五話 奇妙な集落
例の月氏王との密談からすでに一年が経過していた。
――この馬では、物足りぬ――
寒さにかじかむ手を擦り合わせながら、冒頓はため息を吐いた。
決して、今、彼の乗っている馬が駄馬だというわけではない。夜の闇のように黒く、矢のように速いと評判の名馬である。北へと進発する折、父頭曼から与えられたのだ。
しかし、ナルと比べれば、速度も乗り心地も格段に劣っていた。一度でもナルに乗ってしまえば、どんな名馬に乗っても物足りなく感じるものなのだろう。ナルに固執していた月氏王の気持ちが、今であればわかる。
「兵の動きに、何かご不満でもありましたか」
澄んだ、心地の良い声がした。
槍を手にした男が一騎。こちらへ駆け寄ってくる。
体格だけで、他人を萎縮させかねないほどの大男である。けれども、彼の年歳は、そんな見た目に反して、若い。二十代の前半。冒頓と、ほとんど変わらない。名は『キ』といった。
キは、主の険しい表情を、訓練への不満と受け取ったらしかった。
北に着くと、冒頓は、管理を任された奴婢の中から、これは、という人物を三人、見出した。そのうちのひとりがキである。武勇に秀で、頭の回りも悪くない若者だったので、副官として、近くに置くことにした。若さゆえに、時折、かっとなる癖があり、そこが弱点であった。
冒頓は、股下の馬に注いでいた目線を、正面に戻した。
軍事訓練の真っ最中であった。ひとりひとりが槍や剣を振ることから始まり、現在、最終段階に入っていた。
いまだに雪の残る原野に、黒や茶の塊が、点々と展開している。騎兵の塊だった。ひとつの塊につき、千人。それが七つで、計七千の軍である。
塊のひとつひとつに『千長』という統率者をひとり置いていて、その千長の指示どおり、散っては集まり、集まっては散り、を交互に何度も何度も繰り返す。動きに乱れも遅れも見えない。
――ようやく、ここまでやれるようになった――
訓練に励む兵卒を見ながら、冒頓は、しみじみとそう思う。
月氏との和平成立後、彼が最初に着手したのは、父から任された一万の私兵を組織化することだった。
まず、見どころのありそうな十人を選び出し、指示と訓練の方法を教え込む。これが、千長である。その千長ひとりひとりに、また優秀そうな者を十人付ける。これが『百長』である。百長ひとりにつき、また十人を割り当てる。『什長』である。最後に、この什長に、例のごとく十人を当てる。これで一万の組織化は完了である。
十人の兵卒をひとりの什長が、十人の什長をひとりの百長が、十人の百長をひとりの千長が、そして十人の千長をひとりの冒頓が監督するのだ。
軍事組織を、以上のような十進法によって統率するというやり方は、匈奴という枠組みを飛び超え、遊牧民の中で広く浸透していったようである。その証拠に、遠い未来、世界を席巻する遊牧国家、モンゴル帝国の軍隊もこの形式を採っている。
しかし、当然、単に組織化しただけでは、軍は強くならない。
ただでさえ、冒頓が自軍に求めるものは大きい。欲するのは、ひとりが、ふたりにも三人にも相当しうる精鋭である。族長の座を手にすれば、十万をゆうに超える軍勢を指揮することになる。その大軍勢の中核を担える軍隊が欲しかった。
だから、新兵同然の彼らに、冒頓は、血反吐を吐くような訓練を課した。情けは捨て去り、傍から見れば、やりすぎだと思われるような訓練を続けた。
大雪だろうが、大雨だろうが、関係ない。ただの一度たりとも訓練を中止することはなかった。むしろ、悪天候に慣れさせる好機だとすら思った。いつも穏やかな青空の下、戦ができるとは限らないのだ。
―― 人とは、野心のためなら、これほど冷酷になれるものなのか――
訓練のたび、そう思う。だが、すぐにそんな感情を頭の隅に追いやる。そんな感情に取り込まれれば、たちまち冒頓は、かつての自分に戻ってしまうだろう。頭曼に見限られた自分に。
――この程度ではぬるい――
血のつながった父親を殺そうとしているのだ。どれだけ冷酷になっても、なりすぎるということはない。何を犠牲にしても族長の座を奪う。
半面、父は、冒頓を大して警戒していないようだ。
一万の兵を預けた上に、北に自分の土地までやったのだ。暗に、『世継ぎはお前だ』と言ってやったようなものだ。だから、反乱など起こさないだろう。無意味だ。大方、そう思っているに違いない。
だが、冒頓は、一度殺されかけているのである。いくら今は自分を認めたような態度をとっていても、いつ頭曼の心が変わるか、知れたものではない。愛する新妻が、自分の息子を匈奴の王にしてくれと、頭曼に泣きつくかもしれないのだ。だから父を殺す。確実に、族長の座につくためには、それ以外の選択肢はない。
さて、そんな過酷な訓練にやすやすとついていけたのが、すぐ隣で、冒頓の顔色をうかがっているキだった。
「いや、兵の動きは悪くない。むしろよい。よく励んでいるとすら思う」
冒頓は、そんなキに対し、取り繕うように言った。
「そうでしたか。ずいぶんとお顔色が悪かったので」
機嫌が悪いのは事実だった。
しかし、口が裂けても、『自らの意思で手放した馬を、今更、恋しく思っていたのだ』とは言えない。
だから、
「別のことを考えていた」
と、はぐらかすより他なかった。
ナルと離れ離れになってから、すでに一年が経っている。
――いつまでも女々しい――
と、自分ですら思う。
「私の早とちりでしたか」
キは、ぽつりとそう呟いただけだった。主君の気持ちをそれとなく察したらしい。
ふいに、吹く風の質が変わった。空を見ると、日が傾き始めていた。
「バガツール様。そろそろ」
キの言葉に、冒頓は頷いた。
ちょうど、ひとりの兵が、精魂尽き果てたのか、馬上から崩れ落ちた。
心配そうに仲間が駆け寄っているが、彼も遊牧戦士である。無意識のうちに、大怪我を負わないような落ち方をちゃんとしている。言葉もまだ怪しいうちから、馬と接している遊牧民だからこそ、できる芸当であった。
「今日の訓練は、ここまでとする。食事の準備をせよ。それと、誰か、倒れた者を看てやってくれ」
冒頓の言葉を皮切りに、兵士らが、あてがわれた幕舎へと、ぞろぞろ引き上げてゆく。みな一様にくたびれた表情を浮かべていた。
さきほど倒れた兵は、同じ隊の仲間ふたりに支えられ、運ばれていった。
「バガツール様。やはり……」
ぼろきれのようになって運ばれていく兵士を見つめて、キが言いかける。
「言うな。酷なことをさせているのはわかっている」
キが何を言いたいか。そんなことは、彼の暗い表情を見れば、一目瞭然だった。厳しすぎる訓練への苦言。それ以外にない。
普段、たるんでいると見た兵を容赦なく叩きのめすキだが、裏では彼らのことをよく気に掛けていた。少なくとも、冒頓なんぞよりは、はるかに兵卒ひとりひとりを愛している。
兵士たちも、戦やそのための訓練だけをしていればよいというわけではない。平時は牧民として、家畜の管理をやらねばならない。それを考えれば、やりすぎだ、というキの主張も十二分にわかる。
それでも、訓練をぬるくするわけにはいかなかった。訓練で気絶するか、戦で死ぬか。どちらかマシかなど考えるべくもないのだ。
また、訓練を怠れば、兵は死ぬ。ひとりでも死ねば、その分、他の兵士に負担がかかる。負担に耐え切れず、兵が皆死ねば、戦に負ける。戦に負ければ、女子供などの非戦闘員の末路も悲惨である。
兵本人。仲間の兵。残された者たち。訓練をぬるくしたところで、結局誰のためにもならない。
そう言い訳してみたところで、
――ずいぶんと身勝手な理屈だ――
と、冒頓は、心中で吐き捨てる。
冒頓は、あくまで自分の欲望のために、兵を鍛えているだけなのだ。兵や女子供のためを想って、訓練を課しているのではない。しかし、この勝手な理屈が間違っているとも思っていない。
「すぐに幕舎で休まれますか?」
厳しい訓練について、それ以上食い下がらず、キは話題を変えた。
「いや。久々に『集落』の様子を見に行ってみようと思う。そろそろ、『チュウ』も帰ってくる頃合いだろう」
暗かったキの表情に、ぱっと光が宿った。
『チュウ』とは、先に書いた、『奴婢の中から選び出した三人』のうちのひとりである。
これぞ軍人というような、剛毅な質で、軍の指揮にも見事なものがあった。だから、三千もの兵を預け、周囲の地形や東胡・丁零の動きを探らせている。
「では、護衛の者を招集せねば」
「必要ない。俺とお前だけでゆく」
偸盗や猛獣の類など、自分とキのふたりで十分だと判断した。自惚れや油断というよりも、それだけキの力を買っていると言うほうが正しい。
「帰るころには、すっかり日が落ちているだろう。上衣と帽子を忘れるな」
どんな時期であろうと、北の夜は冷える。一歩間違えれば、凍傷で耳や指が飛ぶ。防寒対策は必須であった。
ちなみに、上衣とは羊の毛を用いた筒袖のことである。帽子とは、これまた羊の毛を使ったもので、頭はもちろん耳まで覆える優れものである。
幕舎で待機させている千長のひとりに、『戻り次第、集落のほうへ赴くように』という、チュウへの伝言を託したのち、冒頓とキは、出発した。
幕舎群のある丘を、すこし南西に下りてゆくと『それ』はある。
二重の土塁と櫓に囲まれた、いくつかの建物群。
そのひとつひとつに設けられた、土製の煙突から、競い合うように煙が空へと向かう。
また、夕暮れのため、各住居に松明がちりばめられていた。
それは遠くから望むと、とても幻想的な光景だった。
護衛の兵を除いて、住民の全員が奴婢という奇妙な集落である。
今回、『キ』という人物を登場させたのですが、彼は架空の人物で、実在の人物ではありません。もし、ありがたくも拙作を追ってくださっている方の中で、史実の人物のみを書いて欲しかったという方がいらっしゃったら、本当にごめんなさい。今後も数人、架空の人物が登場する予定です。
本当は、私も史実の人物のみで書いていきたかったのですが、それをやると、私の調べ不足もあってか、匈奴側の人物が、父の頭曼、主人公の冒頓、冒頓の息子の稽粥ぐらいしかいなくなってしまうのです。それは、物語的に中々厳しいので、どうかご容赦のほどを。
誤字脱字、読みにくいなどありましたら、ぜひご指摘のほどをお願いいたします。