トモダチの話
「なあ、お前好きな人いんの?」
日が沈み始めた教室の放課後。
どこかの映画のワンシーンみたいに寂れた建物の合間を染める茜色の空を、箒の柄に顎を乗せて何となしに眺めていたら、不意に背中から声がかかった。
振り向かなくてもわかっている。ここにいるのは掃除当番の僕と彰浩しかいない。
「別に」
ぞんざいに答えたら、「まあそうだろうな」とぞんざいな答えが返って来た。ちょっとばかりむっとした。
「何だよ。じゃあ、彰浩はいるわけ?」
「いるけど?」
え、と目を丸くして彰浩の方を振り返る。掃除のやる気はないけれど帰ることもしない彰浩は、机に座って足をプラプラしながら頬を掻いていた。照れているのかもしれないが、やり方は古いと思う。いや、別に今はそんなことはどうでもいい。
「彰浩、好きな人いたんだ。え、嘘。だ、誰? いつから? 僕の知っている人?」
「何だよ、急に食いついてきて」
「いや、食いつくとこだろ、ここは。彰浩、そんな様子見せなかったし」
「そうか? まあ、そうかも」
「で、誰よ」
結局、僕も帰るのが面倒で教室に残っていただけなので、掃除など毛頭やるつもりもない。箒は適当に投げ出して、彰浩の前の席へと腰を下ろした。身を乗り出す。
「同じ部活の奴なんだけど、さ。まあ、ちょっと話すようになって。趣味が合ったつーか、気が合ったていうか。女子と話していて楽しいのって始めてかもって思って」
「彰浩と趣味が合うっていうのは、珍しいね」
そう言いながら、僕は笑った。笑って、笑顔で、心の内でほっとしていた。
同じ部活か。
「泳ぎもさ、綺麗なんだよ。こー、フォームが。水しぶきなんてほとんど立てないのに、すーって滑るみたいに泳ぐんだよ」
「ふーん、いや。別にそこはどうでもいいんだ。君の部活の話は聞いてない。で、いいから。名前を教えろよ」
もう、実際の興味の半分以上は失っていたけど、一応聞いた。彰浩はトモダチだから。トモダチだったら、やっぱりこういう反応だろうなあと思って。
夕日に染まったせいか、恥ずかしさのためか、僅かに頬の赤くなった彰浩は口をモゴモゴさせたかと思うと、その思い人の名前を言った。僕も知っている人の名前だった。確か、隣のクラス。美人で有名だった気がする。気がするというのは、名前を知っているだけで顔はよく知らないからだ。
「はー、あの人か。彰浩くんもなかなか厳しい人選びますね」
「でも、彼女にしたいとか、どうとか、別に思わないって」
「好きなのに?」
「何か、よくわからないんだよな」
わからないのは彰浩だと言いたかったが、そこは配慮しておく。代わりに目で訴えたが、彰浩は無視して座ったまま上背を伸ばした。背の高い彰浩は座高も高いようで、ちょうど顔が夕日の影になって見えなくなる。
「男女の好きって、何が違うんだろ」
知らねぇよ。こっちが聞きたい。
「さあ」
「好きなんだけどさ。何か、それは友達として好きなのか、異性として好きなのか、わかんねぇんだよな。でも、女にこういう感情抱いたのは初めてだし」
「じゃあ、そうなんじゃないの」
「何だよ、素っ気ないな」
「別に。彰浩のお子ちゃま振りに呆れちゃって」
はー、とわざとらしくため息を吐く。彰浩はむっとしたようだが、無視した。こちらの空気を読めない奴にわざわざこちらが合わせるつもりはない。
お互いにそれから黙っていると、廊下のほうから元気な足音が聞こえてきた。タッタッタッタ、とリズムよく響くその音は、この教室の前でピタリと止み、代わりに大きな音を立てて黒板側のドアが開く。
「あー、居た! 祐くん。もう、何てことしてくれてんのさ!」
ちょうどいいタイミングで、ちょうど良くないタイミングで、足音の主は声を張り上げた。
微妙に険悪な雰囲気へと傾きかけていた空気は見事に吹き飛ばし、肩を怒らしながら僕のほうへと歩いてくる。僕は、降参、と両手を挙げた。
「ちょっと、何で頼んでおいたプリント先生に持っていってくれなかったの!」
「えー、あー。言っていたね。そんなこと」
「言っていたじゃないよ。私、先生に怒られちゃったじゃん」
「まあ、でも、それは亜樹の自業自得じゃない。『購買に行かないと! 祐君お願いねっ』とか言われてプリントを顔に叩きつけられてもねぇ」
「お願いしたじゃん!」
なんてワガママ。いや、これはもしかして僕が悪いのか?
世界の価値基準について悩んでいると、亜樹はふと視線を彰浩へ移した。玲コンマ一秒で視線を百八十度ずらす。素直に凄いと思った。
「あ、ああ。彰浩君もいたんだ」
「ま、まあ」
亜樹に気おされたように彰浩が返事をする。それだけ亜樹に鬼気迫るものを感じたのだろう。
それからまたしばらく教室には沈黙が舞い降りたが、何か思いついたかのように彰浩は交互に僕と亜樹の顔を見ると、それから意味ありげな笑顔を僕に向け、バッグを持って机を飛び降りた。
「あっ、俺そういえばもう帰んないと。電車に遅れるわ。じゃあな、祐太」
「ああ、じゃあね」
それはいらぬ気遣いだと言いたかった。が、もう何もかも面倒だった。怒鳴るのは気力が足りない。手を掴むには勇気が足りない。
だから手を振って、僕は彰浩を追い出した。
彰浩はそのままそそくさと教室を飛び出していった。
窓の外の夕日は傾いて、傾いて、もう落ちそうだった。どこに落ちるかは知らないけど。
風は吹いた。夏の、生温かい風だった。
「ねえ、祐君。彰浩君と何話してたの?」
「うーん? 別に」
亜樹の聞きたくないことを。
「何か、私のこと言っていた?」
「えーっと、どうだったかな。記憶力ないんだよね、僕」
彰浩の好きな人は君じゃないよ。
「何よ、イジワル」
どっちが?
「だってねぇ。彰浩に彼女ができちゃんと、俺寂しいじゃん。一人身になちゃうし。幼馴染に先を越されるのも悔しいし」
「性格わるー」
「うわ、亜樹に言われたくないなぁ。それ」
笑った。トモダチだもの。笑うよ、そりゃ。
亜樹も口を尖らして、笑った。無邪気な笑顔。気付かないから、罪の意識も感じていない。無垢な笑顔だ。腹が立つほど。
そうやって、今日も僕は笑う。心が軋んでも直していける。好きの意味は違うけど、亜樹は僕を好きだと言ってくれるから。たぶんたぶん、やっていける。
でも。
でも、直した箇所は、本当に治っているの。軋んで、直して、歪んで、巻いて。
ずれた歯車はそれでも回る。キシリキシリと不愉快な軋みを立てて。噛み合わない歯車は傷つきながらそれでも回る。回る、回る、回る。
それが止まるまで、ずっと。
だから、いつか止まることを願って。
亜樹。僕の好きの意味が変わるまで、これ以上、苦しめないで。
「帰るか、どうせ一人身同士」
「うるさいな。ま、いいよ。仕方がない。可哀相な祐ちゃんのためにねー」
僕はワラッタ。
亜樹は笑った。
太陽はもう見えない。