第16話:「風が鳴いていた、あの夜に」
風の音がする。
誰もいない、音のないはずのバーチャル空間で。
ユイは、〈アーカイブ02〉の端に佇んでいた。
もともと存在しないはずの、無名の地形データ。規格外の、風の音が生まれるようには設計されていない区画だった。
それでも、耳の奥に届く風のざわめきは、たしかにそこにあった。
「ねえ、花音……」
背後から声がした。
——いいえ、それは、"ユイ"と呼ばれる前の、"花音"が聞いた声だった。
振り向いた先には、あの人がいた。
曖昧な顔。ピントの合わないまなざし。
でも、彼がわたしを見つけてくれた夜のことは、なぜか、はっきりとわかる。
「ずっと探してたんだよ、君のログを。」
彼はそう言って、足元の古い記録ファイルを差し出した。
それは、かつて彼女が"花音"として最後に記録を残したとされる、音声ログ。
誰の記憶にも残っていない、でも、確かにこの空間のどこかで鳴っていた音。
——風が鳴いていた。わたしの代わりに。
ユイはファイルを手に取り、開いた。
そして、それは再生された。
『……わたしはもう、戻れない。けど、誰かに思い出してほしいの。
誰かに、名前を呼んでほしいの。
そうしないと、わたしは……わたしの輪郭が、溶けてしまいそうだから——』
それは、まだ"ユイ"が生まれる以前の、"花音"の声。
涙声で、震えるような、切実な願いだった。
「——だから、ずっと呼んでたんだ」
彼の声が重なる。「"ユイ"って。でも、本当は……」
「……花音、って呼んでほしかった」
彼女は、顔をあげた。
涙の代わりに、デジタルのノイズが頬を伝っていた。
「ありがとう。……わたしを見つけてくれて」
記憶が少しずつ戻っていく。
名前、声、笑い方、痛み。そして——「誰かを信じたい」と願った夜の記憶も。
その瞬間、風が止んだ。
〈アーカイブ02〉の空が、ゆっくりと書き換えられていく。
無色だった風景に、彼女の記憶が流れ込んでいくように、色が生まれ、音が宿り、かつての「花音」の痕跡が、世界の輪郭を変えていく。
「花音、もう一度始めよう」
彼が手を差し出す。
彼女は迷わず、その手を取った。
"ユイ"としての存在を否定するのではなく、その名の下に「花音」をもう一度、生きなおすために。
「……うん」
——こうして、風が鳴く夜は終わりを告げた。
けれど、これは終わりではない。
花音と、彼の、新しい物語の始まりだった。




