09|狂宴 ι
―― 記憶の底に沈む、冷たい闇。
……、
……、
エルとアル。
「ラズライト」というコードネームを与えられた双子。
フラトレスに連れて来られる前。
彼らの世界は、アビスヘブン地方の小さな街、ガラにあった。
アビスヘブンは、瘴気に覆われた死の大地。
「風が吹けば死者が舞う」と囁かれる、この世界の中でも最も過酷な土地だった。
一年中、雪が降り続ける。
気温は常に氷点下。
都市は、永久凍土の上に、まるで墓標のように建ち並ぶ。
貧困、飢餓、死――。
ガラの住人たちは、その日を生き延びることだけに必死だった。
そして、その街の片隅に、今にも崩れそうな小さな家があった。
そこに住むのは、無口な男と貧困に心を病んだ女。
その二人の間に生まれたのが――エルとアル。
彼らは、生まれた瞬間から、名前すら持たなかった。
どちらが姉で、どちらが兄かさえ、わからないまま。
二人は、家の物置に押し込められた。
寒さを凌ぐために、ただ身体を寄せ合う日々。
食事と水は、良くて週に二度。
口にするのは、乾燥し、石のように硬くなったパン。
そして、瘴気に汚染された川の水。
死ななかったのは、ただ運が良かっただけなのかもしれない。
それでも。
いつか「何か」が訪れると信じて、二人は希望を待っていた。
ある日。
母が、静かに言った。
「ビアンポルト地方には、まだ奴隷制度が残っているらしいじゃないか」
父が、苦しげに首を振る。
「いや……それは、それだけは……したくない……」
「なによッアンタ!! 私に死ねって言いたいの?!」
「……そう……じゃな――」
「そういうことでしょッ!!! このクズ!!」
毎晩響く、母の怒声と、父への罵倒。
エルとアルは、暗闇の中で、ただ息を潜めるしかなかった。
そして――。
終わりの日が訪れる。
「……二人とも……荷物をまとめなさい……」
物置の扉が開いた。
父が立っていた。
彼は、母が街に出ている間に、二人を逃がそうとしていた。
家の貯金を、全て二人に渡しながら。
「――パパ?」
エルは気づいていた。
父の瞳には、一切の希望がなかった。
彼は、死ぬつもりだった。母とともに。
その未来を悟ったとしても、エルとアルにできることはなかった。
ただ、静かに荷物をまとめ、父から金を受け取る。
その時。
「――アンタッ!! なにしてんのさ!!!?」
母が、帰ってきてしまった。
貧しさという悪魔に、心を喰われた母が――。
彼女の手には、護身用のピストル。
「……まてっ、君。落ち着け!!」
「これが望みだったんでしょッ!! いいさ!! 一緒に死んでやるっ!!!」
父は窓際に追い詰められた。
逃げ場など、どこにもない。
物置の隙間から、その光景を見つめながら。
エルは、静かに呟いた。
「……守らなきゃ」
守らなきゃ。
守らなきゃ。
守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃ、守らなきゃ。
――何度も、何度も、繰り返しながら。
ピストルから、一筋の魔法光弾が放たれる。
――撃ち抜かれたのは、アルだった。
「っァ――!!」
物置から飛び出し、
父を庇うように、アルは両手を広げた。
そして――。
光弾はアルの胸部を貫通し、
そのまま父の腹を撃ち抜きながら、窓ガラスを割り、外へと転がっていく。
「うっ――う、うぁあああああああああ!!!」
エルの叫びが、闇夜に響く。
そして。
母は、銃口を自らの眉間に当て――――
―― 狂宴 ι ――
――すべてを、思い出した。
「……じゃあ……ボクは……?」
アルは震える手を、自分の胸に当てた。
確かに、あの日。
父とともに撃ち抜かれ、死んだ。
なのに――なぜ、自分はここにいる?
どの記憶が、本当なのか?
「ボクは……誰だ……?」
その問いに答えたのは、またしても。
不気味な笑みを浮かべるプホラだった。
「思い出したみたいだねェ!!」
プホラが、楽しげに声を張り上げる。
「そうだよ……君は一度死んだ。」
満足げな表情で、舞台の主演俳優のように語り出す。
「ファウストくんがあの家に着いた時、生き残っていたのは――エルちゃん、君だけだった。」
「ファウストくんはすぐに組織に報告しようとしたみたいだけど……」
プホラの唇が、ぞっとするほどゆっくりと歪む。
「俺は――使える、そう思った。」
「魂ごと、創ったんだよ」
「双子の意志の共鳴が、タイプ・ジェミニをさらに強くさせる。
なら、エルちゃんの魂の形、色を真似して、ブリキの心臓を創った。」
「その心臓を、アルくんの新しい命として与えたんだ。」
プホラは腕を大きく広げ、芝居じみた仕草で言った。
「どうだッ!! 素晴らしいとは思わないか!」
「見た目だけじゃない、魂の形も、色も、すべてそっくりな双子ッ!!」
アルの脳が、理解を拒む。
身体の奥から、冷たいものがじわりと滲み出す。
「計画に最適だ! ファウストくんには適当な記憶を植え付けて、母親がお金で二人を売ったことにしてもらったのさ!!」
プホラは踊るように独白しながら、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。
アルは――呆然と立ち尽くしていた。
エルは、膝から崩れ落ちる。
両手で顔を覆い、堰を切ったように泣きじゃくった。
誰も言葉を発せなかった。
ただ、沈黙が広がる。
鉄星炉の内部に、まるで通夜のような静けさが満ちる。
その中で。
シロとエメラルドが、ゆっくりと二人へと歩み寄る。
エメラルドは右足を引きずりながら。
クロは天を仰いでいた。
果てしなく高く、どこまでも続く鉄星炉の暗闇を――ただ見上げていた。
「やめなさい君たち」
プホラの冷たい声が響く。
「慰めあったところで、心の傷が癒えることなどない」
「お前になにがわかるんだよっ!!」
エメラルドが叫んだ。
シロが、プホラを睨みつけながら言う。
「あんたこそ……あの子たちに執着してるみたいだけど?」
そう言いながら、十五人のドロシーたちを指差した。
一瞬。
プホラの表情が、わずかに歪む。
そして――
彼は、拳を握りしめた。
プホラが、メフィストに何かを命じた。
その瞬間。
――ばたばた、と倒れていくドロシーたち。
静寂の中に、身体が崩れ落ちる音だけが響いた。
そして――
彼女たちの胸部には、ファウスト博士と同じように、ぽっかりと穴が開いていた。
メフィストは光のような速さで戻ってきた。
手に握られていたものを、主人に差し出す。
それは――
十五個の「泥の心臓」。
ホムンクルスの、命の核。
「俺がッ!! 執着しているッ、だとォッ?!!」
プホラの声が震えた。
次の瞬間――。
「俺が?!! なぁ!! ナァ!! ありえないッッダロォ!!!!!?」
喉が裂けそうなほどの叫び。
そして――。
狂ったように、プホラは泥の心臓を、あちこちに投げつけた。
力任せに。
怒りをぶつけるように。
――ボスンッ!!
そのうちの一つが、エルの顔に当たった。
べちゃり、と。
泥遊びをした子供のように、顔中が汚れる。
「ぃ――ひ、いやぁああ!!」
エルが悲鳴をあげる。
その声が響いた瞬間。
場は、狂い始めていた――。