2.悪魔の泉
エリオットが泣き叫ぶ声は狭い村中に響き渡り、しばらくすると村人が集まってきた。
「まあ……エリオット……」
集まった村人の中から、先程鹿の肉を持ってきてくれたバンジーが進み出る。
「今日はあんたの誕生日だったのにね。かわいそうに……」
バンジーはそう言ってエリオットを抱きしめた。
「主がいなくなったんじゃ、なあ。ガキには家賃払えねえだろ……」
突然ひとりの男が家の中に入ってきて、呆然とするエリオットを尻目に次々と家具類を家の外に運び出していく。
「この家は元々俺のもんなんだ。返してもらうぜ」
「あんたねえ……そんなの後でいいだろ! まずは弔いを……」
バンジーがたまらず男に詰め寄ると、男は手を休めずに言った。
「弔い? んな必要ねえよ。俺は聞いてたんだ、ホールスの話を。命がなくなって当然だね。こんな奴らに何かしてやる義理なんてなーんにもねえよ」
エリオットは顔を上げた。男は相変わらず、わずかしかない家具や生活用品を運び出している。その中に先程作った鹿肉のスープなどもあったが、エリオットはただ見ていることしか出来なかった。
「どういうことだい? ホールスは何を……」
バンジーがエリオットに優しく問いかけると、それに答えたのは大家の男だった。
「ハッ。よく聞きやがれ。こいつは、エリオットは創始者アリネウスに造られたんだよ!」
野次馬の村人も、バンジーも、それを聞いて皆凍りついた。誰も、何も言葉を発っしない時間がいやに長く感じられる頃、男は家具を運ぶ手を止めて語りだす。
「俺は、たまたま、バンジーのばばあが肉を持っていくのを見てな。大家の俺も少しばかり分け前をもらえると思って戸口のところまで来たわけよ。そうしたら、何かが割れる音がしたんだ。こりゃただごとじゃない、俺は戸口に耳を近づけた。そんで聞こえてきた話は何よ! とんでもねえことを聞いちまった……」
鬼気迫る様相で語る大家の男。村人達は一言聞く毎に表情を険しくしていった。男の大声を聞いて後からやってきた村人も、話が分かると相槌を打ちながら男の話に聞き入っていくのだった。
創始者アリネウスは、この世界を作るために悪魔と契約を交わした、とも言われており、悪魔に取り込まれてしまった創始者は、長い歴史の中でいつしか彼自身が悪魔と呼ばれるようになっていた。世界を作った、それ故に世界には争いが生まれた―――人間の勝手な解釈は創始者の魂をますます怒り狂わせ、争いは争いを呼んだ。ピールヘイルのような小さな村では悪魔の伝承を覆すだけの資料も教育も存在せず、村人達はみな「ホールスはわが子ほしさのあまり悪魔に身を捧げた」そう口々に言い出した。
男の話はさらに熱を帯び、話は次第に肥大化していく。
「……だからせめてもの償いとして、悪魔の子であるこいつをいつか殺してやろうと思った。だが病のせいでかなわなかった……」
「違う! 父さんはそんなこと言ってない!」
「おだまり!」
気力を振り絞って声を上げたエリオットを遮ったのは、驚いたことにバンジーだった。男はますます調子に乗り、あることないことをべらべらしゃべる。村人たちはそんなうその話に対し、次第にホールスに同情する声が多く挙がるようになった。
「そうだ。ホールスは正しい」
「ニラ、悪魔の子を産むなんて、なんてかわいそうに……」
もう、エリオットに同情するものはいなかった。
「ホールスたちが為しえなかったことを、俺たちがやろうじゃないか!」
村人の一人がそう言うと、狂気が伝染した村人が次々と声を上げる。いつの間にか、エリオットの家を囲む村人の輪が大きくなっていた。ひとつ、石のような物が飛んできたのを合図に、次から次へと何かが飛んでくる。エリオットのそばにいたはずのバンジーは、もうどこにも見当たらなかった。
「悪魔め!」「村から出て行け!」「死ね!」「消えろ!」
身を守るものは何もない。その場にしゃがみこんだエリオットはどうすることもできず、身体と心の痛みに耐えるしかなかった。
ふと視界の端に、何人かの村人が刃物を持っているのが見えた。小さい村、家族のように育った村人たちが明確な敵意、殺意すら自分に向けてくる。エリオットはどうしようもなく悲しくなり、泣き叫んだ。自分でもわけのわからない言葉を次々と叫んだ。
どれだけ時間が経っただろう。エリオットは長いこと気を失っていたようだった。
あたりを見渡すと、自分が本当に目を開けているのかさえわからないほどの暗闇が広がっている。すると不意に目の前がぼうっと明るくなり、小さな泉が現れた。
自分は夢を見ているのだろうか? それとも、ここは死後の世界なのか……。エリオットが泉を見つめていると、水面に一筋の影が落ちる。
『お前は、何を願う?』
影が、言葉を発した。かのように思ったが、実際は耳元で囁かれているかのようでもあった。答えずにいると、再び同じ声が言う。
『お前は、何を願う?』
「あっ……」
その耳触りのよい声の響きに、エリオットは思わず口を開いてしまう。僕が願うもの……父さん、母さん、村人たち、幸せな日々、普通の暮らし……様々な言葉が、思いが、頭を駆け巡った。しかし同時に、死に際の父の言葉がそれらを想いの中に押しとどめる。
「……あっ……あなたは……」
エリオットは、やっとの思いで声を絞り出した。
『お前は、私を知っている』
水面に落ちる影は、わずかに揺らいだかと思うと再びエリオットの耳元で言葉を発した。
「あなたは、創始者」
今度は自信を持って答える。なぜかはわからないが、自分の考えに自身が持てたのだ。姿見えぬこの人は、悪魔と呼ばれる世界の創始者であると。
『……願いを言わぬ人間とは、めずらしい』
少し、声が耳から遠ざかった気がした。
『お前の願いは、家族、幸せな暮らし、そうだろう?』
声が再び近くで囁く。思わず引き込まれてしまいそうな心地よい声だったが、エリオットには少し引っかかることがあった。
「確かにそうだけど、あなたには叶えられないよ。だって、母さんがいなくても僕はそれなりに幸せだったし、幸せの基準なんて人によって違うでしょ? 僕の幸せは、あなたには理解できないよ」
『ほう……』
創始者の声は興味深そうにエリオットの周りを回った、気がした。
『ではなぜ、私を呼んだのだ』
「え?」
正気に戻りつつあったエリオットだったが、創始者の言葉に少し動揺した。僕が、創始者を呼んだ……?
「……どうやって?」
疑問が正直に口から出た。
『ほう……』
世の中知らないことだらけだなあ……。エリオットは素直にそう思ったが、心の動揺につけ込むつもりだった創始者は少々感心しているようだった。
『人間はよく私を呼び、勝手なことを願っていくが、お前のような奴は初めてだ』
もう、耳障りのいい悪魔の囁きは気にならなくなっていた。
「呼び出したのはあなたでしょ? だってここ、僕の家じゃないし」
『……ほぅ』
なんだか調子が狂ってきた。創始者の声は気配をひそめてしまう。沈黙に耐え切れなくなったエリオットは泉の影がまだ消えていないことを確認し、こちらから創始者に話しかけてみた。「なにか悩みでもあったの?」
―――。言ってしまってから、もう少し言葉を選べばよかったと思った。相手は悪魔だ。下手なことを言えば殺されてしまうかもしれない。いや、もう死んでいるのかも……
エリオットも押し黙ってしまったので、沈黙は続く。すると泉の方から声がした。
『……変な人間だ』
もう触りのよい囁き声ではなかった。泉を見ると影に変化はなかったが、創始者は確かにそこにいるのだとわかる。少しだけ親近感がわいたエリオットは、泉に近づいて言った。
「ごめんなさい、変なこと言って」
『お前は、両親の命を奪った私が憎くはないのか。私を殺すことを願ってもよいのだぞ。おまえ自身の命を初めからやり直すことも―――』
意外とおしゃべりなんだな。もはや普通にしゃべる影(影はしゃべらないけど?)を見ながら、エリオットはそんなことを思った。
「僕はもう、死んでしまったのかな」エリオットは諦めたように呟く。「創始者さん。あなたを憎んでなんかいないよ。僕を作ってくれてありがとう。すごく幸せな十五年だった。父さんには怒られそうだけど……父さんと母さんに会いに行くよ」
エリオットが泉に笑いかけると、影がやさしい声で話しかけてきた。
『お前は、死を選ぶのか』
父親のようなあたたかさのある声に少し驚いたが、エリオットは笑顔のまま答える。
「はい」
『よろしい』
影が消えていく。同時に、自分の命も消えていくんだ。エリオットは静かに眼を閉じた。すると、やさしい声で悪魔が囁く。
『ではお前の死と引き換えに、願うものは?』
……そうだなあ。村人たちの幸せ? あ、世界平和? うーむ、どれもこれもイマイチぴんと来ない。エリオットはゆっくり目を開けてみたが、景色に変化はなかった。
「……だって、僕死んじゃうんでしょ?」
エリオットを試すかのように、影は答えない。困ったなあ、これ言わないと死ねないのかな。無条件で静かーに死ぬ、っていう願いはだめ? いろいろ考えた結果、エリオットはこうしてみることにした。
「じゃあ、あなたの願い事を聞く、っていうのは?」
願いを叶えるわけではない。意外とおしゃべりな悪魔のことを思い出し、話し相手になるくらいなら、と思ったのだ。
『……よろしい』
さて、どんな話が聞けるのか。母さんがこの泉に来たときのこととか聞けるかな? エリオットはおしゃべりで淋しがりやな悪魔の姿を想像して、少し笑った。
それは突然だった。エリオットの足元はいつの間にか泉の水に浸っている。驚いて辺りを見ると、先程まで影が差し込んでいた場所には何もなく、そうしている間にも水かさは上がり続けていた。岸を探そうにも暗闇が広がるばかり。ここはこんなに広かったのだろうか。
とうとう足がつかなくなり、水を吸った服の重みに耐えられず、エリオットは溺れる間もなく泉に沈んでいった。
もともと死ぬつもりだったからいいけど、悪魔さんの話、聞きたかったなあ……。不本意な形で訪れる“死”に対してエリオットが心の中でそう思っていると、エリオットの心の中で声を聞いた。
『お前の“願い”、しかと聞き届けた』
耳触りのよい、あの声だ。息が苦しくそれ以上思考が回らなかったが、その声だけはしっかりと心に刻まれていく。
『私の願いは――――』
エリオットはゆっくりと、闇に沈んでいった。