一話 変化の逃避行
虫の音響く夜の草原に、いくつもの天幕が群れをなしていた。風が吹くと、そのすべてが揺れて、大きな波のようになる。ひどく風の強い日であった。各所に配された炬火が、ちりちりと音を立てている。
この場所を『王庭』という。『王庭』とは簡単に言えば、遊牧民の都である。むろん、彼ら遊牧の民は定住することがないから、王庭も常に移動してゆく。
王庭の主は『月氏』王。『月氏』は、当時急速に勢力を拡大していた西の大族である。楼蘭や烏孫など、西域の族を次々と支配下に置き、東西の交易路を独占。そこから取れる税によって、富んでいた。
王庭内を塊になって、移動する小集団がある。彼らは、息をころして進んでいた。
ある者は剣を、ある者は槍を、ある者は弓を。思い思いの武器を取ったこの一団は、ひとつの幕舎を包囲した。天幕群の中心部から少しだけ離れた小さな幕舎であった。
一団を統べる長らしき男が、部下たちを残して、幕舎の中へ踏み込む。
父親に見捨てられた哀れな人質を拘束し、王の下へ連行する。たったそれだけ。いたって簡単な仕事のはずだった。
幕舎の中は、真っ暗で静まりかえっていた。
――もう寝ておるのか。のんきなものだ――
男は、にやっと笑った。
だが、炬火で舎内を照らすと、その緩んだ表情は、たちどころに消え失せた。
地に広がる赤。異臭。血だった。
男は、遊牧の民である。それがなんの動物の血かなど一目でわかる。狼でもなければ、羊でもない。馬でもない。人のそれ、である。
――己の危機を察し、諦めて自殺したのか――
男は一瞬そう思ったが、違った。
死体の正体は、人質につけられていたはずの見張りだった。
剣を抜いて、幕舎の中を再び見回す。誰もいない。事態は明白だった。
男は血相を変えて、外へ飛び出し、部下たちに、逃げた人質の捜索を命じた。
全員、血眼になっての捜索が行われたが、どこを探しても発見できない。それもそのはずである。すでに彼らの手が届く場所に、『探し物』はなかったのだから。
捜索中、ひとりがある事実に気づき、震えた声でこう叫んだ。
「お、王の馬が……、王の馬がいない!」
青年は、暗闇の中を疾走していた。手に持つ炬火が浮き上がらせる、わずかな景色だけを頼りに進む。
自分を乗せて走る駿馬を、彼はじっと覗きこんだ。王庭を脱出してから、今の今まで走りっぱなしである。普通の馬ならば潰れてしまってもおかしくはなかった。が、この馬ときたら涼しい顔をしている。
しばらく行くと、青年は馬を急停止させ、その手を目の上にやった。眼前の丘のむこうに、思わず眩むような光が見えたのだ。朝日だった。
光があれば、闇も生まれる。今回、闇が生まれた場所は青年の心中だった。
――やはり、引き返そうか――
父のもとに帰るのが嫌になったのだ。戻って殺されたほうがマシではないか、とすら思える。
青年の父頭曼は、中原の人からは『匈奴』と呼ばれる、族の長である。
青年は頭曼の長男であり、跡継ぎだった。だが、彼の母が死に、頭曼の寵愛を一身に受けた新妻が子を成すと、彼の置かれた状況は一変した。
――今の妻の息子に跡を継がせたい――
と、頭曼が考えるようになった時、青年は跡継ぎから、ただの邪魔者になった。
青年の側にも非はあった。確かに、文にも武にも才気のきらめきは感じる。だが、匈奴という大族を率いるには物足りない。なにより事態への対応が遅い。今のように何かを目の前にして、立ち止まってしまうことが多かった。だが、それを単に愚鈍であるとし、彼に見切りをつけてしまうのは大きな誤りだった。人一倍、頭が回り、思慮深いがゆえの停止であった。行動は停止しても、思考は停止していなかった。
おそらく彼に欠けているのは、意志。野望と言い換えてもよい。行動の指針。それがないから、決断が鈍る羽目になる。
さて、厄介な長男をどうにかしたい頭曼は、実に狡猾な策略を思いついた。まず、宿敵月氏と和平し、友好の証に、長男である青年を人質に出す。そうして、しばらく下手に出ておいて、月氏が油断した頃合いを見計らい、和平を反故にし、奇襲を仕掛ける。裏切りに怒った月氏の王は必ず長男を始末してくれるだろうし、さらに月氏の不意も衝けるやもしれない。一石二鳥の策だった。
長男を人質に出して、一年が経ったころ、ついに頭曼は計画を実行した。
月氏領と自領との『甌脱地』を密かに攻撃した。さらに、楯突いた、月氏配下の族、楼煩を軽く蹴散らし、月氏領へ攻め込んだ。
説明の必要がある。まず、『甌脱地』とは、ある族とある族の領土の境界にあり、それぞれに守備兵を配置しておく場所である。無駄な争いを避けるための緩衝地、程度に捉えておけばいい。
また根本的誤解として、『遊牧民は、領土など持たない』というものがある。だが、遊牧民にも、領土という概念は確かに存在する。一定の範囲を周期的に遊牧していくのだ。
土地という束縛から、完全に解き放たれた人間など、実は存在しないのかもしれない。
匈奴の裏切りを知った月氏王は、その代償に、人質である青年を殺すよう、配下の者に命じた。が、父の狙いに気づいて、事前に逃亡の準備を完了していた青年は、間一髪で逃げ出すことに成功した。そして、今に至るわけである。
――誰が、俺の帰還を望んでいるというのだろう――
怒りと悲しみに苛まれながら、心の中で青年は自問した。
青年の自問に答える者がいた。今まさに彼が跨っている駿馬であった。月氏王が愛して止まなかった名馬。目立つ白銀で、筋肉質の体躯、立派なたてがみ、生まれ持った速度と耐久力。どの特徴を取っても一級品だった。
駿馬は、突如嘶き、竿立ちになった。
青年は、なんとか宥めようと躍起になったが、言うことを聞いてくれない。静まるどころか、勝手に走り出す始末だった。
速い。振り落とされないようにするのがやっとである。日光に向かって走っていた。
丘の頂上に達したところで、ようやく止まってくれた。
青年は、全身で朝日を浴び、伸びをした。心を覆っていた闇が消えていき、無心になった。
将来への不安も、自分を捨てた父への怒りも、消え失せていった。ただ静かな心で目の前に広がる草原とその先にある日を見つめた。
ふと、ひとつの感情が湧いた。純粋な欲望だった。
――駆けたい――
青年の心中が筒抜けなのか、馬はまた勝手に駆けだした。
――駆けたいのなら、なぜ駆けないのか――
と、馬に叱咤されたような気分だった。
風を感じた。朝の風は、淀みが一切ない。澄み切った空気を鼻が、口が、吸いこんだ。すこぶる気分が良い。
日が落ちてきたので、木の上で休むことにする。馬は下に繋いだ。獣に襲われたら、ひとたまりもないのはわかっていたが、背に腹は代えられない。
次の日、幸い、馬は無事だった。だから、また思いっきり駆けてみた。今度は、自分の意思で馬を走らせた。馬は満足そうに唸ったあと、彼の指示に応えた。
最初のうちは、昨日と同じように、気分が良かった。
だが、駆けるうちに、一抹の寂しさが生まれた。最初は小さかった寂しさが、走り続けていると、どんどん大きくなった。言ってしまえば、たったひとりで駆けることに飽いた。
――もっと大勢と駆けたい――
そう思い至ったとき、青年の中の何かが変わった。
――帰ろう。父のもとへ――
青年は思った。
もし彼が、族に戻らなかったら……。そう考えると、これは歴史の動いた瞬間だった。
多分、そんなに長くはならないと思います。中編といったところでしょうか。
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