第1話 定年の花束と異世界の誘い
作品ナンバー2
ほっと一息ついていただければ幸いです。
春の風が、駅のホームに吹き抜ける。
咲き始めた桜の花びらが、舞い散る中――
「長い間、お疲れさまでした!」
「本当にありがとうございました、佐藤さん!」
「これからはゆっくり休んでくださいね!」
花束を手に、にこやかな笑顔に囲まれながらホームに立つ男の名は、佐藤 達夫。年齢、六十歳。
今日、彼は長年勤めていた家電量販店『エレキワンダー』を定年退職した。
40年以上、冷蔵庫、洗濯機、テレビ、電子レンジ、エアコン、そして近年はスマート家電に至るまで、多くの製品を販売し、時にお客様の悩みを解決してきたベテラン販売員だ。
家族はいない。
独身を貫き、職場を家族のように思いながら生きてきた。
その人生が、今日で一区切りを迎えた。
「……はあ。終わっちゃったな」
手に持った花束の重さが、心の奥底にまで響いてくる。
これから、何をして生きていけばいいのか――明確な答えはなかった。
電車に乗り込む。ちょうど帰宅ラッシュ前の静かな車内。
運良く、窓際の席に座ることができた。
ドアが閉まり、電車は静かに動き出す。
佐藤は手のひらをじっと見つめた。
これまで何千、何万と家電を触ってきたこの手。だが、今後その知識を活かす場は、もうないかもしれない。
そんな思いに沈んでいた時だった。
「……おじさん、ちょっといいですか?」
不意に、目の前に立った女性の声に、佐藤は顔を上げた。
その女性は――まるでモデルのように整った顔立ち。艶やかな黒髪に、品のある白いワンピース。
そして、不思議な光を宿した瞳で、こちらを見つめていた。
年の頃は二十代前半だろうか。
こんな若い女性が、自分に何の用だろう?
「……はい?」
「おじさん。私と一緒に、世界を救いませんか?」
「……はい?」
佐藤は思わず聞き返した。
世界を……救う?
え? 何の勧誘? 詐欺? 宗教?
彼が混乱している間にも、女性は微笑みながら右手を差し出してきた。
その手が、ふっと淡く光を帯び――
「佐藤達夫さん。あなたの“家電の知識”を、私の世界に貸してください」
「え、ちょ、ちょっと待っ――」
声を上げる間もなく、世界が――消えた。
次に目を開けたとき、そこは――真っ白な空間だった。
空も、地面も、遠くまで果てしなく白。だが不思議と寒くはない。
むしろ心地よい空気に包まれていた。
「ここは……どこ?」
「異世界への中継空間、みたいなものです。あなたの世界と、私たちの世界をつなぐ狭間」
声の主――さっきの美女が、すぐ隣に立っていた。
その姿は、さっきと同じワンピース。だがその背後には、いつの間にか金色の翼が広がっていた。
「……天使?」
「いいえ。私は“女神”です。この世界のひとつ、【ルメリア】という世界を司っています」
「……め、女神?」
佐藤の頭は、完全に情報過多で処理が追いつかない。
電車に乗っていたはずなのに、今は真っ白な空間で、女神と名乗る美女と向き合っている。
「ルメリアでは、剣と魔法を中心とした文明が広まっています。ですが、生活はとても不便です。魔力があるとはいえ、効率の悪い調理、冷蔵機能も乏しい保存法、暑さ寒さを凌ぐ手段も乏しい……」
「うん……それは確かに……不便そうですね」
「そこで私は考えました。あなたの世界の“家電”を、魔力で再現できれば、人々の暮らしをもっと良くできるのではないかと」
女神の目は真剣だった。
「そして、家電に最も詳しい、そしてこの先の人生を迷っていたあなたを――選びました」
「…………え?」
まるでテレビの中のファンタジードラマを見ているようなセリフを、今、自分が聞かされている。
「……つまり、俺を、その異世界に連れていって……家電を、広めろと?」
「はい。あなたの知識をもとに、私の世界の技術者たちが、“魔力家電”を開発していきます。もちろん、あなたにはその指導をお願いしたいのです」
「…………」
佐藤は、思わず小さく笑った。
バカバカしい。
でも、ちょっとワクワクする。
今の世界に残っても、定年退職後の生活があるだけ。趣味も特技も、仕事に結びつけていた人間にとって、明日からの毎日は、ただの“暇”に過ぎないかもしれなかった。
でも――異世界で、“家電を広める”?
ありえない話だ。
でも、面白そうだ。
「……いいでしょう。やってみます。俺でよければ」
「本当ですか!?」
女神の顔が、ぱっと明るくなる。
その瞬間、白い空間に色が差し込み始めた。
空が青く、地面が緑に。
まるで絵の具を落としたように、鮮やかな世界が広がっていく。
「ようこそ、ルメリアへ! 佐藤達夫さん!」
女神の声とともに、佐藤の身体がふわりと浮かび、空へと吸い込まれていった――。
「……うわっ」
目の前に広がったのは、中世ヨーロッパ風の城塞都市。
石畳の道路、木造の家々、そして空を飛ぶ魔法使い(らしき人物)たち。
「……ほんとに、来ちゃったんだな」
佐藤は、自分がいま革のブーツを履き、ローブを羽織っていることに気づく。
身体も少し軽くなっているような気がする。
もしかしたら、年齢も若返っているのではないか?
「達夫さん、こちらが拠点となる“魔導技研ラボ”です」
女神が案内したのは、城のふもとにある立派な塔だった。
中に入ると、大小さまざまな魔導具や、試験管のようなものが並び、白衣を着た技術者らしき人々が忙しそうに働いている。
「彼らが、あなたの知識をもとに“魔導家電”を作るスタッフです」
「……おお、みんな若いなあ」
若者たちが、期待に満ちた目で佐藤を見てくる。
まるで、自分が未来の扉を開く鍵であるかのように。
定年を迎え、何者でもなくなったはずの自分が――今、この世界で必要とされている。
「さあ、達夫さん。まずは、この世界に“魔力冷蔵庫”を作ってみませんか?」
「……いいですね。任せてください。冷蔵庫なら、得意中の得意ですよ」
新たな人生が、今、始まった。
剣と魔法の世界に、家電革命を起こすために――。
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