婚約破棄は愛の形
「リディア・エルフォード。本日をもって、君との婚約を破棄する」
第二王子レオニスは、華やかな舞踏会の真っ只中でそう告げた。
静まり返った空間に響くその言葉は、氷の刃のように冷たく、鋭かった。
リディアは微笑みを崩さなかった。
公爵令嬢としての誇りが、それを許さなかったからだ。
「……理由を、お聞かせ願えますか?」
「他に想い人ができた。それだけだ」
誰もがその場で凍りついた。
(そんなはずがない……でも、なぜ……レオニス様)
心の中で叫びながらも、リディアは静かに一礼し、その場を去った。
涙は流さなかった。
泣くのは、人の死に立ち会ったときだけと、心に決めていたから……。
リディアは王宮を去り、父が治める広大な領地のなかでも、王都から最も遠い地を選び、ひっそりと暮らし始めた。
使用人たちは何も尋ねず、その話題に触れなかった。 むしろ、同情の眼差しを向けてきた。それが、何よりもつらかった。
舞踏や音楽から離れ、日々は庭の手入れで過ぎていった。
バラが咲くたびに、レオニスとの記憶が胸をよぎる。
そんなある日。噂好きのメイドが、湯気立つ紅茶を運びながら、口を開いた。
「お嬢様、ご存じですか? レオニス王子様、ご体調がすぐれないとか……」
リディアは手を止めた。
「体調……?」
「ええ、公務も休みがちで、ずいぶんお痩せになられたとか。重いご病気では、と噂されておりますの」
「そんな話、どこで……?」
「王都の薬屋が、王城に珍しい薬草を届けたそうです。それに、侍医だけでなく、国外から医師を呼び寄せたとも……」
紅茶を一口含みながらも、リディアの胸は早鐘のように高鳴っていた。
(まさか……でも……なぜ、黙っていたの? 私を突き放すために……?)
ふと、舞踏会での彼の瞳が寂しげだったことを思い出す。
(自分の死を悟って、私を自由にしようと……?)
手紙を出すこともできた。けれど……
「今すぐ、王都に向かうわ!」
彼女は、自分の目と言葉で真実を確かめたかった。
使用人たちの心配を背に、リディアは荷をまとめ、一人馬車に乗り込んだ。
王都への道は、暖かな日差しとは裏腹に、困難に満ちていた。
最初の難題は、馬車の故障だった。
「申し訳ありません。車輪が外れまして……修理に数時間はかかるかと」
御者が焦りながら謝る。次の馬車は翌朝まで来ないという。
(今、止まっている場合じゃないのに……!)
リディアは荷を背負い、徒歩で次の町を目指す決意を固めた。
草をかき分け、獣道を抜ける。
夕暮れが迫り、あたりは次第に薄暗くなる。
(怖い……でも、戻れない)
頭の中には、ただレオニスのことだけがあった。
やがて、雨が降り始めた。
泥で滑る地面にドレスの裾は濡れ、足元は重くなる。
「っ……はぁ、はぁ……」
右足をくじき、倒れ込んだそのとき……
「大丈夫ですか、お嬢さん!」
近くを通りかかった青年が声をかけてくれた。薬草採取に来ていたという青年は、リディアを見るなり驚く。
「おや……あなた、もしかして第二王子レオニス様の元婚約者では?」
「……はい」
「王都では噂になっています。王子のご病気……もう長くないのではないかと」
やはり、噂は本当だった。
(やっぱり、直接会って話さなければ……!)
青年は彼女を小屋へ案内し、湿布と食事を与えてくれた。
「足が治るまで、ここで休んでください」
「ありがとうございます。でも……明日には出発したいのです」
「……無理なさらぬよう。想いが届きますよう祈っています」
翌朝、雨は止んでいた。
右足を引きずりながら、リディアは再び王都を目指す。
やがて、小さな村に差しかかると、道端に倒れている幼い少年を見つけた。
泥だらけの身体は小刻みに震え、触れると熱がこもっていた。
「大丈夫?」
声をかけても、少年は弱々しく呻くだけだった。
彼女は少年を背負い、村の中へ駆け込む。
簡素ながら医者のいる家を見つけ、治療を頼んでいると、その子の父親が現れた。
「ありがとう。この子は命を落とすところだった」
礼を述べられる中、少年を託し、リディアは再び旅を続けた。
草原を歩き続けるうち、背後から唸り声が聞こえた。野犬が三頭、彼女を狙っていた。
「来ないで……!」
パンを袋から取り出して投げると、犬たちはそれに飛びついた。
その隙に走り出すが、草むらの石につまずいて転ぶ。
「いった……」
左足首に激痛が走る。だが……
(それでも……絶対に、あの人に会う)
彼女の目に迷いはなかった。
「あなたを愛している」と伝えるために。
病に冒され、命が短いとしても……
(一緒にいたい。それが私の想い)
ようやく王都の門が見えたのは、夕暮れのことだった。
泥だらけのドレス、傷だらけの足。だが、彼女の目は真っ直ぐ前を見ていた。
「レオニス様に、会わせてください!」
衛兵たちは警戒し、リディアが名乗ると顔を見合わせた。
「今は戒厳中でして……」
説明しようとしても、疲労のせいで言葉が出てこない。
そのとき……
「た、隊長!」
あの少年の父親だった。リディアは、王宮で彼を何度か見かけたことがあった。しかし、服装が違っていたのと、急いでいたこともあり、気が付かなかった。
「この方は公爵令嬢だ。私が保証する」
その一言で、門は開かれた。
「……リディア様。殿下は、城奥の療養の間におられます。ご案内いたします」
少年の父親に伴われ、リディアはレオニスのもとへ向かった。
療養の間の扉を開けると、レオニスは窓辺に立っていた。
痩せた肩、青白い顔……でも、確かに彼だった。
「……どうして、来たんだ」
「あなたが病気だと聞いたから……」
「噂を……聞いたのか。それでも、来なくてよかったのに」
「来るに決まってる! 私たちは婚約していたのよ! 私は今もあなたを愛しているの!」
レオニスは言葉を失った。
「私を遠ざけたのね。でも、私は諦めない」
リディアは膝をつき、彼の手を取った。
「病気でも、短い命でもいい。私はあなたと共にいたい。心の底から、そう思ってるの」
その瞬間、レオニスの頬を一筋の涙が伝った。
「……ありがとう、リディア。僕が、浅はかだったよ……。君の言葉と決意で救われた……」
その日から、リディアは城に滞在し、レオニスの看病を手伝った。
医師たちも驚くほどに、彼の容体は日に日に回復していった。
「まるで、心が体を動かしているようです」
その言葉に、リディアはそっと微笑んだ。
(心って、こんなにも強いものなのね)
やがて病は癒え、レオニスは再び公の場に立った。
そして、高らかに宣言した。
「私は再び、リディア・エルフォードとの婚約を結びます」
集まった民衆から、歓声が上がった。
その歓声の中、リディアは微笑んだ。
どれほど遠く離れても、どれほど困難があっても……
「諦めずに、あなたに会いに来てよかった」
その言葉に、レオニスは静かに頷いた。
「僕も、君を信じてよかったよ」
二人の未来は、どんな困難も乗り越える強い絆で結ばれていた。
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