第18話:もう一度、わたしを抱きしめて
ユイとして歌っていた時間は、わたしにとって夢だった。
──音のない夢。
だけど今は違う。わたしは、花音という名前を胸に、音のある世界で生きている。
「カノンさん、お疲れさまです! ラストのあの高音、マジで鳥肌でした!」
スタッフの声が遠くから届く。
スタジオの照明が落ち、あたたかなスポットだけがわたしを照らしていた。
汗ばんだ手でマイクを握ったまま、わたしはそっと目を閉じる。
「……ユイ、聞いてた?」
誰に向けた問いか、自分でもわからない。
でも、どこかでユイが見ていてくれる気がした。
わたしは、もう一人じゃない。
歌う理由を、もう見失ってなんかいない。
リハーサルのあと、控室で携帯を開く。
新しい動画のコメント欄には、あの頃のような「ユイ」への声がいくつもあった。
《ユイの再来かと思った》
《花音さんの声、懐かしい気持ちになる》
《また、あの奇跡が始まったんだね》
「……奇跡、かぁ」
あの時、声を失い、絶望のなかでバーチャルにすがったわたし。
でも今は、ちゃんと自分の足で立っている。
──それでも、わたしのなかのユイは消えない。
いや、きっと、ユイはわたしだったんだ。
現実の痛みも、虚構の孤独も、全部背負って、わたしは今ここにいる。
本番前の楽屋、誰かがそっとドアをノックした。
「……失礼します」
入ってきたのは、白いマスクをした青年。
その目だけが、強くてやさしくて、どこか懐かしかった。
「……あの、失礼ですが……お名前は?」
「律です」
息が止まった。
わたしの胸の奥に、ずっと刺さっていた名前。
ユイが最後に呼んだ、たった一人の名前だった。
「……律、くん?」
彼はマスクをゆっくり外す。
少し大人びた横顔、でも変わらない瞳の奥のまっすぐな光。
「やっと……会えたね」
言葉よりも先に、涙がこぼれていた。
律は静かに語ってくれた。
あの日、ユイの配信が終わったあと、声が出なくなったこと。
花音として生きていく決意をしたこと。
何度も、自分を責めていたこと。
──そして、また歌うことを選んだわたしを、誰よりも応援していたこと。
「ごめんね、ずっと黙ってて……」
「ううん。カノンが、いや……ユイが戻ってきてくれて、嬉しいんだ」
彼の声が、やさしく胸に染みた。
その声だけで、過去の痛みが少しずつ、少しずつほどけていく気がした。
「……でも、わたしはもうユイじゃない。声も出るし、みんなの前に立てる」
「そうだね。でも――カノンの中に、ちゃんとユイがいるよ」
「……うん」
そのとき、初めて自分の声で、ユイに「ありがとう」と言えた気がした。
ステージに立つ直前、袖で律が小さく手を握った。
「今日の歌、誰に届ける?」
「──あの頃のわたしに。そして、いまのわたしを見つけてくれた人に」
照明が落ちる。
観客のざわめきが、静寂に変わる。
スポットが当たる先、わたしはそっとマイクを持った。
「こんばんは、花音です」
静かな第一声。
会場中が息をのむ。
「今日は、大切な歌を届けます。過去のわたしにも、ここにいるあなたにも――わたしは、ここにいますって」
前奏が流れる。
あの頃、ユイとして歌っていたメロディ。
でも今は、花音として。
その一音一音に、わたしの全部を乗せて。
声をなくして、名前も偽って、それでも歌い続けてきた。
あの痛みがあったからこそ、今、ここで、歌える。
──わたしの声で、わたしの歌で、
もう一度、わたしを抱きしめる。
花音として、ユイとして、生きてきたすべてが、音になって溶けていく。
それは、わたしにしか歌えない、たったひとつの歌だった。
構想を練るので、少しの間お休みします。




