらの兵数を丁零王へ報告してもらったほうが、都合がよい。
新生軍の初戦闘は、ほとんど被害を出さずに、終わった。敵の指揮官が、あとほんの少しでも冷静だったなら、こんな対応はしなかったはずだ。例えば、軍をひとつに小さくまとめて、四つの塊のうちのひとつに対抗されていたら、こちらも相応の被害を出していたに違いない。まあそうさせないように、四つに軍を分けたのだが。
それでも死者は、わずかながら出ていた。
見ると、キは、それに心を痛めた様子だった。初陣にも関わらず、敵兵を何人も仕留めたのだろう。血にまみれていた。
「戦だ」
冒頓は、キに、一言だけ言った。戦である以上、人の死は避けられない。そう言ったつもりだった。
キも、もう二十を超えているのだ。人の死自体には、何度か遭遇したかもしれない。少なくとも、一度も経験がないということはないはずだ。
けれど、共に訓練に臨み、共に飯を食った味方が物も言えなくなる。そういう体験をするのは初めてに違いなかった。
「人とは、これほど簡単に死ぬものなのですね」
キは、絞り出すようにそう言ったきり、黙り込んだ。
――戦にしか興味がなかった、こやつもこれを機に変わってゆくのだろうか――
冒頓は、なんとなく思った。
「二百、といったところですな」
乗り手を失い、それでもまだ使えそうな馬の数をチュウが報告した。
冒頓は、馬上でそれを聞きながら、
「わかった。投降してきた連中と一緒に、集落へ運ばせろ」
と、指示を出した。
チュウは、その指示通り、千人隊のひとつに、捕虜と馬を運ばせた。
人を奪うのと、同じくらい馬を奪うことは大切であった。できれば、兵ひとりに対して、三頭の馬がいるようにしたい。一万の兵がいるなら、実に三万頭もの馬が必要になる。今は、というと、ひとりにつき一頭が精一杯だった。
「よし。残りの者は、俺に続け。遅れた者は斬る」
冒頓は、馬体を股で締めた。
この戦の目的は、たった千人を踏み散らすことではないのだ。
東へ猛然と駆ける。休んでいる暇はない。
先の戦で敗走した連中は、まず丁零王のもとへ向かうはずだ。そして、丁零王から、各地の族へと報告がゆく。まだ匈奴軍の襲来を知らない族が多数いるはずなのだ。丁零王はバイカル湖のほとりの王庭にいる。
二里ほど進んだところで、敵の族を発見した。規模は中程度といったところだった。
蟻の這い出る隙もないくらい、天幕群を完全に包囲した。族民の男らが飛び出してきて、抵抗を試みたが、虚しい結果に終わった。容赦はしなかった。
抵抗を圧殺したのち、先ほどと同様、一隊に命じ、家畜、武器、食糧、そして人を運ばせる。
そんな調子で、数日間を掛けて、匈奴軍は、無警戒な族を次々に略奪していった。隊伍を組んで、戦おうとする族もあったが、匈奴軍の陣容を見て、たちまち戦意を失った。
――もうあとひとつ、ふたつ。襲えるか?――
このあたりで切り上げるか。それとも続行か。迷っていたとき、急報が入った。四方に出していた斥候部隊によるものだった。
騎兵三千、歩兵二千。計五千の敵軍が迫っているという報であった。
「速すぎるな」
冒頓は、顎に手をやりつつ、言った。
遅かれ早かれ、丁零側も迎撃に出てくることはわかっていた。報復を含めた迎撃である。しかし、考えていたよりずっと速い。
「撤退しますか?」
キが言った。
馬不足のためか、敵には、徒歩の兵が多数混じっている。
なりふり構わず逃走すれば、十分逃げ切れるだろう。奪った物資も、すでに運び出しが完了している。
「敵本隊にしては、予定より速い。第一、数が少なすぎる。おおかた、丁零傘下の『諸王』のうちの誰かが血気に逸ったに違いない」
そう考えた根底には、上に書いた例の目算があった。丁零王の本隊なら、もっと時を掛けて、大軍を組織するはずだった。
歩兵が多すぎるのも妙だった。いかに丁零には馬が少ないと言っても、王軍なら馬を多く抱えているはずで、これだけ歩兵が混じるのはおかしい。
ちなみに、『諸王』というのは、簡潔に言えば、ひとつの部族の長のことである。その諸王の上に立つのが、丁零王であり、匈奴王であるが、諸王は彼らに絶対服従しなければならない、というものでもない。ある程度の独立が許された連中だった。
軍の規模や速度を考えて、そんな諸王の誰かが、丁零王の指示を待たずして、迎撃に出た可能性が一番高い。冒頓はそう考えた。
「では……」
キもチュウも顔を引き締めている。主君の言わんとすることが分かったのだろう。
「受けて立とう」
物資輸送に、三千を割り当てているとはいえ、指揮下には、まだ七千もの兵が残っている。数だけを見ても、こちらが勝っている。質もこちらだろう。自信があった。
――兵にもっと実戦を経験させたい――
という思いもある。圧倒的に数で劣る、千の敵を破るだけでは大した経験にはならないのだ。
「出立」
短くそう発するだけで、軍勢はすぐに動き出した。
中々切れるところが見つからず、長くなりました。
誤字脱字、読みにくいなどありましたら、ぜひご指摘のほどをお願いいたします。