いずれ国を背負う闇皇子の継母らしいので捨て置いてくださいませ
「お前も伯爵家の娘なら役目を果たせ!」
父親からの叱責に萎縮する伯爵家の長女――ルーミィは小さく頷き、応接間の扉を開いた。
ルーミィは幼い頃から表情が乏しく、声が小さく、愛想がなかった。
両親から期待されず、妹からも馬鹿にされ、次第にルーミィは社交界にも参加させてもらえなくなった。
伯爵令嬢にもかかわらず、着回しのドレスと最低限の化粧道具しか与えられない。妹は流行りのドレスを着て、自分の魅力を最大限発揮できるようなメイクを施すというのに、姉妹には雲泥の差があった。
2つ年下の妹は男性の保護欲をかきたてる容姿をしていて、愛想の良い子だった。
当然のように妹の方が両親から愛され、とんとん拍子で侯爵家の次男と婚約し、数年後には結婚して伯爵家へ婿入りが果たされれば全てが上手くいく。そんな順風満帆な人生を送っていた。
生まれが伯爵家であったとしても、誰にも認めてもらえず、生きる意味を見出せないルーミィは父親が勝手に決めた男性と婚約した。
しかし、何を考えているのか分からない不気味な女、という理由で婚約破棄され、更に塞ぎ込む結果に終わった。
今日は2人目となる婚約者との顔合わせの日。
ルーミィは相手の顔を見て言葉を詰まらせた。
「……ルーミィ・カタフストです」
「初めまして、ルーミィ嬢。ラルフレッド・シュバルナだ」
目の前に座るのは、艶やかな黒髪と漆黒の瞳が目を引く美丈夫だった。
一度、婚約者に捨てられ、他に貰い手がいないのだから年上で訳ありの御仁でいいだろう、と父親が言っていたことを思い出す。
ルーミィとしても相手は誰でもよかった。
伯爵家の長女として実家に益をもたらすのがお前の務めだ、と言われ続けた人生。どうすればこの家から逃げ出せるのかも分からないまま、16年も経ってしまった。
ルーミィに二度目の失敗はない。このまま婚約が成立しなければ親子の縁を切り、修道院に入れられることになっている。
それでもいいかなと思っていたが、公爵様が何の取り柄もない自分を選んでくださったのだから無礼な対応だけはしたくないと心に決めてこの場に来た。
ルーミィはおずおずと顔を上げ、相手の男性を見つめる。
ラルフレッド公爵。この国の前王の弟でもある氷の宰相。
顔は良いが、性格には難ありとされる人物であることは有名な話だが、何よりもこれまでラルフレッドが独身だった理由は彼の隣にちょこんと座る少年にあった。
「ほら、挨拶しなさい」
「はい。アウル・シュバルナです」
ラルフレッドとは似ても似つかない煌めく銀髪。瞳の色は翡翠で、顔の造形はおっとりとしている。
言わずもがなラルフレッド公爵は子持ちだ。どこの誰に生ませたのか分からない子を持つ親。
しかし、どこか冷ややかで親子というには違和感があった。
と、言ってもルーミィは家族から蔑ろにされているのだから偉そうなことを言える立場ではなかった。
「今日は貴重な時間を作ってくれてありがとう。お会いできて光栄だよ」
白い歯が光る。
眩しくさえ思えるラルフレッドに、ルーミィは萎縮するばかりで気の利いたお世辞の一つも言えない。
妹なら、と後ろ向きなことを考えてしまっていると、ふとアウル少年がモジモジしていることに気づいた。
ラルフレッドを見上げては、俯いて拳を握りしめている。
父親が異変に気づく気配はない。
ルーミィはそっと手を伸ばし、扉を指差した。
「ルーミィ嬢?」
「どうぞ、アウル様。外にメイドが待機しています」
「……でも」
コクリと頷く。
すると、アウルがおずおずと立ち上がり、頭を下げてからそそくさと退室していった。
鬼の形相を覗かせるラルフレッドに最大限の苦笑いを送る。
「申し訳ない。せっかくの場なのに、とんだご無礼を」
「いえ。お気になさらないでください」
「アウルに何があったのやら。今朝は体調に異常はなかったのだが」
ルーミィが目を伏せる。
ラルフレッドは怒りと困惑の入り混じった表情だったが、離席していたアウルのすっきりした顔を見て状況を悟った。
「ルーミィ様、ありがとうございました」
「……重ねて申し訳ない。お嬢さんの前ではしたない」
「叱らないであげてください。知らない場所で、知らない人と会うのです。緊張もするでしょう」
ルーミィの経験則からくる直感は正しかった。
あのまま、この場に拘束していれば、もっと悲惨な事態になっていたと悟ったラルフレッドは深く頭を下げた。
「ルーミィ嬢はすごいな。俺はこの子の親なのに些細な変化にも気づけなかった」
ルーミィは謙遜することも、傲ることもなく、ただぎこちなく微笑むだけだ。
「あなたのような優しい人がアウルの母親になってくれたら嬉しいな。そうすれば、俺も気兼ねなく仕事に向かえる」
つまり、契約結婚がお望みであると。
そんな風にルーミィは受け取った。
「だが、俺のような気味の悪い男は嫌だろう?」
「気味が悪いなんてことはありません」
不躾にも言葉に被せるように否定したルーミィに、ラルフレッドがしきりに目を瞬く。
「むしろ、わたしのような愛想のない女とは釣り合わないかと存じます」
と、言ってはみたものの、この縁談はルーミィにとって悪いものではなかった。
相手は格上の公爵様。
しかも、すでに物心をついたお世継ぎがいる。ラルフレッドが二人目の子供は不要と言うのなら夜の相手をすることも、乳離れしているアウルの子育てに関わることもない。
ラルフレッド公爵は父親とルーミィの理想とする相手で間違いなかった。
「ルーミィ嬢がよければ、この話を進めたい。初対面ですぐに決められないだろうが、どうか前向きに検討を――」
「よろしくお願いいたします」
ルーミィの決断は早かった。
打算的に結婚を考えることを悪いことだとは思わない。いかに自分に有利な条件で結婚できるかが重要だった。
◇◆◇◆◇◆
この世界における黒髪の忌避さといったら目を背けたくなるものだ。
ただし、それはこの世界しか知らなければ、という前提の話である。
ルーミィにとって黒髪の人を見るのは初めての経験だった。それなのに、すんなりとラルフレッド公爵を受け入れられたのは、何故か親しみを覚えたからだった。
「ルーミィ様、おはようございます」
「おはようございます、アウル様」
ルーミィが公爵家に嫁いで数日。
すでに慎ましい結婚式が執り行われ、唯一神の前で夫婦の誓いを立てていた。
ラルフレッドは仕事で家を空けることが多く、ルーミィは公爵夫人として屋敷内の運営を請け負うようになった。
伯爵令嬢ではあるが、そういった教育を受けていないルーミィが、毎日のように四苦八苦しながら、また眉間をほぐしながら務めを果たしていることをラルフレッドには伝えられていなかった。
そして公爵家の息子であるアウルとは最低限の挨拶をする関係になった。アウルは公爵邸に出入りする家庭教師と過ごす時間が多く、ルーミィと言葉を交わすのは起床後と就寝前のみ。
食事を共にすることはあっても基本的に会話はなく、黙々と食べて、帰室するというのが習慣だった。
そんなある日、珍しくラルフレッドがルーミィの部屋を訪ねて来た。
「いつもありがとう。ルーミィが居てくれるおかげで屋敷の心配をしなくて良くなった。執事たちもルーミィを褒めていたよ。さすが伯爵家のご令嬢だ。俺にはもったいない妻だよ」
「……身に余るお言葉です」
「困ったことがあればすぐに手紙をくれ。返事の到着は遅くなるだろうが、必ず目を通す」
「はい。そのようにいたします」
「それと。ルーミィの好みに合うか分からないが、是非、受け取って欲しい」
差し出されたネックレスに目を丸くする。
物珍しいピンクゴールドのネックレスは派手なものではなく、普段使いしても気にならないシンプルなデザインのものだった。
「……よろしいのですか?」
上目遣いに聞いてみる。
家族からもプレゼントをされたことのないルーミィだ。男性からの初めての贈り物に困惑するのは当然の反応だった。
「もちろん。後ろを向いて」
言われた通りにするとラルフレッドの長い指が伸びてきて、貰ったばかりのネックレスが胸元で可愛らしく揺れる。
姿見に映る惚けた表情のルーミィと穏やかなラルフレッドの視線が交差し、その大人の余裕がルーミィの頬を熱くさせた。
「似合っているよ」
「……ありがとうございます」
取り繕っていつもの微笑みを返すルーミィは心の中で自分に言い聞かせた。
(契約妻を演じるわたしへのご褒美よ。これはご機嫌取りなの、よね)
自分たちは契約結婚で互いに利益のある関係を築いている。少なくともルーミィはそう受け取っていた。
ラルフレッドは運営費とは別にルーミィが自由に使えるお金を渡してくれるから生活には何一つ困っていないが、それでもこうして精神面のフォローもされると勘違いしそうになってしまう。
(わたしはお飾りの後妻。不在だった公爵夫人の役目を果たすのが、わたしの務め)
鼓動がうるさい。
こんなに気持ちを揺さぶられたのは初めてで、ルーミィは本心を隠すようにテーブルに向かい、ティーカップに紅茶を注いだ。
「いかがですか。少しはリラックスできるかと思います」
「もう十分だよ。でも、せっかくだからいただこう」
十分……つまり、これ以上、同じ部屋にいる必要はないと言われていると受け取った。
気を遣って着席してくれたラルフレッドを引き止めてしまったことに負い目を感じる。
「美味だ。ルーミィの言う通り、心が落ち着く」
暖かい息をつくラルフレッドの姿は、まるで絵画を切り取ったようで、とても同じ空間にいる気がしなかった。
「最近は仕事が立て込んでいて、まともに家に帰ることもできない。本当はもっと家族の時間を作りたいのに」
まだ幼い子供を一人残して家を空けるのは心配でしょう。
一緒にいるのは年齢を重ねた使用人と、血の繋がりのないわたしだけだもの。
と、ルーミィが目を伏せる。
ふと、視線を上げると眉間をほぐすラルフレッドの姿が見えて、ほんの少しだけ親近感を覚えた。
(いつも余裕のある公爵様もこういう仕草をするんだ)
普段から癖でやっているからこそ分かる。
相当、疲れておられるのだ。
しかし、自分にできることはなにもなく、むしろ貴重な休日を自分と過ごさせることで潰していると更に胸を締め付けられた。
「最近は魔物の侵攻が活発でね。討伐隊の派遣依頼がひっきりなしなんだよ」
政治や争い事に疎いルーミィが聞いても分からないことをラルフレッドは語ってくれた。
理解はできなくても、相槌を打つことはできる。
意見を求められないことが何よりもルーミィにとってはありがたいことだった。
「そろそろお部屋に戻ってお寛ぎください。せっかくのお休みです。それに、アウル様もお喜びのことでしょうから、家族水入らず過ごしてあげてくださいませ」
「アウルの所には後で向かう。まずは愛する妻の元に、と思ってね。それに家族の時間を過ごすならルーミィも一緒にだ」
失言だった。
それにしても、どうして実子のアウル様よりも後妻のわたしを優先したのかしら。
そんなに面倒な女と思われている、とか……?
心の中でネガティブな考えがぐるぐる巡った。
翌朝、職場である王宮へ向かう身支度をするラルフレッドに呼ばれたルーミィは私室へと向かった。
「おはようございます。いってらっしゃい――」
「行きたくない」
子供のように駄々をこねるラルフレッドの姿に目を丸くしたのは一瞬。
あまりにも弱々しく俯くラルフレッドの頭に手を置き、撫でていた。
ラルフレッドの視線の先では昨日、プレゼントしたネックレスがルーミィの胸元で揺れていた。
「お帰りをお待ちしています」
「本当に?」
「はい。もちろんです」
「……分かった。ならば、行こう」
まるで、ルーミィが帰りを待っていないと言えば、仕事に行かないような物言いに笑ってしまった。
「ふふっ」
「っ……ルーミィはそうやって笑うのだな」
「あっ。すみません、はしたなくて」
「何を言う。ルーミィにはずっと俺の隣で笑っていて欲しい。もっと好きなように、自由にしてくれていいんだよ」
「好きな、ように」
「あぁ。そうだ。時間がある時で構わないから、あの子の話を聞いてやってくれないか。何か悩んでいるみたいなんだが、父親には、なかなか言いにくいこともあるみたいで」
ラルフレッドのたじたじにしている姿も噂や第一印象と違いすぎて、ルーミィはまたしても可愛らしくて吹き出した。
私室に二人きりだった時とは雲泥の差がある、凛々しい表情のまま玄関へと向かうラルフレッドの背中を追う。
玄関では使用人たちが待ち構えていて、お見送りの準備を整えていた。
「すぐに帰る」
何気ない当たり前の一言なのに、使用人たちがハッと息を呑んだのを不思議に思った。
短く言って閉じられた扉を見つめる。少し寂しく感じるのは、久々にラルフレッドと同じ時間を過ごしたからだろうか。
「旦那様が『帰る』と言い残して出発されたのは初めてなのですよ。全て奥様のおかげです」
古くから公爵家に仕える執事からの発言に耳を疑う。
「そう、なのですか?」
「えぇ。奥様がいらしてから旦那様も時間を見つけては屋敷に足を向けてくださるようになり、我らも嬉しく思っています」
「アウル様のことは?」
「お気にかけてくださってはいますが、我々に任せきりでした」
「そう、ですか」
ルーミィはそれ以上の追求をやめた。
きっと親に愛されてこなかった自分には分からないことが、血の繋がらない自分には計り知れないことが、二人の間にはあるのだろうと諦めた。
ラルフレッドが出かけてから、ルーミィはアウルの部屋を訪れた。
しかし、ノックをしても返事はなく、仕方なく静かに扉を開き、顔を覗かせた。
「……ダメ! 入ってこないで!」
「アウル様? 一体、どうしたのですか?」
「家庭教師に聞いたでしょ! ボクは闇の魔法使いになっちゃったんだ!」
はて、と首を傾げる。
確かに先日、アウルに魔法の指南をしてくれている教師から「坊ちゃんの魔法色は黒でした」と報告は受けたが、それがどうして闇の魔法使いに繋がるのか分からなかった。
それもそのはず、ルーミィに魔法は使えない。
実家にいた頃から社交界に参加させてもらえず、屋敷からも滅多に出たことのないルーミィが魔法について知っていることは限られていた。
「魔法色が黒なのですよね? お父様の髪色と同じで良かったのではありませんか?」
「ダメだよ! だって、ボクの魔法は……人を傷つけるんだ!」
アウルが興奮するほどに魔力は膨れ上がり、ルーミィの周囲を汚染していく。
しかし、ルーミィは恐れない。微動だにしないどころか一歩ずつ近づいた。
「わたしには魔法のことは分かりません。ですが、魔法は使い方次第と聞いた覚えがあります。仮にアウル様が闇の魔法使いだったとしても、進むべき道を間違えなければ良いのではないでしょうか」
「……ボクが怖くないの? 気持ち悪くないの? こんなに汚い色の魔力なのにっ」
「あの家庭教師が気持ち悪いと言ったのですか?」
初めて見る継母のしかめっ面にアウルは黙りこくった。
「そう、ですか」
ルーミィの怒りの矛先が自分に向いていると勘違いしたアウルが縮こまる。
無表情のまま無言で近づくルーミィが手を伸ばすと、より一層、体を強ばらせた。
「あなたがどんな魔法使いになってもわたしは嫌いになりませんよ」
「……ルーミィ様」
ふっと微笑み、柔らかい銀髪を撫でているとアウルが小刻みに震え始め、嗚咽と共に何度もルーミィの名前を呼んだ。
その日のうちにルーミィは家庭教師の男を呼びつけた。ルーミィが公爵家にやって来て初めての行動に使用人たちが浮き足立つ。
「アウル様のことを気持ち悪いとおっしゃったというのは事実ですか?」
「誤解です! そんな直接的なことは申しておりません」
「近いことは言ったのですね。あの頃の子供がどれくらい多感かお分かりになりますか?」
「全ては公爵家の未来を想ってのことです! ラルフレッド閣下は黒髪が故に忌避されています。それなのに御子息が闇魔法の適性をお持ちとなれば、今よりも立場が危うくなります!」
「だからと言って、大人の事情を子供に押しつけるのは違うと思います。ラルフレッド様もアウル様が魔法を使えることを喜びこそすれ、不気味に思うことはないでしょう」
「しかし!」
「あなたを解雇します」
「はぁ!?」
「アウル様に悪影響を及ぼしかねない人材をお側に置く理由がありません。手当てには色をつけますし、推薦状も書きましょう。お引き取りを」
「お、お待ち下さい、奥様!」
聞く耳を持たずに客間を退室したルーミィは私室に駆け込むと床にへたり込んでしまった。
他者の人生を大きく変える選択をしたのは初めてだ。いくら子供のためとはいえ、少し横暴だったかもしれない。
ラルフレッドの許可を得る前に行動してしまったことも後悔した。
いくら、屋敷の管理を任されているといっても雇用にまで口を出してしまっては未来はないだろう。せめて……と決心して筆を取る。
アウルの現状、自分の想い、下した判断、そしてどんな処罰でも受け入れるとしたためた手紙をラルフレッドに届けるように執事に渡したルーミィは、再び、アウルの部屋を訪れた。
「アウル様。一度、わたしに魔法を見せてくれませんか?」
「で、でも……」
「では、中庭に行きましょう」
「場所の問題じゃなくてっ――」
アウルの手を引き、中庭へ移動したルーミィは植木に向かって魔法を発動するように促した。
何度も不安そうに見上げてくるアウルに頷き返して「絶対に大丈夫だから」と手を握る。
やがてアウルが観念したように手のひらを植木に向けた。
「ふん!」
アウルの手のひらから放たれた黒い球体が大木を貫く。
想像を超える魔法の威力だったが、ルーミィは眉一つ動かさなかった。
(これが魔法。どんな原理なのか分からないけれど、人に向けなければ傷つけないはず。まずは、わたしが魔法について学ばないと)
不安に揺れるアウルの瞳を見据え、ルーミィは柔らかく微笑んだ。
「すごいです。将来は優秀な魔法使いになられますね。アウル様が力をコントロールできるように一緒に勉強しましょう」
「いいの? ボクが魔法を使っても?」
「誰がダメだと言ったのですか?」
「先生が……」
早計だったが自分の判断は間違っていなかったと確信を得る。
ルーミィは居ても立っても居られず、アウルを抱き締め、耳元で囁いた。
「大丈夫です。何があってもわたしだけはお側にいますから」
「……お母様」
初めて母と呼ばれたことにルーミィの肩も震える。
これまでの人生、母親に愛されたことがなかった自分が母親になるだなんて想像もしていなかった。
この関係も一時的なもので、ラルフレッドとの契約期間が終われば、アウルとも関わることはなくなると思っていた。だから深く踏み込むつもりはなかったのだが、アウルの言葉で気持ちが大きく揺らいだ。
「ラルフレッド様には一緒にお話ししましょう。きっと、分かってくださいますから。ね?」
「……ルーミィ様はボクの前からいなくなりませんか?」
「えぇ、もちろん」
◇◆◇◆◇◆
「魔法には属性があってアウルには闇魔法の適性がある、と」
アウルの悩みについては手紙に書いてラルフレッドの元へと届けさせた。
既に返事はルーミィの手元にあり、そこには直接3人で話し合いたいということが書かれている。しかし、ラルフレッドの仕事が忙しく、屋敷に戻れるのはしばらく経ってからだということだった。
あの一件以来、ルーミィは片っ端から魔法関連の書物をかき集め、独学で勉強を始めた。
アウルとの距離も近づき、今では敬称を付けずに呼び合っている。
「ほんと、魔法と剣の世界って感じ――はい?」
ふと、自分の独り言に違和感を覚えた。
これまでも、ここではないどこかで見知らぬ家で過ごし、未知の服を着て、未知の学校に通っている夢を見たことがある。
まるで自分ではない誰かの記憶を有しているような、そんな違和感を抱えて生きてきた。
「と、とにかく、闇魔法の適性者は世界征服を目論んだ人や、とんでもない思想を掲げる人が多かったというわけね。だからといって、アウルがそうなるとは限らないわ」
そうだ! と名案を思い付き、珍しく手を叩いて笑顔を綻ばせる。
「将来は王立魔法学園に入学させる方向で動きましょう」
血の繋がりがなかったとしても、今は自分が母親代わりになる契約中だ。それならば、アウルが歩むべき正しい道を示すことが責務のはず。ルーミィにとって初めて目標ができた。
ある日、アウルの未来を最優先に考えて奮闘するルーミィの元に客人が現れた。
「初めまして、ルーミィ・シュバルナ様」
拙い挨拶とカーテシーをした少女の姿に呆気に取られた。
ルーミィに友人と呼べる者はいない。仮にいたとしても同年代。
しかし、客人はアウルと同じくらいの年の幼い女の子だった。
(この子、なんだろ。変な感じ)
女の子の不敵な笑みは年相応には思えない。いたいけな女の子の皮を被った獣と対面しているような感覚だった。
「ゴルディーロ男爵家のプリムラと申しますわ」
聞いたことのない家名。社交界に出ていないのだから当然のことだった。
「本日はお話があってきました。アウル様はご在宅ですか?」
ここでアウルの名前が出るとは思っていなかった。ルーミィはプリムラに隠れて、侍女に小さく合図を送り、私室にいるであろうアウルの護衛を命じた。
「今はお勉強中です。用件はわたしがお聞きしましょう」
「用はあなたにしかありませんの。ご在宅なら、幼い頃のアウル様を一目見たかっただけですわ」
まただ。胸の中をかき回すような気持ちの悪さ。こんな感情を呼び起こすこの子は一体何者なのか。不安はあれど、ルーミィはいつも通りの涼しげな顔で対面を続けた。
「ゲーム通りの鉄仮面ね。単刀直入に言うわよ。あなた、ラルフレッドと離縁なさい」
「……はい?」
「聞こえなかった? ラルフレッド公爵と離縁しろ、と言ったの」
「よく聞こえています。理由をお聞かせ願いますか?」
ルーミィの大人な対応に舌打ちする。
足を組む仕草はとてもアウルと同じ年とは思えない。
それでもルーミィは動揺を明らかにしなかった。
「あんたがアウル様をいじめるからよ。ラルフレッドも殺して、財産を食い潰すのが目的なんでしょ。そうはさせないから!」
まるで鈍器で殴られたような。
初めてルーミィの瞳が揺らいだ。
「アウル様は悪魔と揶揄される義父と自分に興味を持たず、蔑み続ける継母に育てられ壊れて、闇皇子になってしまう。そして、あんたを非道な継母として処刑し、次期皇帝となるべく暗躍されるの!」
両手を上げ、邪悪な笑みで饒舌に語る少女の方がよっぽど悪魔のようだ。
ルーミィは嫌な汗が流れ落ちることも気にならないくらいに思考を重ねた。
わたしがラルフレッド様を殺す?
アウルがラルフレッド様とも血が繋がっていない?
わたしがアウルを蔑み続ける?
アウルが皇子? 次期皇帝?
多方面から湧き上がる疑問に頭の中がパンクしそうだ。
ついにルーミィのキャパシティを超え、プツンと糸が切れたような音がした。
「10年後、私はこの乙女ゲームの世界のヒロインとして王立魔法学園で孤高の存在となったアウル様に手を差し伸べ、闇の底から救い上げる! そして、推しとのハッピーエンドを迎えるの! アハハハハハハハッ!」
悪魔が憑依したような高笑いが遥か遠くに聞こえる。
ルーミィは確信した。
この女がこの世界の住人ではないことを。
そして、自分もまた世界にとって異物であるということを。
(わたしがこうなった理由はそこにあったのね)
ルーミィが幼い頃から感情と表情を失ったのは、前世の経験からくる家族像と、今世の家族の形にギャップが生じたからだ。
その差はあまりにも大きく、幼いルーミィが抱えきれるものではなかった。
小さい心に負荷がかかり、耐えられなくなって、自分を守る防衛手段として感情を押し殺すようになってしまった。
それが悪手で、かえって両親からの反感を買っていたことを今になって気づいた。
「分かった? 私は親切心で言ってあげてるの。早々に離縁しなさい。アウル様を毎日いじめて、闇落ちさせることが本当に気に入らないの」
あ、でも……とプリムラが続ける。
「アウル様と大聖女プリムラ様に断罪されたいなら、そのまま仮面夫婦を演じ続けなさい」
出された紅茶には手をつけず、退席の挨拶もせずに扉へと向かうプリムラの背中は初対面の時よりも大きく見えた。
「ご機嫌よう、ルーミィ・シュバルナ。10年後、会わないことを願うわ」
◇◆◇◆◇◆
招かざる来客があった日の夜にラルフレッドは帰宅した。
肩で息をしながら脱ぎ捨てたコートを使用人に押し付ける。就寝前のルーミィを見つけたからだ。
「ラルフレッド様⁉︎ も、申し訳ありません、こんな格好で! 今すぐに着替えます!」
「いや、構わない。それよりも話せるか? こんな時間だが、少しだけでも」
柱時計は12時を指している。
ラルフレッドの姿を一目見た時からルーミィの眠気は吹っ飛んでいた。
快諾したルーミィは薄手のネグリジェの上からナイトガウンを羽織り、ラルフレッドの部屋へと足を運んだ。
「アウルの魔法色が黒というのは本当か?」
「はい。わたしが調べた限り、あの子の魔法は闇属性で間違いありません。攻撃魔法の威力は――」
ラルフレッドは驚きを隠せなかった。
魔力を持たず、魔法というものに無縁だったルーミィが今ではラルフレッドにも引けを取らないほどの知識を有している。
しかも、自分よりもアウルのことを知っている。
ラルフレッドにとって、ルーミィがアウルのことを知ろうとしてくれることが何よりも嬉しかった。
アウルもルーミィには悩みを打ち明けたというし、良好な関係を築けているようで一安心したのは束の間。胸の奥がチクリと痛んだ。
(俺が兄の子に嫉妬する日がくるとはな……)
心臓の辺りをさすりながら、笑顔を繕う。
そんな仕草など気づかないほどに、アウルのことを熱く語るルーミィの姿に嫉妬の念は膨れ上がった。
「アウルの魔法と悩みは分かったが、何も気にすることはない。たった今、ルーミィが居てくれるなら大丈夫だと確信したからね」
「……それはどういう」
「アウルのことは任せる。と言いたいところだけど、ルーミィだけでは手に負えない問題だ。俺にも協力させて欲しい」
「も、もちろんです。お父様が居てくださった方がアウルも安心です」
――アウル……と小さく呟く。
ルーミィはさっきからアウルに敬称をつけていない。先日はアウル様と呼んでいたのに。
「……俺の名前は呼んでくれないのに」
「え?」
「いや、いい。時にルーミィ、きみも何か悩み事が?」
意表をつかれ、無表情が崩れる。
なぜ、公爵様はアウル様の変化には気づかないくせに、わたしの機微な変化を見つけられるのか。
ルーミィは視線を泳がせてからポツリと語り始めた。
「実は今日、一人の少女がいらして公爵様と離縁しろ、と言われました」
額に青筋が立ち、痛々しいほどに拳が握られる。鬼のような形相にどうしてラルフレッドが人々から恐れられているのか理由が分かった気がした。
「なぜ?」
「……近い将来、わたしが公爵様を殺めてしまうらしく。そして、10年後、わたしはアウルによって殺されると予言されました。だから、そうならないように離縁しろ、と」
「公爵夫人であるルーミィにそんな無礼なことを言ったのは、どこのどいつかな?」
一生懸命、怖がらせないようにしているのは伝わってくるが、目元は一切笑っていなかった。
「プリムラ・ゴルディーロと名乗られました」
「……聞いたことがある。ゴルディーロ男爵が養子に引き取ったという聖女候補だな」
「聖女候補?」
聞き慣れない単語を聞き返す。そういえば、プリムラは自分のことを大聖女と言っていた。
ラルフレッドは悩みの種が増えたとでも言いたげに眉根を押さえつけてから教えてくれた。
「この国を魔物から守る結界を作ってくれる存在だよ。今の聖女は高齢で引退を考えておられるから、そのプリムラという者が次代の聖女候補というわけだ」
「……へぇ」
小さく呟く。
この年までこの世界で生きてきたはずなのにルーミィの知らない事実。
だからこそ、余計に自分はこの世界に相応しくないのだと思ってしまった。
「プリムラ様はこの世界のヒロインだそうです」
「ヒロイン?」
「はい。そして、わたしは闇皇子の継母、と言われました。そうなのですか?」
「っ!」
ラルフレッドが反射的に強張ったのは、闇や継母という単語ではなく『皇子』という肩書きがルーミィの口から出てきたからだった。
「本当に皇子と言ったのか⁉︎」
静かに肯定する。
「……どうして、アウルの素性を知っているんだ」
その独り言でルーミィも確信した。
ラルフレッドが隠しごとをしていることを。
そして、アウル自身にも全てを話しているわけではないということを。
「わたしは知ってはいけないことを聞いてしまったのですね」
面倒ごとに首をつっこんでしまった。
そう察してからのルーミィの切り替えは早かった。
これまでも実家の伯爵家で理不尽な扱いを受けてきたからこそ、ラルフレッドが自分を処罰する未来は容易に想像できた。
監禁か幽閉か、はたまた口封じか。
いずれにしても情報が外部に漏れないようにするに違いない。
立ち上がったルーミィの腕が掴まれる。
座れ、と訴えてくる瞳を見つめ返して、再度着席するとラルフレッドは深く頭を下げた。
「すまない。どうしても言えなかったんだ」
想像と違う展開に再び、思考を切り替える
「アウルは俺の子じゃない」
ポツリと吐息と一緒に出てきた言葉。
ルーミィは何も言わず、震えるラルフレッドの手を包み込んだ。その行為がどれだけラルフレッドに勇気を与えたか計り知れない。
「俺の兄――先代の国王の隠し子で王位継承権を持つ子なんだ」
「……そ、それは、とんでもない秘密ですね」
アウルの正体が明るみになれば、先代の妃をはじめとする国の重鎮たちが黙っていないだろう。
祭り上げられるか、暗殺を目論まれるか。
どう考えても悪い未来しか見えなかった。
「あの子を争いの渦中に放り込むことはしたくない。だから、俺たちの子として何も知らずに成長して欲しいんだ。頼む。どうか、内密にしてくれ。この通りだ」
まさか頭を下げられるとは思っていなかった。
ルーミィは大きく見開いた瞳をぱちくりさせると、包み込んでいたラルフレッドの甲をぽんぽんと叩いた。
「実は口は堅い方なのです。それに、告げ口する相手もいませんし」
「それは、俺が社交界への参加を制限しているからか?」
「いえ。人と触れ合うのが苦手なのです。社交界に出なくて良いのは、わたしにとってもありがたいお話です。アウルとお屋敷で魔法の勉強をしている方がずっと楽しいです」
ルーミィの寛大な心に感銘を受けつつも、またしても胸がチクリと痛んだ。
「どうして、俺のことは名前で呼んでくれないんだ……。俺は良い夫ではないだろうが、そこまで露骨にされるとさすがに傷つく」
「それは……いずれ、わたしは捨てられるからです。もしも、そうなった時、心苦しいのは嫌です」
「俺がルーミィを捨てる?」
「わたしは公爵家当主の妻として、アウルの継母としての役割は与えられていますが、ラルフレッド公爵様の妻としての役割は与えられていません」
「それは、つまり……?」
「社交界に参加せず、閨へのお誘いもありませんので。契約結婚なのですよね?」
大袈裟に額をおさえたラルフレッドに小首を傾げる。
「なぜ、そんな勘違いを。俺たちは神の御前で誓いを立てただろう。神に背くような真似は絶対にしない。それに俺は……」
追求するルーミィの瞳に吸い込まれそうになりながらも絞り出した。
「ルーミィを好きになってしまったんだ。だから、君を手放すつもりはない」
想像していなかった返答にルーミィは火を噴き出すほどに真っ赤になった。
「な、な、な、なぜ⁉︎」
「可憐な美貌に、清らかな心。気遣いもできて、血のつながらないアウルを蔑ろにしない上に屋敷の管理もできている。人として尊敬できる。でも一番は初めて会った時、俺を怖がらなかったことだ」
「そんな理由で?」
「俺をそんなにも優しい目で見る女性は母以外でルーミィしかいない。俺には君しかいないんだよ」
あの日のラルフレッド様だ。
ルーミィはラルフレッドの心の奥底に孤独を見つけた。
それはルーミィ自身が伯爵家で感じていたものと同じで、簡単には埋められない穴だった。
「……わたしで良いのですか?」
「ルーミィがいいんだ。ルーミィ以外の人は考えられない。俺たち二人とアウルとずっと続く幸せな未来を描きたい」
「幸せな未来」
「もちろん、俺たちの子供も一緒に」
この世界で手にすることはないと諦めていた未来を描けるのなら、この人と一緒がいい。
そう素直に思えたルーミィはこれまで誰にも見せたことのない笑顔をラルフレッドにだけ見せた。
それはあまりにも穏やかで甘美でラルフレッドはルーミィの艶やかな唇に引き寄せられた。
「愛している。俺の妻はルーミィただ一人だ」
「わたしには、まだ愛するということが分かりません。だから、教えてください。わたしもラルフレッド様を愛せるような人間になりたいです」
「俺のことは、ラルと呼んでくれ」
「……はい。ラル様」
◇◆◇◆◇◆
ルーミィの誤解が解けて、ラルフレッドとの距離も近づいたことで公爵家の日常が大きく変わった。
「お母様はボクと一緒に魔法の勉強をするのです」
「何をいう。今日は俺と一緒に町へ出かけるんだ。一日中な」
朝からバチバチと火花を散らす旦那と義息を眺めるルーミィと、困惑顔のルーミィを見つめる使用人たち。
そんな光景が日常的になった。
午前中はアウルの魔法勉強に付き合い、午後からラルフレッドと町へ繰り出したルーミィは、ぎこちなく寄り添いながら、俯き加減で町を歩いていた。
「プリムラを養子に迎えたゴルディーロ男爵家には牽制して、奴らの動向には常に目を光らせている。教会の動きも全て掌握している。だから、ルーミィは何も気にしなくていいからね」
「はい、ラル様」
「アウルの成長には目を見張るものがある。闇魔法をあそこまで扱える者は過去にも少ない。……道を踏み外すことがなければ、だが」
「あり得ません」
自信満々に見上げるルーミィに思わず笑みが零れる。
「そうだな。アウルとあの聖女候補が成人するまでにまだ10年もある。この10年で俺が死ぬこともないし、ルーミィがアウルに殺されることもない。俺たちは離縁もしない。これからも俺の妻はルーミィだけだ」
「はい」
「そうだ。社交界に出て欲しくない理由を語っていなかったな」
「理由……?」
「こんなにも愛らしく優秀な妻を人目に晒したくない。これを伝えられるようになった俺も成長したということにしておこう」
ぎこちなくラルフレッドの腕に自分の腕を絡める。
彼女もまた自分の殻を破り、一歩大きく前進した瞬間だった。
「わたしはお二人を全力でサポートします。それぞれの目指す場所にお供し、見ている景色を見る。それが、わたしの望みです。だから、わたしを捨てないでくださいね」
「もちろんだとも」
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