詩の比喩と小説の比喩って違うの?
私は元々詩をやっていましたが──
詩ではとにかく『ありきたりな比喩』、『陳腐な比喩』は避けるのがいいとされていました。
たとえば『産まれたての子鹿のように立ち上がる』は陳腐で、『産まれたての男児の性器のようだ、それは立ち上がる』のほうがいいみたいな。……この喩えは今自分が急拵えしたものなのでアレですが……。
『やさしい光』とかも、一般的にはポエティックと思われてるようですが、最近聴いた有名な詩人さんのセミナーでの言葉をお借りすれば「陳腐よねー」になります。
詩を書いていた時はとにかく表現にこだわり、ことばを磨くことをしていました。
『寂しがり屋のようなひかり』
こんなフレーズを思いついたとして、でも『ような』を使うのは陳腐なような気がして、次のように変えます。
『寂しがり屋のひかり』
待て待て! これじゃひかりちゃんという子が寂しがり屋だというようにも読まれてしまうぞ! そうじゃないんだ! そうじゃないんだ!
それで最終的には次のようになりました。
『あえかに光るユキウサギ』
もはや原型とどめてないし、意味がわかんないですよね。
でも、よかったんです。
詩は、意味がわかんなくても、自由にイメージを遊ばせられたらいいんだから。
小説家になろうに来て、小説を書くようになりました。
詩は偉そうなことを上から目線で言うひとが多く、しかも言ってることの意味がさっぱりわからないので、うんざりしてやめてしまいました。
小説は意味がわからないと意味がありません。(進次郎構文)
それで、比喩はなるべくありきたりな、わかりやすさを重視したものを選ぶようになりました。
意味が伝われば、陳腐だってなんだっていいんです。物語を伝えることが大事なんです。
ところが、最近あるところで自分の小説を読んでもらったところ、こんなことを言われました。
『文章に面白みがない』
『文章にこだわらないならなぜ小説なのか』
『漫画を描いたほうがいいのではないのか』
絵がド下手くそだから小説を書いてるんですけどね──
まぁ、でも、確かにそうかもな、と思いました。
漫画でいえば、絵の上手さにこだわらない漫画家みたいに見られたかな? と。
言われることに従って、これからは文章表現にこだわった小説を書いていこうと決意したとして──
詩の比喩と、小説の比喩って、違うのかな?
そんなことを思いました。
違いますよね。
詩では『遠いものに喩える』、『陳腐やありきたりは避ける』と教えられました。
『真っ白な画用紙みたいな雪』ではなく『夕陽を描く広大な白紙』のほうがまだ工夫がある、みたいな。
でも小説だと『真っ白な画用紙みたいな雪』のほうが絶対いい! だってわかりやすいから。
でも、あんまりわかりやすいばっかりで文章に味わいとかがないと、絵の上手さにこだわらない漫画家みたいになってしまう?
試しにここに投稿した自分の作品を少し読み返してみたら、確かに文章に関してはテキトーだと痛感しました。
『◯◯は言った』がものすごく多い!
比喩がテキトー!
時代考証とかも超テキトー! ……あ、これは単にバカだからか。
文末が『だった』、『した』、『言った』、『ぶた』……『た』ばっかり!
うーん……
せめて『絵の上手い漫画家みたいに文章の上手い小説書き』ぐらいにはなりたいな。
わかりやすさは犠牲にしたくないけど!




