最初の道と、施しの重さ
旅立ちの朝
夜明け前、森の野営地は濃い霧に包まれていた。
「行くぞ、ジーク。僕の呪いを解く旅は、同時に君が世界の仕組みを知るための旅だ」
ライナスは簡素なリュックを背負い、まるでピクニックにでも行くかのように軽やかな声を出した。ルイーダは、ジークに粗末だが丈夫そうな布袋を渡した。中には、数日分の硬い保存食と、新しい水筒が入っていた。
「さっき食べたシチューの残りを乾燥させたものよ。水で戻せば食える。これは借りにしておくわ。いつか、貴方が自分で生み出した価値で返しなさい」
ジークは、それが「おこぼれ」ではないことに、昨夜以上の重みを感じた。これは施しではない。「未来の対価」であり、既に支配の輪の外にある価値として受け取らねばならない。
「……わかった」
彼は、久しぶりに心から納得して頷いた。
「一つだけ警告しておくわよ、ジーク」ルイーダは真剣な眼差しで言った。「ライナスは戦闘には強い。だが、世間の常識や感情といった支配のルールを知らない子供よ。貴方が彼の手綱を握りなさい。それが、支配の輪の外に出るための最初の訓練になるわ」
世界の理不尽
三人の旅は、まず小さな街道沿いの村を目指した。
村の入り口に差し掛かると、飢餓と貧困の空気が漂っていた。数人の老人が道の端に座り込み、行き交う旅人に頭を下げていた。彼らの目つきは、ジークがかつて持っていた、何かを縋り求める、卑しい光を宿していた。
ジークの胸が締め付けられた。この光を、自分は知っている。
ライナスは何も見えていないかのように、静かにその前を通り過ぎようとした。
「待てよ、ライナス」ジークは思わず立ち止まった。「あれは……ひどいじゃないか。何か施しをやるべきだ」
ライナスは首を傾げた。「なぜ?彼らは君の新しい価値の対価を何も提供していない。君の価値を捧げる必要はないよ」
「そんな冷たいことを言うな!彼らは飢えているんだ!」ジークは焦燥に駆られた。ルイーダの言葉が頭をよぎる。「施しは支配になる」だが、目の前の飢えを無視することは、彼の人間としての価値を否定するように思えた。
彼は、ルイーダにもらった保存食を一つ取り出し、一番近くにいた老人に差し出した。
「これ、受け取ってくれ」
老人は、瞬時に目に生気を取り戻し、痙攣した手で保存食を掴んだ。
施しがもたらすもの
老人が食料を手にした途端、他の人々がざわめき始めた。
「坊主、俺にもくれ!」「私もだ!子供が飢えているんだ!」
群衆がジークに詰め寄った。その目には、感謝ではなく、次を求める支配的な要求が宿っていた。ジークは一瞬で怯んだ。彼らに施しを与えることは、自分が一時的に「施す側(支配する側)」になることだ。そして、彼らは永遠に「施される側」として、次の施しを自分に要求し続ける。
ジークはハッとした。これが、ルイーダが言った「理不尽な欲望の循環」か。
その時、一人の男がジークの腕を掴み、持っていた布袋を奪い取ろうとした。
「全部寄越せ!お前にはもったいない!」
反射的に、ジークは男を突き飛ばした。
「やめろ!これは俺が、対価を払うために借りたものだ!」
小競り合いが始まろうとした瞬間、ライナスが静かに一歩踏み出した。彼は何も手にしていない。ただ、その「何十倍もの時を生きる」静寂を纏った眼差しで、群衆の中心を射抜いた。
「静かにしなさい」
ライナスの声は、まるで地面を這う重力のように、低く、しかし逆らうことを許さない響きを持っていた。群衆は突然、凍りついたかのように動きを止めた。彼らは、目の前の少年から発せられる圧倒的な、規格外の「力」を感じ取ったのだ。
支配の鎖、再び
ライナスは、奪い取ろうとした男の手にあった保存食を指先で取り上げ、ジークに返した。
「見てごらん、ジーク。君は彼らに施しを与えようとした。その施しが、彼らの間に嫉妬と欲望を生み、結果として暴力を生んだ。そして、その暴力を抑えるために、僕の絶対的な力(支配)が必要になった」
ライナスは老人に目を向けた。老人は、手にした保存食を大事そうに抱えながら、恐怖で震えていた。
「彼らにとって、君の施しは一時的な救いではない。それは、君という新しい支配者の出現であり、施しを巡って互いに争う支配の餌にすぎない。君は、自分の意思とは裏腹に、再び支配の鎖の循環を作り出してしまった」
ジークは全身から力が抜けるのを感じた。正しいことをしたかったのに、結局は支配の悪循環に燃料を投下しただけだった。
「じゃあ、どうすればよかったんだよ!?」ジークは絶望的な声を絞り出した。
ライナスは、老人の頭を優しく撫でた。老人は驚いて顔を上げる。
「施すのではなく、対価を求める。彼らが今、君に差し出せる価値がないのなら、君は彼らに未来の価値を担保させるか、あるいは、彼らの支配の輪郭の外に出るための、予測不能な新しい要求をするべきだった」
ライナスは立ち上がり、旅の先に広がる山脈を見据えた。
「まだ道のりは長い。支配の鎖の誘惑は、常に君の良心と混じり合って現れる。次の村では、君が施しではない方法で、彼らと関わってみなさい。そして、支配と価値のヒントを、僕の呪いを解くための情報として盗むんだ」
ジークは、自分の布袋を固く握りしめた。新しい価値を見つける旅は、世界を救う旅ではなく、世界を破壊せずに生きるための戦いなのだと、彼は悟り始めていた。




