呼び込み君
『いらっしゃいませ〜、いらっしゃいませ〜! 本日は脂の乗ったブリが、大変お買い得となっておりま〜す。数に限りがありますので、ぜひお急ぎくださ〜い!』
一歩店内に入ると、大音量の店内放送と安っぽいメロディのBGMが響き渡り、数珠つなぎになったやけに大きなカートや、ところ狭しと並べられたお菓子、独特のフォントの手書きポップが視界に飛び込んでくる。
ここは庶民の味方、激安スーパー『ピアロ』。
外のじめじめとうだるような暑さを吹き飛ばすようなエアコンの冷気が、肌に張り付いた汗を急速に冷やしていった。
「あ〜涼しい、生き返るー!てか鍋パ、まじで久々だよなぁ。ゼミの中間発表も終わったことだし、今日はガンガン飲もうぜ!」
「おい間宮、お前明日塾のバイトって言ってなかった?あんま飲みすぎんなよ。酒臭い先生とか最悪だわ」
「……いやいやいや、大丈夫!バイト夜だし、明日の一限と二限はサボれるやつだし。——おっ、てかちょうど鍋スープあるじゃん!えー、俺はちゃんこかキムチ派だけど、皆は何がいいんだろ?とりあえず二種類買っとく?」
「俺、これがいい。ぷるぷるコラーゲン豆乳鍋」
「あ〜!?お前ほんっとそういうとこ……まあいいわ。そんで中川、具は何入れる派?」
「肉、とにかく肉。あとは……椎茸かな。俺が好きだから」
「……なんだよその妙な組み合わせは。白菜とか白滝とか豆腐とか、他にも色々あるだろ!ぷるぷるコラーゲンを選ぶ人間とは思えん」
「え〜だって、そんなんいるか? ゼミの男だけだぞ?」
「……それはそうなんだけど。でも、かさ増しがないと絶対腹足んなくない?ほら、この鍋スープの裏にも色々具材書いてあるじゃん。……あ!締めにラーメンかうどんがオススメだって!」
「お、それめっちゃいい!間違いない!——あ、田中からライン来てた。冷凍水餃子買ってきて、だって」
「うおー!田中ナイス!」
俺と間宮は今、今夜田中の家で行われる鍋パーティーの買い出しに来ている。
ちなみに、参加メンバーに女子は一人もいない。極めて残念なことに、むさ苦しい男だけの宴だ。
このスーパーは地域一の安さを誇り、仕送り生活で常に金欠気味な俺たちにとって、まさにサンクチュアリだった。
決済が現金のみという制約はあるが、一人暮らしの学生や寮暮らしの多い大学の連中は、ほぼ全員ここで買い物をしている。
野菜ゾーンを過ぎ、魚コーナーを通り抜けて、メインの肉コーナーに差し掛かった俺たちは、買い物カゴに食材を放り込んでいく。
本当は国産牛のサシが入ったやつを気兼ねなく選びたいが、現実は厳しい。
カゴの中を占拠していくのは、アメリカ産の豚バラ肉、オーストラリア産のこま切れ肉、そして安売りされていた大袋のソーセージだ。もちろん、シャウエッセンではない。
そして肉売り場には、あの独特のメロディが流れていた。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ……。
一度耳にしたら最後、呪いのように脳内にこびりついて離れない『呼び込み君』のテーマだ。
なぜ頬がグレーなのか。人間なのか爬虫類なのか。見るたびに少し不気味に思えて、気になってしまう。
「……かのーじょほしい、かのーじょほしい、むねがでかーいかーのじょー」
間宮がメロディに合わせて、あまりにも直球な欲望を口ずさむ。
「おい、変な替え歌すんなよ!呼び込み君さんに失礼だろが!……バイートやだな、バイートやだな、てんちょうがー、こーわいー」
「うわははは!」
お互いのくだらない替え歌に笑い合いながら、ずっしりと重くなったカゴを揺らす。
食材はだいたい揃った。あとは酒だ。
酒類の列は、今いる食品コーナーのちょうど対角線、レジの方面にあった。
「ビールと、レモンサワーと……こんなもんかな?足りなくなったらコンビニで買い足せばいいよな」
「あと氷と……あ、アイス買わね?」
「うーん、まあいいけど……あ、田中の冷凍水餃子、忘れるとこだった」
そう話していると、ふと、店内の空気が変わったことに気づいた。
「……なんか、急に人いなくね?さっきまであんなにいたのに……」
いつの間にか、買い物客の話し声やカートを引く音が完全に消えていた。
流行りの邦楽のメロディラインだけをなぞる、安っぽいインストの館内BGMだけが妙に大きく響いている。
「……あー、ほんとだ。いつの間に皆帰ったんだろ?俺ら酒選ぶのに集中しすぎて、気づかなかったんじゃない。もうすぐ閉店時間だし」
間宮が気楽に答えるが、レジの方まで見渡しても、人の気配がまるでない。
さっきまで鳴り響いていた館内アナウンスも、いつの間にか止んでいた。
だだっ広く、人気のないスーパー。常に客で溢れているところしか見たことがなかったが、人がいないだけでこれほど不気味だとは。
そのガランとした空間は、ひやりとした異様な静寂に包まれていた。
「ん?あれ……スマホ、圏外なんだけど……」
「……俺のも。え……なんか、やばくね?」
俺たちは本能的に察した。何かおかしなことになっている。とにかく早く支払いを済ませて、ここを出なければならない。
少し性急にレジの方へと向かって、そして——足が止まった。
「あれ……?レジは?」
「いつもここだよな……なんでこんな壁……は?おい、なんだよこれ!」
おかしなことに、普段レジカウンターが並んでいるはずの場所が、のっぺりとした無機質な「壁」に変貌していた。
そこには、隙間なく大量のポスターが重なり合うようにべたべたと貼られている。
——もしかしたら、客が残っているのに気が付かず、防犯ドアを閉められてしまったのかもしれない。
出口はレジを通り抜けた先にあるから、このままでは外に行き着けない。
閉じ込められたのか。俺たちは恐る恐る、その壁へと近づいた。
近づくにつれて、ポスターが鮮明に見えてくる。
スーパーのエプロンを着たおばちゃんたちがニッコリと写るバイト募集らしきポスターや、特売品を羅列したようなよくあるチラシ。
だが、一番上に貼られているポスターの文字が目に飛び込んできた時。そこに並ぶ文字列を見た瞬間、心臓がバクン、と嫌な音を立てた。
『夏丿感謝丗ェル!!』
『國刪BUTAばラ肉 5ひゃく具 390000000』
『アルばⅰト³、歯ぁト³ 大特価!!自救9481037492 弗』
「うわ、きもっちわりぃ……!なんだこれ、このポスター……」
「やばい、全部塞がれてる!おい、俺たちどっから出ればいいんだよ!」
背中に冷たい汗が伝う。嫌な予感どころではない。
脳内の警報がうるさいほどに「逃げろ」と叫んでいる。
「いったん、入口の方に戻ってみよう」
——俺たちは重いカゴをその場に置いて、入口へと引き返すことにした。
辿ってきた通路を遡って戻る。
棚に並ぶ商品は普段通りだ。流れる館内BGMも、いつも通りの呑気な音。
なのに、客も店員も、俺たち以外誰一人として存在しない。
その異常な静けさが、かえって狂気を孕んで迫ってくる。
——こういう外国のホラーゲームがあった気がする、とふと思った、その時。
〜 ♪ 〜 ♪ 、〜 ♪ 〜 ♪ 〜 、ア ♪♪〜〜 、アア ♪ 〜
館内を流れるBGMに、にわかに異変が起きた。
人の声のような、生温かく湿った音が混じり始めたかと思うと、無理やり逆再生したかのような、不快な旋律へと歪んでいく。
〜 ♪ 〜 ♪ 、ア 〜 ♪ ア 〜アア ♪ 〜ア ♪♪〜♪ アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああ
「ひぃっ!」
いたるところにあるスピーカーから、何百もの人間の声が重なり合ったかのような不協和音が爆音で降り注ぐ。
鼓膜を直接掻き毟られるような、正気ではいられない音響。
思わず耳を強く塞ぎ、夢なら覚めてくれと心の中で狂ったように祈る。
俺と間宮は示し合わせたかのように、入口を目指して脇目も振らず走り出す。
ところ狭しと並べられた商品にぶつかって落としてしまったが、拾って戻す余裕など微塵もない。
走って走って、やっと辿り着いた入口の自動ドア。だが——
「……なんだ、これ」
入口の自動ドアの向こう側——本来なら街灯に照らされた駐車場や、走る車のライトが見えるはずのガラス越しの景色は、何も見えない完全な「漆黒の闇」に塗り潰されていた。
「——は? は? なんで……嘘だろ……!」
呼吸が浅くなり、指先の震えが止まらない。情けないほど涙が溢れてくる。
あの自動ドアから外に出てはいけない。出たら二度と戻れない。本能がそう叫んでいた。
「いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……」
そうつぶやいて床にへたり込んだ間宮の手を、俺はとっさに指が食い込むほど強く握りしめる。
「間宮!大丈夫、大丈夫だ、まだきっとなんとかなる……!」
この狂いそうな異常事態の中で、間宮の体温だけが、正気を繋ぎ止める唯一の生命線だった。
——どのくらいそのまま手を握りあっていただろう。
きっとカゴの中の冷凍食品はドロドロに溶けているに違いないと思うほどの時間が経ち、俺たちはゆっくりと呼吸を整え、なんとか立ち上がった。
「とにかく、できることをしよう。従業員用の出入口を探して、それからどこかに出るヒントがないか、探すんだ」
「そんなもの、あるのかな……」
「きっとある。大丈夫だよ。行こう」
俺たちは、まるで最初からやり直すかのように、だが心持ちは来たときと全く逆の絶望を抱えて、再び入口付近の野菜コーナーに足を踏み入れた。
さっきまで、ここで笑いながら鍋の具を選んでいた。あの平和な時間が、もう何年も前のことのように遠く感じられる。
数珠つなぎになったやけに大きなカートや、ところ狭しと並べられたお菓子、独特のフォントの手書きポップ。
俺たち以外に誰もいない事とBGMの異変以外、一見何もおかしなところはない。
そう思っていたが、ふと、陳列された野菜に違和感を覚えた。
……おかしい。どの野菜にも、なぜか真っ二つに割れるような不自然な「切れ込み」が入っている。
それはまるで、姪っ子が遊んでいたおままごとセットの、プラスチック製の玩具のようだった。
ドン!! ドン!! ドン!!
——ビクッ!
硬いものが叩きつけられる鈍い音が至近距離から響き、俺と間宮は飛び上がった。
いつの間に現れたのか。すぐそばの試食用の調理台で、エプロンを着けた店員が、満面の笑みを浮かべて包丁を振り下ろしていた。
先ほどまで気配すらなかったのになぜ——それでも、自分たち以外の人間がいたという事実は、思いのほか安堵を与えてくれた。
「あの、すいません……」
俺は震える声で話しかけた。だが、店員はまるで俺の声が聞こえていないようだった。
ドン!! ドン!! ドン!!
店員は手に持ったニンジンを、切れ味の悪そうな刃で強引に叩き切る。
包丁を勢いよく振り下ろすたびに、マジックテープがベリベリと剥がれるような不快な音が響き、プラスチックそっくりの断面をした塊が無残に床へと転がっていく。
だが店員はそんなことなどお構いなしに、ただひたすら無心に、真ん中の切れ込みを狙って包丁を振るい続けている。
「あ、あの! ここ、何なんですか!? どうやったら戻れるんですか!」
間宮が必死に叫ぶ。
店員は包丁を止めることなく、今度は隣にあった魚を切り始めた。鱗が虹色にヌメヌメと光る、目の白く濁った生魚。
だが、それにもやはり不自然な切れ込みが入っていた。
ドン!! ドン!! ドン!!
半分に千切れた生魚がボトボトと床に落ちていく。断面からは、さっきまで生きていたかのようにどす黒い血が滲み出ていた。
それを見て恐怖が限界突破しそうになりながらも、俺は声を絞り出した。
「す……すみません! ここから出たいんです!出口を教えてください!」
店員が、ピタリと動きを止めた。
ゆっくりと、機械的な動きで首だけをこちらへ向け、顎が外れんばかりに口を限界までぐわっと開いた。
「——イダッシャイマセエエ!!イダッシャイマセエエ!!イダッシャイマセエエエエエエエエエエ!!」
人間の声帯では不可能なボリュームと速度の絶叫が、空間を狂気で埋め尽くした。
店員の口の中は、通常あるはずの歯列も舌もなく、ただただ真の闇が広がっていた。
「ひぃぃっ……!」
恐怖で脚がガクガクと震え、一歩も動けない。頭がおかしくなる——そう思った瞬間。
…………ポポーポポポポ、ポポーポポポポ………
遠くの方から、場違いなほど軽快なあの音が聞こえてきた。何度も聞いた、あの音が。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ、ポポポポポーポポー……
「あ、あれって……」
「早く行くぞ!」
俺たちは走った。耳をつんざくノイズも、店員の絶叫も、すべての恐怖を自分の荒い呼吸で掻き消すようにして、死に物狂いで足を動かす。
——肉コーナーに到着した。呼び込み君は、いつものように肉の冷蔵庫の上の棚に、ぽつんと鎮座していた。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ………
相変わらずいつものように腕を広げ、ニコニコと無邪気に笑い、あのメロディを永遠に繰り返している。
何かここに変わったことはないかと、並べられた肉のパックを恐る恐る覗き込んでみた。
値札はあのポスターのように激しく文字化けしている。ピンク色に滴る肉汁が、ラップで閉じ込められたパックの中に充満していた。
——そして、中の赤い肉は、まるで生きているかのようにウネウネと蠢いていた。
「う、オェっ……!」
その間も、呼び込み君はエンドレスで鳴り続けている。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ、ポポポポポーポポーポポー……
頭の中がそのメロディで埋め尽くされ、目眩で視界がゆっくりと回転していく。
ほとんど気絶しそうになりながら、俺はふと気づいた。
加速度的に狂っていく世界の中で、この『呼び込み君』だけが、あまりにも普通すぎる。
『かのーじょほしい、かのーじょほしい、むねがでかーいかーのじょー』
『バイートやだな、バイートやだな、てんちょうがー、こーわいー』
ふと、間宮とふざけて歌った替え歌が蘇った。
——そうだ。おかしくなる直前、俺たちはこいつに合わせて変な替え歌を歌っていた。
もしかして、元凶はこいつなんじゃないか?
俺は吸い寄せられるように呼び込み君を持ち上げた。
憎らしいほど純朴そうな笑顔を湛えたその機械は、それでいて嫌に邪悪に見えた。触れた手が、まるで催眠術にかかっているかのように吸い付いて離れない。
俺はゆっくりと手首を返し、呼び込み君の背面を見た。
——スイッチがある。
そう気づいた瞬間、俺はほとんど無意識に、その背面のON/OFFスイッチを、ONからOFFへと切り替えた。
そして——完全な暗闇が訪れた。
『……ブリ〜、ブリが大特価ですよ〜。お急ぎくださ〜い』
ざわめきが、一瞬にして戻ってきた。
脂汗を拭いながら見回すと、そこには夕飯の買い出しを楽しむ、ありふれた家族連れや主婦たちの姿がある。
あの恐ろしいBGMも、妙なポスターも、奇妙な店員も存在しない世界。
「は……やった……やった!戻れた!やったーー!!」
周囲の目も気にせず叫んだ俺を、近くにいた客たちがギョッとしたように目を泳がせ、そそくさと去っていく。
だが、そんなことは今はどうでも良かった。
「間宮……っ!おい、俺たち戻って———え、あれ?……間宮?」
間宮が、いない。
嫌な予感がして、必死で店内を見回ったが、どこにも姿がない。
震える手でスマホを取り出すと、電波はしっかりと立っている。
間宮に電話をかけるため、ラインのアプリを開いた。
だが、トーク一覧の最上部にあるはずの「間宮」の名前が、どこを探しても見当たらない。
まさかと思い、ゼミのグループラインを確認すると、メンバー数が一人少ない。
恐る恐る、田中に電話をかける。
「あ……もしもし、田中?あの……あのさ、間宮って……どうした?」
藁をも掴む思いで問いかけると、受話器の向こうから怪訝そうな声が返ってきた。
『……はぁ? 誰それ。そんな奴、うちのゼミにいたっけ?あ、それより冷凍水餃子忘れずに買ってこいよ!よろしく!』
——指先の力が抜け、スマホが床で派手な音を立てた。
(……あの時、呼び込み君のスイッチを切ったのは俺だった。機械は、一台しかなかった)
「一人分」しかなかった出口を、俺が奪ってしまったのか。
激しい罪悪感が襲う。
だが同時に、「あっち」に残されたのが自分でなくて良かったという卑怯な安堵が、毒のように全身を回った。
そんな自分がたまらなく情けなくて、逃げ出したくなった。
俺は心ここにあらずな状態で、なんとか食材を揃えて田中のマンションへと向かった。
……そうだ、俺は助かったんだ。間宮は最初からいないことになっている。それならば、誰も他に悲しむ人間はいない。
たとえ今この瞬間も、間宮が一人あの世界で発狂していようとも。
——ピンポーン。
「おっす!買い出しありがとなー!一人で行かせて悪かったわ」
「……いや、大丈夫」
田中はいつも通りのテンションで、レジ袋を漁りながら嬉しそうにしている。
「あれっ中川、頼んだ水餃子は?」
「……あ、ごめん。買い忘れた……」
「はあ!?あんだけ念押ししたのに!?おい〜!」
その間にも続々とゼミのメンバーが集まってくるが、そこに間宮はいない。心臓を直接掴まれるような、鋭い痛みが走った。
「ったく、餃子楽しみにしてたのに……。てか、中川、なんか元気ない?何かあった?」
「い、いや……あ〜、昨日バイトでちょっと怒られてさ」
「あー、お前、バイトの店長怖いっていつも愚痴ってたもんな。ドンマイ。仕方ない、水餃子の件は許してやるよ」
「……うん。ありがとう」
あの異界のスーパーに比べれば、現実の店長なんて微塵も怖くない。
それよりも最後に間宮と笑いながら歌った、バイトの店長の替え歌が頭にこびりついて離れず、心が軋む。
「まーまー、とりあえず肉食って元気出そうぜ。——お、いいねいいね!全部うまそうじゃん」
田中がガサガサと袋から肉のパックを取り出した。
アメリカ産の豚バラ肉、オーストラリア産のこま切れ肉。そして安売りされていた大袋のソーセージ。
——だが、その値札を見た瞬間、俺の思考は完全に凍りついた。
『間宮バラ肉 500g 390円』
ドクン、と心臓が跳ねる。
『間宮こま切れ肉 500g 490円』
「な、……なんだ、これ……」
『特選ウインナー あらびき間宮 徳用パック』
——パックの中で赤黒く光る肉塊と滴る血が、まるでかつての友人の成れの果てのように見えた。
「どうした?中川。早く鍋パ始めようぜ」
その文字列を見ても動揺することなく、普段どおりの田中の満面の笑みに、俺は胃の底からせり上がる強烈な嘔吐感を堪えきれなかった。
俺は田中の制止を振り切って、夜の街へと飛び出した。
非常階段を走り降り、過呼吸のようになりながら、マンションの自動ドアを突っ切った。
——そうして、息を切らして飛び出た俺の目の前に広がっていたのは、あの異界の外と全く同じ、濃密な「漆黒の闇」だった。
「うわああああああああ!!」
脇目も振らず、闇の中を走り続ける。
なぜだ。何がいけなかった。こんな場所に閉じ込められるくらいなら、いっそ殺してくれ。誰でもいい、この狂った世界から俺を救い出してくれ!
——どれほど走っただろうか。涙でぼやけた視界の先に、小さな光が見えた。
コンビニだ。
もう、何でもいい。地獄の淵で見つけた蜘蛛の糸に縋るように、俺は迷いなくその店へ転がり込んだ。
だが、入店した俺の目に飛び込んできたのは、コンビニのレジカウンターにちょこんと鎮座する、あの忌まわしき姿だった。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ……
心身の限界を超え、どす黒い殺意が脳を焼き尽くした。
「いい加減にしろよ! 何の恨みがあるんだよ! その面もうぜぇんだよ!! 変なポーズでニヤニヤ笑ってんじゃねえぞ!!」
俺は台座から機械をひっつかみ、床へ思い切り叩きつけた。
プラスチックが粉々に砕け散る。それでも消えない笑顔の顔めがけて、何度も、何度も、憎しみをぶつけるように足を振り下ろした。
……ポ…ボポ………ボ………………………………
やがてメロディが醜く歪み、不快な電子音を立てて、奴はついに沈黙した。
(——あ、)
その瞬間、コンビニも、外の闇も、まるでガラス細工が粉砕されるかのように、世界がバラバラに散らばっていく。
良かった。これが正解だったんだ。これでやっと——。
『いらっしゃいませ〜、いらっしゃいませ〜。 お値打ちなのは今日だけですよ〜!お買い逃しのないよう、皆様お急ぎくださ〜い』
——活気のある、聞き慣れたスーパーのアナウンスの声。
今度こそ、本当の世界に戻れたんだろうか。そうであってほしい。
間宮はいるだろうか。あの底なしの恐怖の中を彷徨い続けたせいで、間宮と二人でこの店に入ったのが、もう何年も前の遠い過去のことのように思えた。
――あの瞬間、俺は間宮を見捨てようとした。
自分だけでも助かって良かったと思ったあの醜い本音は、一生、墓場まで隠し通さなければならない。
周りを確認しようと、俺は首を動かそうとした。
……動かない。
首だけじゃない。腕も、足も、指先ひとつ動かすことができない。
——ドクン、ドクン。
自分の心臓の音だけが、異様に大きく耳の奥で脈打っている。
両腕は横に広げたまま、下ろすこともできない。
視界は完全に固定され、瞬きさえ許されない。
(——これ、俺……なんで……)
混乱の中、その固定された視界の先に、二人の男が歩み寄ってくるのが見えた。
「……鍋パ、久々だよなぁ!田中は具に何入れる人?」
「俺は絶対絶対、冷凍水餃子!」
間宮と田中だ。
(間宮! 田中!! おい、俺はここだ! 見えてるだろ、間宮——!!)
叫ぼうとした。だが、喉から溢れ出したのは言葉ではなかった。
内臓をかき回されるような激しい嫌悪感と共に、腹の辺りから、あの「音」が自動的に流れ出す。
ポポーポポポポ、ポポーポポポポ、ポポポポポーポポーポポー……
俺の必死の叫びを嘲笑うかのように、陽気なメロディが店内に虚しく響き渡った。
「うわ俺、これマジで嫌いなんだよな〜。頭で回り続けて気ぃ狂いそうになる」
「わかるわー。全国区なんかな?」
俺の目の前で、二人は呑気に会話している。
(おい!間宮!田中!!おい!!!)
そんな俺の叫びも虚しく、二人はさっさと肉を選ぶと、俺の視界の外へと去っていった。
——どれほどの年月が経ったのか。もう数えるのもやめた。
俺はこの世界では、きっとあの時の間宮のように、最初から存在しないことになっているのだろう。
毎日毎日九時から二十時まであの音を流し続けて、もはや俺が呼び込み君だったのか、呼び込み君が俺だったのか、そんなことすら曖昧になっていく。
そして今日も、開店のチャイムとともに、腹の底からメロディを響かせる。
「——でさあ、ゼミの教授が……。あ、呼び込み君だ!」
「え、これそんな名前ついてんだ。そのまんまだね〜」
——俺の話題だ。
そんな些細なことが貴重な喜びとなり、今日も頑張ろう、と思う。いつもより張り切って、腹から音を流す。
「ねえ、生まれ変わったら呼び込み君になってたらどうする?」
「はあ? 何それ。意味わかんない!……うーん、死んだ方がマシって思うかも」
あはは、そうだな、確かに。……生き地獄そのものだよ。
「だよねえ。…………ふふーんふ ふふふ、ふふーんふ ふふふ……」
「何歌ってんの〜。笑えるんだけど」
「いや、だってなんか頭で回んない?」
二人の若い女が、俺の目の前で肉を吟味しながらそんな会話をしている。
「てか聞いてくれる?彼氏がさぁ!ほんっとムカつくんだけど!」
「え、この間一年記念♡とか言ってあんたがインスタに上げてたラブラブな彼氏でしょ?ムカつくって何があったん?」
「……かれーし浮気、かれーし浮気、後輩の〜、恵梨〜香とー!」
「……はあ!? マジで?え、あの恵梨香!?え、うちらの後輩の!?その話詳しく!」
——俺は彼女の素晴らしい替え歌を聴いて、動かない表情はそのままに、心の中で歓喜に満ちた笑顔を浮かべていた。
了




