第一夜
角朗は、美千子と別れて帰宅すると、早速ホラーを書き始めた。
見に迫ってくるような怖さを求めて。
角朗は、美千子のアドバイスが効いたのか、比較的スムーズに書き進めることが出来た。
といっても、"迫ってくるような"と聞いてすぐに考えついたのは、液晶ディスプレイから髪の長い人が飛び出してくるような話であり、それでは何かもともとあるような――すなわちパクり――になりかねないので諦めた。
折角"迫ってくるような怖さ"というヒントを得たものの、それだけではありきたりで詰まらないと感じた角朗は、それに+αした話を考えることにした。
そうして、次のようなストーリーになった。
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「はぁ、疲れたなぁ」
背広を着たその男は、家路をぶらぶらと歩いていた。毎日毎日の仕事が辛いぶん、のんびりと歩けるこの時間が好きだった。
男はただまったりと歩き続けていた……
……のだが、のんびり出来る時間は突如として終わりを告げた。
「そこのアナタ!」
突然見知らぬ老婆に話しかけられる。男は訝しげに老婆の方に振り向いた。老婆は椅子に腰掛けていた。老婆の前には小さな机がおいてあり、『占い』と書かれた行灯がのっている。
なんだよ、折角ひとがのんびりとした時間を過ごしているというのに。どうせ他人から金を巻き上げようとでも思っているのだろう? 残念だが、俺は騙されないぜ。
などと男は考えていたのだが、老婆の方が上手だった。
老婆はとても驚き慌てた様子で、
「気を付けて! アナタ、呪われているわよ」
と叫んだ。
するとその時、男の横を車が大層なスピードで過ぎ去った。
男は、危ない! まさか本当に呪われているのか? と、あっさり老婆の言葉を信じてしまった。……その車が老婆の仲間によるものだなんて気付かずに。
「ねぇ、言ったでしょ。アナタはどうやら呪われているようなのよ。でも安心して。毎日アタシのところにくれば、呪いを葬り去ってやるから」
老婆は、ゆっくりとそう言った。
こうして男は老婆の詐欺にかかってしまったのである。男は、もう自分が呪われていると信じ込んでしまっていた。
そして、それを信じてしまった途端、身の回りのなんでもないことが、呪いによるものだなんて考えてしまうようになるのだ。
突然、雷鳴が轟いた。
どしゃ降りの雨が降り始める。
今は夏なのだから、夕立なんてよくある事であるのに、老婆に"呪われている"と言われ、信じ込んでいたため、男はその雨さえも、呪いによるものだと考えてしまった。
男は恐怖に怯え、自宅へ駆け出した。
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角朗は、ふと思った。
……あれ、これホラーじゃないような気が。
しかし、角朗は"本当は呪われていない人"が"存在しない呪い"に"迫りくる恐怖"を感じる設定だって面白いだろう。と考えた。
これなら、美千子に言われたように、呪われたりはしないだろう。きっと。たぶん。
とにかく、角朗は執筆に戻ることにした。
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雷は鳴り続いていた。雨も酷い。
だが、男は自宅へ向かうその足を止めようとはしなかった。大体、この雨のなか、止まったところで濡れることに相違ない訳であるし……。
とにかく、男はひたすら走り続けた。安心出来る場所であるはずの、自宅へ向けて。
男はゼェゼェと、荒い息をしながらも、自宅の前までたどり着いた。
ガチャガチャと大きな音を立て、門を開けようとするが焦っているせいで、なかなか開けられない。くそぅ……!
雨は降り続いていた。それだけでなく、どんどんと勢いを増して降っている。男は、その雨の冷たさに落ち着きを取り戻したのだろうか、やっとのことで、門を開くことが出来た。
男は、何か恐ろしいものが家に入って来ないかを警戒する様子で、門を締める。男はほっとした様子で自分のカバンから玄関の鍵を取り出した。
男の背後では激しい雷鳴が鳴り響く。それはもう、地面に響いてくるような爆音で。
男は、鍵を開けた。本当の安堵を浮かべて家に飛び込む。
男は、速やかに部屋の(正確には廊下の)電気を点けようとスイッチに手を伸ばす。男の手が、スイッチに触れた。
――良かった。
男は、落ち着いて、ゆっくりと、そのスイッチを、ONにする。
――勝った。俺は助かったのだ。
そんな思いを浮かべながら。
……しかし。
男の部屋の電気が点くことはなかった。
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うん、なかなか良い感じだ。角朗はホッとした。なんだかいかにも迫ってくるようなホラーっぽいことが書けた気がする。男は、ついに呪いの自宅への進入を許してしまったわけだ。
角朗の表情は緩みきっていた。次の瞬間までは。
窓の外で、激しい閃光!
と同時に、轟く雷鳴!
突如として、角朗を雷が襲った。
驚き、恐れ、怖れ、竦む角朗。
角朗は不安になった。まさか、停電したりはしないよな と。
だがここは、現実世界。そんな簡単には停電なんて起こらない。角朗の小説のなかの世界とは違うのだった。
とはいえ、この出来事は角朗の"自分が呪われているのではないか"という、疑念・不安感を誘うには十分なものであった。