枯れた白薔薇
私の拙い文章を読んでくださるというお心の広い方のみ、スクロールしてください。
僕には憧れの先輩がいる。
彼は誰よりも澄んだ、美しくも物哀しい音を奏でる、このオーケストラのコンサートマスターだ。彼は本当なら威張っていてもおかしくはない場所にいるにも関わらず、関わらず僕ら下っ端にも気さくに声をかけてくれて、練習にも付き合ってくれる人徳者なのだ。
「おう、お疲れ」
合奏が終わった後。彼はそう言ってひょいっと片手を上げた。それに合わせて、鈍色の小さな指輪を通したペンダントが彼の胸元でシャラリと揺れた。
「あ、先輩!ちょっとここの部分合わせてくれませんか?」
普段と同じようにお願いすると、彼は珍しく困ったように笑った。
「ああ、悪いな。今日は用事があるんだ。明日で良いか?」
「えぇ?明日は朝一から合奏じゃないですか」
粘ってみるが、彼の返事は芳しくない。
と、その時。向こうからチェロを演奏している先輩が歩いてきた。
彼は僕の憧れの先輩と同期で、チェロひとつで七色の音を奏でる素晴らしい奏者だ。彼は僕らの近くにやって来ると、
「明日にしてやれ。代わりにおれがそこ、見てやるから」
と僕の肩をポンと叩いてニヤリと笑った。そして、
「ほら、お前も早く行けよ」
と人が悪そうな笑みを浮かべて彼の同期に向かってシッシと追い払うように手を振った。すると先輩はほっとしたような顔をして、
「おう。ありがとな」
と、いつものようにバイオリンを背負ってホールを出て行った。その様子は用事があると言う割には、全く急いでいるようには見えない。
「えええ?いつもは練習付き合ってくれるのに…」
納得のいかない僕のつぶやきを拾ったチェロの先輩は、眉を下げて笑った。
「今日はあいつの恋人の命日なんだ。許してやってくれ」
その言葉に僕は目を見開いた。
…あの誰にでも優しく、女性にも人気のある先輩に恋人がいたなんて初耳だ。しかも亡くなっているなんて…。
「その方、どんな方だったんですか?」
尋ねると、チェロの先輩はどこか遠くを見るような目をして語り始めた。
「彼女は…練習熱心なヴィオラ奏者で、あいつの幼なじみだったんだ」
そうして始まった話を聴き終わった時、僕は知らずに涙を流していた。
「…フィア、今年も来てやったぜ」
俺は手にした三本の薔薇を彼女が眠る十字架の元に捧げた。
「ったく、昔はうるさかったくせに無口になりやがって」
話しかけても答えてくれる彼女は、もういない。それでも、ここに来ると声をかけられずにはいられない。
「そういえばフィア。お前が可愛がっていた後輩が、今度ウィーンに行くんだぜ」
ここにいる時だけ、側に彼女に会える気がするから。
「すげぇだろ?それにな、あのハゲの下手くそな指揮者が辞めて新しい指揮者が来たんだ」
なあ、お前は十年経った今でも会いにくる俺を女々しいと怒るだろうか?
「そいつがあのハゲと比べようもないくらい上手くてさ。オケの音もどんどん良くなってくんだぜ!」
それとも、早く幸せになりなよと、呆れたように笑うだろうか?
「やっぱ指揮者って大事だよな」
…どちらでもいい。
「あ、そういえばチェロのあいつがさ、この前ピアノ奏者の奥さんとコンサートでデュエットしたって自慢してきたんだ」
だけれど、一年に一度だけでいいから。
「…俺らも一緒に、舞台に立ちたかったな」
お前に会いにくる俺を、許してくれ…。
ポロリと、一粒の涙が溢れた。
風が涙を、供えられた薔薇をさらって、青い空へと駆け上っていく。枯れた、白い薔薇を…。
その時、ふと彼女のヴィオラの音が聞こえた気がした。それは彼女が愛した青空のように澄んだ、心地よい音だった。
「…というわけで、彼女はやっとチャンスをつかんだあいつを庇って死んじまってな。でもそのせいで、あいつが一番叶えたかった夢が二度と叶わなくなったんだ」
そう言って話を締めくくった先輩は、一粒だけ涙を零した。
「そう、だったんですか…」
やっと出た僕の声は、涙に湿って震えていた。
次の日の朝。
憧れの先輩はいつものようにバイオリンを背負って現れ、ひょいっと片手を上げた。
「おう、昨日は悪かったな。で、どこを合わせて欲しいんだ?」
ニヤッと笑った先輩の胸元には。
鈍色に煌めく、少女の指にぴったりの指輪が揺れていた。
お読みくださり、ありがとうございました。
ちなみに、枯れた白薔薇の花言葉は「生涯を誓う」、三本の薔薇の花言葉は「愛している」です。