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7  作者: りな


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2/11

ママと呼んだ人

私が「ママ」と呼んでいた人は、本当の母親ではなかった。


その事実を、私は頭ではわかっていた。

でも心は、ずっと拒否していた。


祖母は、朝が早かった。

私が目を覚ます前から台所に立ち、味噌汁の湯気を立てていた。

鍋の蓋が少しずれて、かたかたと音を立てるのが、朝の合図だった。


「起きなさい」


そう声をかけられて、布団から顔を出す。

寝ぼけたまま差し出すと、祖母は何も言わずに私の手を握った。

その手は少ししわしわで、でもあたたかかった。


私はその手を、ママの手だと思っていた。


学校から帰ると、祖母は決まって同じ場所にいた。

縁側に座って洗濯物を畳んでいたり、台所で夕飯の支度をしていたり。

「おかえり」と言われるたび、胸の奥がほどけた。


私は祖母のあとをついて回った。

買い物にも、近所への用事にも、当たり前のように一緒について行った。


「ママ、次どこ行くの?」

「ママ、これ何?」

「ママ、見て」


祖母は少し困った顔をしながらも、私の話を聞いてくれた。

怒鳴ることも、突き放すこともなかった。


夜になると、私は祖母の布団に潜り込んだ。

祖父は甘えん坊だといい、祖母も笑った。


「寒いのかい?」


そう言って、布団を少し広げてくれる。

私はその胸に顔をうずめ、安心して眠った。


この人が、私のママなんだ。

そう信じることで、私は息ができていた。


――でも、時々、現実はそれを許さなかった。


学校で配られるプリント。

「保護者の方へ」という文字。


祖母が名前を書くとき、そこに「母」とは書かれない。

私はそれを見るたび、なぜか胸がざわついた。


ある日、先生が言った。


「お母さんに渡してね」


私は何も言えず、ただ頷いた。

家に帰ってから、祖母にそのプリントを渡す。


祖母は一瞬、視線を落とし、それから何事もなかったように受け取った。

その仕草が、なぜかとても大人に見えた。


その頃、私は友達の家に遊びに行くことが増えていた。


ある日の放課後、学校帰りに寄った友達の家は、駅前の新しい住宅街にあった。

玄関のドアは軽く、開けるとすぐに「おかえり」という声が聞こえた。


「今日ね、学校でね」


友達が靴を脱ぎながら話し始めると、

キッチンにいたその子のお母さんが振り返って笑った。


「はいはい、後で聞くから、先に手洗って」


そのやりとりが、とても自然で、

私はその場に立ったまま、なぜか動けなくなった。


リビングには家族の写真が並んでいた。

運動会で並んで笑っている写真。

誕生日ケーキの前で、ろうそくを吹き消している写真。


そこには、

「いつも一緒にいる家族」が写っていた。


お母さんは、友達のランドセルを受け取って中身を確かめ、

当たり前のように言った。


「宿題、もう終わってるの?」


友達は少し面倒くさそうに返事をしたけれど、

その声には甘えが混じっていた。


私は、その光景を少し離れた場所から見ていた。


怒られても、

呆れられても、

それでも離れない距離。


それが「母と子」なんだと、

そのとき、はじめて実感した。


おやつの時間になり、

友達のお母さんは、私の分も用意してくれた。


「遠慮しないで食べてね」


私は小さく頷いた。

けれど胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


この人は優しい。

でも、この人は私のママじゃない。


当たり前の事実が、急に重たくのしかかってきた。


帰り道、夕焼けの中を一人で歩きながら考えた。


私には「おかえり」と言ってくれる人がいる。

ご飯を作ってくれる人も、

布団を温めてくれる人もいる。


でも、

「自分だけのママ」として、

私だけを見てくれる人はいない。


家に帰ると、いつもと同じように祖母がいた。


「おかえり」


その声を聞いた瞬間、

安心と一緒に、言いようのない罪悪感が湧いた。


この人は、こんなにも私を大事にしてくれているのに。

それなのに私は、別の「ママ」を欲しがっている。


その気持ちを、誰にも言えなかった。


私はそのとき、はじめて思った。


この人は、私だけのママではない。


祖母には祖母としての人生があった。

私が生まれるずっと前から、祖父と暮らし、子どもを育ててきた人だった。


私は、その人生の途中に、

予定外の形で混ざってしまった存在だ。


そう気づいた瞬間、

胸の奥に小さな穴が空いた気がした。


それでも、祖父母の優しさは、その穴を埋めてくれた。


私が熱を出せば、一晩中そばにいてくれた。

咳をするたび、背中をさすってくれた。


「大丈夫、大丈夫」


その声は、確かに私を守ってくれていた。


だから私は、見ないふりをした。

違和感も、不安も、全部。


だって、この手を離されたら、

私はどこにも行けなくなる気がしたから。


父は、相変わらず家にいる時間が少なかった。

たまに帰ってくると、私の様子を見て安心したように笑った。


「元気そうだな」


その言葉に、私は大きく頷いた。

元気でいなければならないと思った。


祖父母を困らせないために。

父を安心させるために。


いい子でいれば、

ここにいてもいいはずだから。


けれど夜になると、

祖母と祖父の寝息を聞きながら、

時々考えてしまう。


もしこの人たちがいなくなったら、

私は、誰のところへ行けばいいんだろう。


そんなことを考える自分を、必死に打ち消した。

考えてはいけないことだと思った。


私は、愛されている。

ここにいていい。


そう言い聞かせながら、

眠るまで祖母の服の端を離さなかった。


そのぬくもりが、

永遠に続くものだと信じたかった。


――この頃の私は、まだ知らなかった。


人は、どれほど愛してくれていても、

「役割」までは引き受けられないことがあるということを。


そしてその事実に気づいたとき、

私の世界が、静かに音を立ててずれていくことを。

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