プロローグ
「アレク様、出来上がりました」
とある山奥。
人気のない薄暗いその地に、ひとつの小さな小屋があった。
その中からは二つの気配がある。
「ああ、ありがとう」
小屋の中は明かりに小さな光の魔石を使っているだけで薄暗く、外と大して変わらない。
ただでさえ狭いその部屋は、山積みになった本が支配しており、人が暮らしているとは到底思えない。
しかし、積み上げられた本の上に優雅に座っている銀髪の少年の姿と、その横に立っているメイドの姿があった。
アレクと呼ばれた少年はメイドからマグカップを受け取り、香りを楽しんでからすする。
「……相変わらず不味いね」
「まあ、もとが薬草のティーですから」
それにメイドは涼しい顔をして受け流す。
実際、このティーに使用されたペレス草は、薬の調合などに使われる薬草なので、好んで飲む者はいない。
ではこの少年、アレク・サンドライトが、口に合わぬ薬草のハーブティーを何故わざわざ口にするのか。
それには、理由があった。
「で、アレク様。魔力の反応はありますか?」
「いや……ない」
アレクには、生物なら必ず持っている魔力がないのだ。
だからこうして、魔力の多くこもったペレス草を材料にしたティーを飲んで、魔力をつけようとしている。
それも、一日や十日どころではない、物心がつくころから、朝はこのティーを飲むことが日課となっていた。
だが、未だにめぼしい結果は表れていないようだが。
メイドが諦めたように嘆息する。
「アレク様、やはり無駄なのでは?」
「レイス、それは言うな。信じることが大切なんだよ」
「さすがはアレク様。ならばわたくしも毎朝心と魔力のこもったティーをお注ぎしましょう」
メイドはアレクがそう返すことを知っていたかのような口調で、その後の言葉を紡いだ。
それにアレクは皮肉を乗せて返す。
「君に心はないだろう?」
「はい、あるのはアレク様への唯一無二な忠誠だけでございます」
メイドは胸に手を当てて軽く会釈し、アレクから空になったカップを受け取って身を引いた。
アレクは、専属のメイドを持つような貴族等ではない。
それは、こんな山奥の小屋にひっそりと暮らしている時点で理解が及ぶだろう。
魔力を身に宿さぬ身体で、魔道を探求し続けて十六年。
母から継いだ銀髪、意味もなくつけている片眼鏡。身体を包むは魔法使いを思わせる地味な色のマントとローブ。
魔法を使えない分、見た目で努力した。
そんな少年に、ただでメイドがついてくるほど世の中は甘くない。
だがこのメイド――レイスは、アレクに絶対の忠誠を誓っていた。
「じゃあレイス、朝食を頼むよ」
「かしこまりました。今日も精と魔力のつく料理をお出ししましょう」
「――ふう。今日も美味しかったよ、レイス」
「ありがとうございます。その言葉だけでわたくし、王宮のフルコースはいけます」
前の八時。
山もほかの生物などで賑やかになったころ。
アレクたちは外に出て、朝食を済ましていた。
というのも、小屋が狭すぎるので、仕方なく外に木箱でできた椅子とテーブルを置いて食事をしているだけなのだが。
レイスが戯言で返しながら、手慣れた手つきで食器を片づけ始める。
その姿はまさに使用人の鏡、アレクはいつも感心していた。
「確かに、王宮の料理並みに美味しいよ」
アレクは正直な感想をそのまま伝えた。
食材なんて、そこらにいる魔物の肉や生えている山菜だけなのに、どうしてここまで美味しくできるのだろうか。
食材を不味くするのは簡単だが、ここまで美味なものに変えるのは至難の業。
レイスはアレクの褒め言葉を素直に受け取り、一度頭を下げてから片づけを再開させた。
……謙遜するでもなく、鼻にかける様子もない。
――まったく、僕にはもったいなさすぎる相棒だな。
アレクは心中でレイスの評価を上げる。
しかし――
ガチャンッ!
何かが落ちた音がアレクの耳に届く。
その音の聞こえた方へ目を向けると、レイスが食器を落としていたところであった。
「……レイス、大丈夫かい?」
その背中に、少し椅子から腰を上げて声をかける。
すると、いつもの無表情な顔でレイスは振り返り、
「すみません、アレク様に褒められてしまったので、動揺してしまいました」
これまた抑揚のない声で答える。
「そうか、食器が丁寧に落とされたように無傷だけど、動揺していたんだね」
なんだかんだで二年の付き合いになるが、アレクは未だにレイスのことはよくわからなかった。
レイスは食器を拾い、何事もなかったかのように再び片づけを始める。
やがて、全ての食器を一つの木箱に入れ終わると、レイスは右手を開いて木箱に向け、
『洗浄』
と、短く唱えた。
瞬間、魔物の油などで汚れていた食器が、みるみるうちに新品同様なほど綺麗になっていく。
……そう、これが魔法だ。
今のはクリーンという、初級の水系魔法を応用して創られたもの。
汚れやほこりなどを洗い流せる、生活において便利な魔法だ。極めれば、衣類に染みついた汚れや、家のように大きなものまで洗浄できる。
小さな食器を洗い流す程度なら、誰にでも使える初級魔法であるが、アレクは身を乗り出し、その様子を食い入るように見ていた。
「あまりジロジロと見ないでください、照れてしまいます」
眉ひとつ動かない完璧な無表情のまま、顔を手で隠すレイス。
アレクはため息を一つついて、椅子に座りなおした。
「無表情で言われても信じられないよ」
「そうですか。人間は好意ある相手に見つめられると照れてしまうと聞いて、わたくしも真似してみたのですが……失敗でしたか」
「ここまで何も感じない好意を受け取っていたなんて、僕はびっくりだよ」
「アレク様、大好きです」
「ここまで何も感じない大好きなんて、驚愕だよ」
他愛もない会話を交わす。
レイスの今の姿は、富豪が大金をはたいても手に入れたいほど優れている。
赤みがかった黒髪のショートシャギー。顔は精巧な人形のように整っており、黒曜石のような瞳は人間離れしているほど美しい。そして、恐ろしいほどに均等のとれた身体は、白と黒を基調としたメイド服に包まれており、彼女の雰囲気と相まってよく似合っている。
が、感情のこもっていない態度と言葉は、その姿を見て湧いた感情を急激に冷ましていくのだ。
しかし、レイスは本当に自分に対して好意と呼んでいいのかわからない、一種の尊敬のようなものを抱いているとわかっているので、アレクはやれやれと首を横に振った。
レイスは満足したのか、ゆっくりとアレクの方へ歩き、定位置である右背後に立つ。
全く気配がないので、アレクは次にレイスが喋り始めるまで背後に移動したことに気がつかなかった。
「それにしても、このキリアという人間は優秀ですね。家事の能力は完璧、戦闘や隠密行動にも長けています」
「そりゃ、我が帝国国王の専属メイドだしね。それぐらいは当り前だと思うよ」
アレクはそれをバレないように自然に振り返る。
するとレイスは、妖艶な笑みを浮かべ、今日初めて表情を作った。
「何よりも、容姿が優れていますから、わたくしは気に入っております。……このようにすれば、アレク様も喜んでくれますし」
レイスは自らの身体の精密さを強調するかのように、細く白い指で脚をなぞりながらゆっくりとその長いスカートをたくし上げ始めた。
それは先ほどまでとは違い、人を誘惑するような色気を漂わせている。
そのギャップ効果も相まって、見えた白い脚、ふともものガーターベルトに、アレクの視線は釘づけとなっていた。
「わたくしのすべてはアレク様のもの……どうぞ、お好きにしてください……」
声にも抑揚があり、漏れる吐息はよりいっそう興奮を掻き立てる。
さっきまでとは文字通りの別人。
そしてアレクも健全な男子、ここまでされて理性を保てていられるほどできてはいなかった。
身体は勝手にその禁断の果実に手を伸ばし――寸前で引きとどまった。
なぜならレイスが、いつもの無表情でこちらをジッと眺めているからである。
アレクは咄嗟に身を引き、その勢いで椅子から転げ落ちた。
「さすがは国王専属メイド、誘惑もお手の物ですね」
「……っ、まったく、君の変化には脱帽するばかりだよ」
涼しい顔のレイスの手を借りて立ちあがる。
そう、今のレイスは、声も容姿も記憶も思考も身体能力も技術も、全て帝国にいるメイド、キリアという人間のものなのだ。
普段は自分をレイスだと自覚してその人間のように振る舞っているが、その気になれば記憶などを使って完璧に化けられる。
なろうと思えばアレクにだって化けられるのだ。
それが、アレクという少年の相棒、レイス。
「では、アレク様も元気になりましたし、今日も張り切っていきましょうか」
「……はいはい、今日も頑張っていきましょうかねッ!」
アレクの空しい叫び声が、朝の山奥でこだまする。
これは、魔力のない少年が、変幻自在の相棒と二人で魔道を探求する、ほのぼのとした長い長い物語である――