十話 月が欠けゆくとき
敗戦の報は、それだけで丁零王を驚かせるのに十分であったのだが、もっと彼を驚かせたことがある。
「なにっ、敵軍が引き上げた?」
丁零王は、元々しわだらけの額に、さらなるしわを増やしつつ、言った。
結論から言うと、冒頓の不安はまったくの杞憂に終わっていた。王は、冒頓が最初に睨んだとおり、まだ王庭にて、兵力を集めていた。
一万もの匈奴軍が、単なる略奪のために侵攻してきたとは思えなかったのだ。略奪は、もっと少数で、風のように、影のようにやるものだった。
――勇者というわりに、ずいぶん臆病ではないか――
たかが、あれしきの略奪に、ぞろぞろと味方を引き連れてやったのだ。慎重、というよりは、臆病という言葉がお似合いな行動ではないか。
頭曼の長男は、月氏との戦で、武名をあげた。誰よりも先に敵に突っ込み、誰よりも遅く退いたのだ、という。
が、
――所詮は、個の武だ――
そういう思いは、消えない。
考えれば考えるほど、はらわたが煮えくり返ってきて、王は、舌打ちをした。
――しかし、今回はその臆病さにやられた――
兵力が満ちるのを待つ必要などなかったのだ。すぐに集まる兵のみで、迎撃すべきだった。
――やつの臆病な行動は、わしまで臆病にさせたのだ――
と、王は解釈した。間違った解釈だった。
「父上。弁解の余地もございません」
しばらくして、天幕に若い男が入ってきた。息子だった。
父である自分の許可を得ず、勝手に迎撃へ向かった。与えられていた五千を、勝手に動かした。道中、息子と仲の良かった諸王が何人も、兵を貸して、九千もの大軍となった。
そして、ものの見事に負けて、ここにいる。軍は半壊していた。諸王もふたりが、戦死した。
「軍令違反の上、完全な敗退。情けない。どうか、この首を……」
「黙れ」
沈痛な表情で、死を望む息子に、厳しく言い放つ。
「お前が死んで、戦死した者が帰ってくるというなら、喜んで殺してやる」
息子は、父から目を逸らさず、聞いている。
「が、当然、帰ってはこない。くるはずがない。安易な死など許されぬ。生きて、汚名と雪辱を晴らすことだけ考えよ」
甘い言葉だった。そこには、親子の情という単純な理由のほかにも、『自分が、もっとちゃんとしていれば……』という後悔もあった。
独断専行は、確かに許されない。しかし、『ただちに迎撃する』という一点に関しては、息子が正しかったのだ。
「しかし、なんの咎めもなしとはいかぬ。任せていた、民と土地は、いったん召し上げる。しばらくは父の下に甘んじていよ」
情はあるのだが、なんの罰もなしでは、他の族民に示しがつかない。ここで、なんの罰も与えなければ、特に、独立心の強い諸王どもは、次々と勝手な行動をとるに違いない。ゆえに、こう言わざるを得なかった。
はい、と短く返事をして、息子は退出していった。
次に、戦に参加していて、かつ死なずに戻ってきた諸王を呼び出す。戦の詳細を聞き出すために、である。
もちろん、大将であった息子にも、後ほど話を聞くつもりである。さきほど問いたださなかったのは、一度気持ちを整理させるためだった。死罪を望むくらいだ。明らかに冷静さを欠いている。きちんとした報告が期待できる状態ではない、と判断した。
天幕にやってきたのは、初老の男だった。長く伸び切った髭が白い。戦で負傷したのか、右の手の甲をさすっていた。
――我が息子は、自分よりひと回りもふた回りも年上の者にすら慕われているのだ――
老人を見て、思った。
負けは決して許されないが、息子には人望がある。
申し訳なさげに、頭を下げる老人を座らせ、彼我の陣容、布陣、戦いの経過などを尋ねてゆく。
話を聞いてみて、王は、意外に思った。
九千で七千に敗北したと聞いたとき、てっきり息子が愚かな布陣を敷き、愚かな指揮を執ったのだろうと考えた。つまりは、自滅である。
が、どうも実態は違う。少なくとも布陣に誤りはなかった。指揮についても、擁護の余地がある。
先頭の二部隊を後退させるという偽装に、はまったらしいが、自分が指揮していても、はまっていたのではないかと思えてしまうのだ。
ひどく統率のとれた軍隊。過酷な訓練をやっていると耳に挟んでいたが、これほどの軍勢だとは、思いもよらなかった。
戦場において騙され、敗将となった老人の話を聞き、ある疑問が、頭の片隅にふと浮かぶ。
―― まさか一万もの兵で略奪をやったのも、わしを騙すためなのか?――
もし、こちらの足を止めるために、あえて大軍でちっぽけな略奪を行ったのであれば、これはもう臆病と馬鹿にできない。
―― しかし一度、父親に見限られた男だぞ?――
わいてきた疑問を覆い隠すように、次の疑問が重なる。
頭曼は確かに、性情が汚く、陰湿だが、無能というわけではない。匈奴という脆い組織が分解を起こさないのも、あの男の存在があってこそだと、丁零王は思っている。現に、ばらばらだった諸族をまとめたのは、他ならぬ、頭曼なのだ。
――その頭曼が見限った男が、優秀なものか――
という思いが、王の思考を曇らせる。
――月氏との戦は、個人の武勇。さきほどの戦は、小手先の戦術だ。一万で攻めてきたのも臆病なだけだ。たかが一度の活躍で、勇者などと言われているが、本質的には、臆病者なのだ――
結局、こういう結論に終わってしまう。
「すぐに取って返しますか?」
老人が、聞いた。
九千が半壊したものの、まだ一万以上の軍が手元に残っていた。すぐに攻め込むのも、不可能なことではない。
けれど、
「いや、それはやめておこう」
と、王は言った。
諸王がふたりも戦死している。うち、ひとりは息子がいたから、その者に跡を引き継がせればよいとして、もうひとりは子供がいない。子供がいないとなると、残された部民をどうするのか、を考える必要がある。諸王と血縁のある者に率いさせるのか、それとも自分の支配下に取り込むのか。
「悔しいが、仕切り直しだ。族を立て直せ。今回の敗北は、息子の不手際によるものだ。こちらもできる限りの支援を致そう」
「ありがたいお言葉です」
再度頭を下げて、老人は出て行った。
そのあと軍を解散させ、各族に指示を出した。それだけのことにずいぶん時間を費やした。
今やらねばならないことを終えると、近侍の者を呼び、『酒』を運ばせた。
『酒』と言っても、中国で飲まれるような、米から造られた酒ではない。馬の乳から造った酒である。酸味が非常に強いが、栄養価は高い。牧民にとっては、馬乳酒こそが『酒』だった。
そのまま杯を手に、天幕を出る。もう夜の帳が落ちていた。
いつもの習慣だった。凍えるような外気に当てられて、酒を飲む。身体の外側は寒く、内側は熱い。その差異に痺れる。戦場のそれと近い感覚を味わえる。戦をしているような気分になれた。だから、好きなのだ。
わずかな供回りのみを連れて、すぐそこの湖へ向かった。のちの未来、バイカル湖と命名される、広大な湖である。そのあまりの広さゆえか、『北海』とも呼ばれる。
従者が、酒を注ぐ。その音がまたよい。
――いつ、この報復をしてやろうか――
湖面を見つめて、考えるのはそれだけだった。
風が吹いた。湖面で、何かが揺れた。
月だ。ゆらゆらと踊っている。
顔を上げた。
美しい三日月だった。明日、明後日と月は満ちてゆくだろう。
匈奴には、月が満ちてゆくときを吉とし、欠けてゆくときを凶とする風習があった。
だから、攻撃するなら月が欠け始めるときだと、王は思っている。
薄れつつあるしきたりであり、頭曼を中心とする指導者層は、さほど気にしていないかもしれない。が、兵ひとりひとりとなると話は別である。牧民というのは元来、素朴な者が多く、そのため信心深い。
――多少の動揺は見込めるはずだ――
強い酔いに襲われながら、丁零王はそう思った。
月に雲が、かかった。
付近が、闇に包まれる。
月が隠れてしまうと、頼りにできるのは、配下が掲げる松明の灯りのみである。
王は、また手元の酒をあおった。
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