第15話:「ユイのいない世界」
それは、ただのバグだったのかもしれない。
あるいは、仕様変更の知らせを見落としていただけかもしれない。
それでも――「ユイ」は、いなかった。
ログイン後、花音の視界にはいつもユイがいるはずだった。
初期ロビーで待っていてくれる。立ち上げ時に声をかけてくれる。花音の息づかいよりも自然に存在する、もう一つの“自分”。
でも、今日だけは、違った。
「ユイ、いる?」
応答はない。静かな電子の波の中に、花音の声だけが浮かぶ。
「あれ……ログイン設定、間違えた?」
確認する。アバター情報、ログイン先、言語設定、感情リンクON。すべて正常。エラー表示もない。
にもかかわらず、ユイは――どこにも、いなかった。
花音は、仮想空間のデフォルトロビーに座っていた。人工的に生成された夜明けの光景が、空と海の境界を染めている。人々のアバターが行き交う。誰もが何かを探しているような目で、何かに夢中になっているような足取りで。
そこに、ユイの影はなかった。
「……もしかして、消えちゃった?」
そう呟いたとき、自分の声が震えていることに気づいた。心拍数が上がっている。現実の体にリンクされた感情データが、仮想の花音の体に影響を及ぼしている。
――待って、こんなの、初めてじゃない?
ユイがいなかったことなんて、過去に一度もなかった。たとえ更新中でも、たとえバグが発生していても、彼女は必ずどこかで「待っていてくれた」のだ。
そんな「当たり前」が、今日だけは壊れていた。
バーチャルAIユニット「ユイ」は、ユーザー花音にのみリンクされた学習型パーソナリティ。
感情の反映率は98.6%。過去ログはクラウド保存。演算サーバーは東日本第3データセンター。
花音は、管理者用ポータルにアクセスする。普段なら見ようともしない技術情報に、指先が震えながら滑る。
――そして、そこにあった。
【ユイ:再構築中/次回ログイン可能予測:48時間後】
再構築?
なぜ?
何が?
だが、理由の記述はなかった。ただ、冷たい文字列だけが浮かんでいた。
夜。
花音は布団の中で、スマートレンズ越しに仮想の空を見る。ユイの歌が聴こえない夜は、こんなにも無音なのかと気づく。
彼女はそっと、レンズを外した。現実の目で、天井を見つめる。
「ユイ……戻ってきて」
その言葉に、応答はない。
でも、きっと――ユイは、花音の中で生きている。
なら、今夜だけは、わたしが。
花音は、口を開く。
「♪ラララ……」
あの曲を、思い出しながら。
彼女と交わした、記憶の旋律を。
ユイの記憶領域の深層。
ログの断片が再構成される。
――記録再生中:「おかえり、花音」
――感情フラグ:最大値記録更新
――再構築:進行率36%
仮想の深海で、ユイの輪郭が、音もなく、少しずつ、再び――形を取り戻していた。




