無償の愛
結婚した。
東京で、
過去を深く聞いてこない人だった。
聞かれないことに、
少し寂しさはあった。
でも同時に、
それは救いでもあった。
私は、
過去を説明しなくてもいい場所を、
初めて手に入れたのだと思う。
やがて、
子どもができた。
妊娠がわかったとき、
喜びより先に、不安が来た。
私が、
母親になっていいのだろうか。
母親の愛を、
ちゃんと知らない私が。
あの人のようになってしまわないか。
言葉で、
心を切り裂いてしまわないか。
胸の奥で、
鎖で沈めていたパンドラの箱が、
重く揺れた。
生まれるまで、
何度も考えた。
もしこの子が泣き止まなかったら。
もし余裕がなくなったら。
もし、感情に飲み込まれたら。
私は、
自分を信じられなかった。
それでも、
子どもは生まれた。
小さくて、
温かくて、
信じられないほど軽かった。
初めて抱いたとき、
腕が震えた。
この手を、
離してはいけない。
それだけが、
はっきりしていた。
夜中、
何度も起きる。
眠れなくて、
余裕なんてなくて。
それでも、
泣き声を聞くたび、
身体が先に動いた。
考える前に、
抱き上げていた。
そのとき、
ふと気づいた。
これは、
努力じゃない。
条件でも、
交換でもない。
ただ、
そうしてしまう。
無償の愛、
という言葉を、
初めて実感した。
与えているつもりだった。
守っているつもりだった。
でも、
違った。
この子は、
私に生きる理由を
与えていた。
死にたいと思わなくなった。
消えたい夜が、
なくなった。
それは、
私が強くなったからじゃない。
この手の中に、
離せない存在がいるからだ。
母になってから、
私は義母のことを、
前とは違う角度で考えるようになった。
義母はきっと、
突然、大きな子どもができたことに、
戸惑っていたのだと思う。
心の準備もないまま、
「家族」にならなければならなかった。
家族になりたい気持ちはあったはずだ。
でも、思うようにいかず、
どうしていいかわからなくて、
苦しかった夜もあったのかもしれない。
怒りすぎたと反省する日も、
自分が怖くなる夜も、
あったのかもしれない。
だからといって、
義母がしたことを、
許せるわけではない。
なかったことにも、
できない。
あの言葉も、
あの暴力も、
私の中から消えることはない。
それでも、
義母は義母なりに、
必死だったのかもしれないと、
今は思う。
「可哀想だから」と、
甘やかされて育った私に、
勉強のことを教えたのも、
箸の持ち方を直したのも、
家事のやり方を教えたのも、
文字をきれいに書けているかを見ていたのも、
義母だった。
あの恐ろしい日々と引き換えに、
確かに私は、
生きていくための力を身につけている。
それは、
否定できない事実だった。
そして何より、
義母は、
父を幸せにしてくれた。
父が笑っている姿を、
私は見ている。
それだけで、
救われる部分があることも、
認めざるを得なかった。
私たちは、
近づきすぎれば、
きっと壊れてしまう。
でも、
この距離なら、
たぶん大丈夫だ。
親子として、
これ以上傷つかずに、
いられる。
理解は、
赦しではない。
和解でもない。
ただ、
見えるようになった、
というだけだ。
それで、
十分だと思った。




