旅立ち
私は、地元を出た。
特別な理由を、誰かにきちんと説明できたわけじゃない。
「仕事の都合」
「環境を変えたくて」
そう言えば、周りは納得した。
でも本当は、
地元で暮らしていくには、
杏樹との思い出が多すぎた。
道の角。
信号の待ち時間。
コンビニの駐車場。
「ここでさ――」
そう言って、
隣から声がする気がした。
振り返る癖が、
なかなか抜けなかった。
地元は、
杏樹が生きていた場所だった。
だけど同時に、
杏樹が死んだ場所でもあった。
私は、
その両方を抱えたまま、
呼吸を続けることができなかった。
⸻
引っ越しの日、
祖父母は何も聞かなかった。
「気をつけてね」
「無理しないで」
それだけ言って、
いつも通り送り出してくれた。
父とも、母とも、
連絡は取っていた。
会うことは少ないけれど、
LINEは続いていた。
ある夜、
スマホが震えた。
母からだった。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「無理してない?」
短い文章。
今だに母からの連絡に心臓が速くなる
それでも、怯える事はなくなった
私は少し考えてから返した。
「大丈夫」
「元気にしてる」
それ以上は、
何も書かなかった。
杏樹のことも、
地元を出た本当の理由も。
母も、
それ以上は聞いてこなかった。
それが、
私たちの距離だった。
遠すぎず、
近すぎず。
傷つかないために、
互いに触れない場所。
⸻
東京に来て、
眠れる夜は増えた。
それでも、
何もないはずの夜に、
突然胸が重くなることがある。
理由は、わかっている。
胸の奥には、
母親から言われたあの言葉が記憶が、
今も眠っている。
パンドラの箱みたいに。
開けてはいけないと、
わかっている。
中に何が入っているかも、
もう知っている。
だから私は、
その箱を
鎖でがんじがらめにして、
胸の一番深いところに沈めている。
普段は、
そこにあることすら
忘れたふりができる。
仕事をして、
人と話して、
笑って。
ちゃんと生きている「今」を、
壊さないために。
でも、
夜になると、
ときどき鎖がきしむ。
何かの拍子に、
箱が浮かび上がってくる。
「あんたは――」
そこから先を、
私は思い出さないようにしている。
思い出した瞬間、
箱が開いてしまう気がするから。
⸻
夜、
電気を消して横になると、
ふと考えることがある。
――このまま、
消えてしまえたら楽だろうな。
はっきりと
「死にたい」と思うわけじゃない。
ただ、
すべてが静かになる場所が、
どこかにある気がして。
そんな夜が、
今でもある。
誰にも言わない。
言えない。
東京で出会った人たちは、
私の過去を知らない。
知らないまま、
普通に接してくれる。
それが、
救いだった。
⸻
それでも、
一つだけ、
どうしてもできないことがあった。
杏樹の墓参りに、
一度も行っていない。
わざと行かなかった。
会いに行ったら、
本当に終わってしまう気がした。
墓石の前で名前を呼んだら、
「いない」という事実が、
決定的になってしまう気がした。
それに、
杏樹はそこにはいないとも思っていた。
杏樹は、
あの公園にいる。
夜のコンビニにいる。
車の助手席にいる。
地元に、
そのまま生きている。
私は、
それを壊したくなかった。
⸻
九月二十八日が来ると、
私は決まって同じことをする。
メビウスのメンソールを一箱買う。
杏樹が吸っていた煙草。
自分は吸わない。
ただ、持っている。
それだけで、
少しだけ、
近くにいられる気がした。
⸻
私は、
忘れるために
地元を出たわけじゃない。
抱えたまま、
生きるために、
ここに来た。
杏樹は、
私の人生の途中で、
確かに隣にいた。
それは、
消えることはない。
でも私は、
その記憶と一緒に、
別の場所で生きることを選んだ。
地元を出るという選択は、
逃げだったかもしれない。
それでも、
あのまま留まっていたら、
私は、
呼吸ができなかった。
杏樹は、
今も地元にいて生きている。
私は、
遠くにいて会えていないだけ、
そう信じていたかった。
現実は違うなんて事は理解している
だけど心が認めないから
私の中で、
杏樹は、
まだ生きている。
そうやって私は前を向いた
それが
今の私にできる、
精一杯だった。




