記憶の牢獄
どこにいても、杏樹がいる
杏樹がいなくなってから、
世界は急に静かになった。
音が消えたわけじゃない。
人も、車も、日常も、何も変わらない。
ただ、
どこにいても、
杏樹の気配が先に立つようになった。
歩いているだけで、
ふいに思い出す。
あの公園。
夏の夕方、
コンビニで水風船を買って、
意味もなく投げ合った。
逃げる場所もなくて、
笑いながらびしょ濡れになった。
「ちょ、待って!」
「やばい、服透けてる!」
そんなことで、
腹がよじれるほど笑った。
帰り道、
濡れた服が気持ち悪くて、
でもそれが楽しくて。
あの時間は、
何も考えなくてよかった。
ただ一緒にいて、
笑っていればよかった。
夜になると、
別の記憶が浮かぶ。
杏樹が好きだった先輩。
「今日、ちょっと会えないかな」
そう言われて、
私たちは夜中に抜け出した。
親にバレないように、
足音を立てないように。
夜の街は、
昼とは全然違って見えた。
コンビニの明かり。
自販機の音。
知らないはずなのに、
なぜか安心できる空気。
先輩も一緒で、
みんなでだらだら話して、
気づいたら朝方だった。
杏樹は、
その先輩を見ると、
少しだけ声が高くなった。
その横顔を、
私はよく覚えている。
幸せそうだった。
それだけで、
よかった。
カラオケの前を通ると、
胸が締めつけられる。
オールして、
そのまま仕事に行った日。
眠くて、
喉もガラガラで。
「やばいね、これ」
「でも、楽しかったからいいや」
そう言って、
二人で笑った。
あの頃は、
無茶ができた。
何も失う気がしなかった。
今は、
その全部が、
過去になってしまった。
どこにいても、
杏樹は現れる。
信号待ちの時間。
夜のコンビニ。
公園のベンチ。
「ここで、あれやったよね」
そう言いそうな気がして、
振り返ってしまう。
でも、
もう隣にはいない。
私は、
生き残ってしまった。
杏樹のいない世界で、
時間だけが進んでいく。
それが、
耐えられなかった。
医療の現場に立つと、
現実を突きつけられる。
救えない命。
戻らない時間。
杏樹のことを思うと、
どんな言葉も、
全部空っぽに感じた。
私は、
もう戻れないと悟った。
逃げだと思われてもいい。
弱いと言われてもいい。
これ以上、
失う現実を抱えられなかった。
夜、
一人で部屋にいると、
携帯を手に取る。
杏樹とのLINE。
最後のやり取りで、
時間は止まっている。
既読は、つかない。
それでも、
何度も開く。
そこには、
まだ杏樹がいる気がして。
私は、
杏樹を失った。
でも同時に、
杏樹と生きていた時間を、
こんなにもはっきり、
抱え続けてしまっている。
どこにいても、
何をしていても。
杏樹は、
私の中にいる。
それが、
私を壊しても。
それでも、
忘れられなかった。




