第2話:それは、誰にも知られずに落ちていた
夜が静かに降りた。
昼間の喧騒がすっかり消えた街は、まるで昨日のことなど何ひとつなかったように、誰にも見せることのない顔をして、闇の底に沈んでいく。
私は、ただじっと立ち尽くしていた。
図書室の裏手、校舎の影。生徒がほとんど寄りつかないその場所に、小さな“なにか”が落ちていたのだ。
……いや、“なにか”ではなかった。
それは、鍵だった。
金属製の、飾り気もない、ごく普通の──けれど、普通すぎるからこそ、ありふれた教室の鍵とは明らかに違うと、直感が告げた。
私はしゃがみ込み、その鍵を拾い上げる。
手のひらに置いて眺めると、妙に古びた感触が指先に伝わってきた。けれど、それだけじゃなかった。
──冷たい。
ただの金属の冷たさではない。
もっと深く、もっと奥底にあるもの。
まるで、“誰かの気持ち”が染みついたような……そんな、やるせなさ。
「……あなたは、誰の忘れ物?」
問いかけるように呟いた自分の声が、ひどく頼りなくて、小さくて。
ふと、指先が震えていることに気づいた。
誰かが、これをここに“落とした”。
わざとではなく、だけど、誰にも見つからないように。
そう思ったとき、なぜか、胸がざわついた。
私はその鍵を、制服のポケットにしまう。
放っておくことなんて、できなかった。
まるで、あのときと同じように──
──あの日、私の前から姿を消した彼女の手紙を、机の奥で見つけたあのときと。
翌朝、私は少しだけ早く登校した。
生徒たちがまだちらほらとしかいない教室。
静けさのなかで、私はゆっくりと鞄を机に置く。
すると──
「……おはよ。朝早いんだね」
振り向くと、そこに立っていたのは“あの子”だった。
クラスでいつも目立たず、けれど誰よりもノートが綺麗で、声が澄んでいて──私が、一度も話しかけたことのない、でも気になっていた子。
彼女の名は、佐倉 璃子。
「うん……ちょっと、気になることがあって」
私は笑ってみせた。
まるで平気なふりをして。
だけどそのとき、彼女の瞳が、私の胸の奥まで見透かしてきた気がした。
──知っている。あなた、何かを見つけたでしょう?
言葉にはしないけれど、確かに伝わってくる。
その静かな眼差しは、どこか、あの日の彼女に似ていた。
「……佐倉さんは、ここに来るの早いんだね」
「うん。理由は……秘密」
くすっと笑うその声が、朝の空気のなかでやわらかく響いた。
私は、少しだけ安心した気がした。
そして──
──私は、彼女に聞いてみるべきなのかもしれない。
図書室の裏手で拾ったあの鍵のこと。
昨夜の、あの胸騒ぎの理由を。
放課後。私は勇気を出して、彼女を呼び止めた。
「佐倉さん、ちょっとだけ……時間、ある?」
「うん。いいよ」
その返事に、ほっとした。
誰かに話すことが、こんなに緊張するなんて、思っていなかった。
私たちは人気のない階段の踊り場に立った。窓の外には夕日が滲んで、オレンジ色の影が床を染めていた。
「昨日……図書室の裏で、鍵を拾ったの」
彼女は目を細め、しばらく沈黙していた。
そして、ふと口を開いた。
「それって……もしかして、“旧校舎”の鍵かも」
「旧校舎……?」
「うん。今は使われてないけど、昔はあったんだって。図書室の隣の奥に、ひっそりと……」
私は、息をのんだ。
──そんな場所、聞いたことがない。
けれど、彼女の声は真剣だった。
それだけじゃない。
その瞳の奥に、なにかを“隠している”影が見えた。
「行ってみた方がいいと思う」
「え?」
「誰かが……そこに、何かを残したままになってる。私、そういう気がするの」
それは確信のようでもあり、予感のようでもあった。
私の手の中の鍵が、ゆっくりと熱を帯びるような感覚。
──“扉を開ける時”が、近づいている。
その夜、私は鍵を机に置いて見つめていた。
金属の鈍い光。誰かの秘密。
この鍵を、見つけてしまったのは偶然か、それとも──。
けれどもう、戻るつもりはなかった。
これは、過去を探す旅じゃない。
いま目の前にある、小さな《謎》に、私は自分の意思で向き合いたいと思った。
──あの日、失った“友達”のことを、
──いま、見つけたい“真実”のことを。
この鍵が、その扉を開けてくれるなら。