アオギリ
ある日の早朝。まだ誰もが夢の中で遊んでいる町には、少年の荒い息と、チェーンがミシミ
シと軋む音だけが響いていた。
白い霧の中で、フードをかぶり、永遠とも思われる坂を上る少年は、自転車についている大きなカゴから、はみ出んばかりに入れられている新聞をわし掴みにして、裕福そうな3階建ての家のピカピカ光る郵便受けに突っ込んだ。
彼が乗っている自転車は、だいぶサビついているが、念入りに油を指されているので、見かけの割に丈夫である。
少年は最後の家に新聞を届けた後、ガシャンという音と共に、自転車を翻し、今まで上ってきた道を一気に下った。毎日、毎日、彼はそうやって一定の作業を繰り返してきた。何のためでもない、誰のためでもない。自分の身を削ることなど、彼にとってみれば、ただの摩擦にすぎない。生きるために生じる、単なる摩擦に。このまま消えてしまえればいい…
少年はやがて平坦な道に出た。町はまだ眠っている。ふと、少年はバス亭の青いベンチに一人の老人が座っているのを見た。白い霧でかすむような、目を細めると消えてしまいそうだ。しかし、それは絶対に存在する。老人は、よれた少年の制服に、すっかり退廃した自転車を見て言った。
「……可哀想に」
少年はその言葉を聴いた瞬間、何ともいえない感情に捉えられた。言葉が喉で詰まって出てこない。自転車の、ハンドルを持つ手が、震えた。
その日から少年は、来る日も来る日も老人に会いに行った。今までは何の意味もなさなかった行為が、急に意味を持って活き始める。
聞けば、老人は毎日ベンチに座ってただ人の動きを見ているのだと言う。人は面白いらしい。毎日同じ青いベンチに座っている老人を、不審な目で見下げる主婦や、善意のつもりか話しかけてスーパーで買った肉まんをくれる子供や、老人を黒く濡れた瞳で支配しようとする中年の男。だが老人は、そんなものには屈しないらしい。ただ、たまにやってくる白い野良猫は受け入れて、たまにやってくる雨からは逃げながら、そうやって毎日過ごしているのだという。
少年は憧れた。そのような生活は、自分にはできないのだろうか。ある日老人に問うた。
「僕も、貴方のように暮らしたい」
老人は長く蓄えた白い顎鬚を撫でながら、限りなくゆったりと動く青い空を見上げていった。
「まだ随分早いよ……君のような青年は…ほら、そこの小さなアオギリのように…じっくり…大きく…育てばいいんだ」
老人がしわくちゃの指で示した先には、道路の近くで排気ガスにまかれている小さなアオギリの木があった。水のあるたわわに実った大きな葉が、風に吹かれるたび嫌がるようにゆれている。さらに、その木の横には、もう枯葉ばかりになった細いアオギリの木が立っていた。風に吹かれるたび、一枚一枚地面に落ちていく。少年はそれを見て、一瞬とまどった。
「…分かりません…僕はもう。ほら、あの実のように落ちたいんです」
少年が指差した先は、垣根の向こうで熟れて今にも落下しそうなカキがあった。老人は、それを見ると、深く微笑んだ。
少年が指差していたカキに、空から一気に黒いカラスが群がってきた。彼らはその鋭い口ばしでカキを激しくつつくと、落下したカキを爪でえぐり食べてしまった。
「──あっ」
「…そういうことだよ…おいしそうなカキは誰かに食べられ、殺されてしまう」
老人は膝に乗っている猫の喉を撫でた。猫は小さな口を開いて喉の底から甘えた声を出した。
「だから君は…アオギリなんだ…外見に騙されてはいけない……根っこからしっかり育ったものだけが…眩しい太陽の元へ出るんだ…」
少年はいつものように青いベンチへ向かった。するとそこには老人の姿はなかった。座っているのは、白い野良猫だけだった。しかしその猫も、やがて退屈そうに欠伸をすると去っていった。
老人はどこにもいなかった。少年は老人がきっとどこかで眠っていると信じて、ネオンの輝く夜の待ちを探し回ったが、町には黒い人影が溢れるばかりで、まるでそれらは少年を嘲るようにクルクルと動いた。やがて老人が、本当にいなくなったのを感じた少年は、体の一部を失ったような衝撃を受けた。また青いベンチの元へ戻り、横になる。少年の目からは、生気が消えかけていた。ふと、曇った瞳でアオギリを見ると、老いたアオギリの、最後の葉っぱが地面にハラリ…と落ちた。そしてその葉は、すごい勢いで駆け抜けていく車のタイヤで粉々になった。
少年は、自転車のペダルに足をかけた。そうして、しばらく上るのをやめていた坂道を見た。太陽の光が反射して、ゆらゆらと空気が揺れている。あふれ出る涙はぬぐわずに、少年はペダルに力をいれ、上半身を前へ前へと突き出しながら、ゆっくり急斜面を登っていった。
そのまま、少年は見えなくなった──