04|崩壊 δ
かつて知識と研究の塊だったこの部屋は、今や静寂に包まれていた。
積み上げられていた魔導書はすべて棚へ戻され、壁に書かれた神声文字も消されている。机の上に散乱していた錬金術の器具や書類は片付けられ、アトリエはまるで何事もなかったかのように整理されていた。
だが、それはただの幕引きの準備にすぎなかった。
ファウスト博士は、最後のルーティンのようにレコードプレーヤーへと手を伸ばし、盤をセットする。
タイヨウシング・エラ――。
静かに針を落とすと、いつもの旋律が流れ出した。
この音楽とともに、彼は最後の日記を書き始める。
『ファウスト博士の日記
英雄歴 3066年4月21日――』
対摂理・ジェミニ計画、中止。
五年にわたり続けてきたこの計画は、ついに幕を閉じることになった。
私は、何のために、誰のためにこの計画を行っていたのだろうか。
思い返せば、五年前。計画が始まる前の私は、組織の中で浮いていた。
居場所がなかった。
ただ研究を重ねるだけの、どこにでもいる魔法使い。
そんなとき、OZから手紙が届いた。
それが、対摂理・ジェミニ計画の責任者としての任命通知だった。
これは、組織の中で自分を示すチャンスだと思った。
何も疑わなかった。
組織の命令だから。
そう思って、私は子供たちをトラックに乗せ、フラトレスへと運んだ。
組織の命令だから、
子供たちを箱庭に閉じ込め、洗脳した。
それが「計画」だった。
しかし、今になって後悔している。
私が犯した罪の重さに。
あの日――。
OZ、オセに計画の中止を言い渡されたその日から、私は学校の箱庭で子供たちに授業をしている。
彼らが本来持つべきだった知識を、そして戦う術を。
彼らから奪った五年間を返すように。
だが、それでも、私の罪は消えることはない。
だから、せめて最後に、私なりの贖罪をしようと思う。
彼らを逃がす。
処分などするわけがない。
そして、最後に、彼らの洗脳を解くつもりだ。
その時、私はどんな罰を受けようとも、受け入れるつもりでいる。
この五年の罪を、清算するために。
決行は三日後。
組織が聖戦で忙しくしている今が、唯一のチャンスだ。
計画は順調だ――。
Dr.Faust
―― 崩壊 δ ――
カルディア:タイプ・ジェミニの機体開発は、すでに二機が完成していた。
一機は、ブラックオパール&ホワイトオパールの機体。
そして、もう一機は、ラズライトの双子の機体。
フラトレスの子供たちの中でも年長組にあたる彼らは、今年で12歳を迎える。
英雄歴 3066年4月22日――。
その日、フラトレス地下都市の「学校の箱庭」にある体育館では、
彼らの誕生日会が開かれていた。
クロとシロの誕生日は2月、エルとアルの誕生日は8月。
すでに過ぎた者もいれば、まだ迎えていない者もいた。
しかし、この日は特別にまとめて祝われることとなった。
広々とした体育館の中央に、大きなテーブルが並べられ、子供たちは、ブリキ人形の住民たちが用意した豪華な食事を前に、無邪気な笑顔を咲かせていた。
ただ一人。
ファウスト博士だけが、頻繁にメガネを押し上げ、どこか落ち着かない様子だった。
「博士っ!! 一緒に食べよ!」
無邪気な声が響く。
シトリンが満面の笑みを浮かべながら、博士を呼んだ。
ファウスト博士は申し訳なさそうにしながら、目の前のポテトフライを一本取る。
「――うん。美味しいよ。ありがとう、シトリン」
そんな博士の様子を見て、アメシストが呟く。
「ポテト一本って。ダイエット中の女の子じゃないんだから」
彼女の言葉に、子供たちはくすくすと笑う。
アクアマリンは、大きな骨付きチキンを頬張りながら、
「ふは……ふはひはふ……?」
何を言っているのか、誰にもわからなかった。
クロは、「誕生日会なんて」と大人ぶった態度を取っていたが、シロに被せてもらったパーティーハットは、しっかりと頭に乗せている。満更でもないようだ。――エルは、服にこぼしたミートソースを、アルに拭いてもらっていた。
二人はこの五年間で、どちらが姉か兄かを決めるために、さまざまな勝負をしてきた。
しかし、どれも引き分けになったり、邪魔が入ったりで、
結局、最後まで決まることはなかった。
一方、エメラルドといえば――。
四年前の幸せ太りから一転し、今では木の枝のように細くなっていた。
ぼさぼさの天然パーマは相変わらずで、
彼はテーブルの隅に座り、ノートを開いて、星座を書き並べていた。
オリオン座、さそり座、ペルセウス座、そして双子座。
どれも精密に描かれ、黒の濃淡を使い分けて、星の明るさまで表現している。
彼はただ、静かに夜空を描き続けていた。
…………、
……、
――作戦を開始しろ。証拠は一切残すな。
無線機から響く、冷たい男の声。
それを合図に、カルディア地下都市の入り口前で待機していた兵士たちが、静かに動き始める。全身を黒の鎧で覆い、完璧な統率で進む彼らの姿は、まるで影のようだった。
隊長の男が手を上げる。
指を二本立て、前方を指差す。
無音の指示で部隊が動く。
彼らの鎧には、金文字で刻まれた銘があった。
『XCiX』
(――この中だ。俺が合図を出したら突入して殲滅、)
(――ただし。オパールの姉妹。ラズライトの双子は殺すな。)
隊長はハンドシグナルで命令を下す。
スライドドアの端に指を這わせ、わずかに隙間を作る。
そこから静かに、内部の空気を探る。
……(問題なし)。
男は、籠手の上から布を巻き、滑り止めを施す。
そして、指を三本立た。
(――よし、いくぞ。)
3――
2――
――ガガガガッ!!
スライド式の扉が、轟音とともに開く。
フラトレスの子供たちと博士に、視認する隙すら与えない。
魔法光弾の雨が降り注いだ。
兵士の一部が結界魔法を展開し、動きを封じる。
人間も、ブリキ人形も、すべてその場に固定された。
あとは――。
動かない的を、アサルトライフルで撃ち抜くだけ。
「撃てえーーッ!!」
隊長の怒号が響く。
――ここで終わり。
誰もが、そう思った。
だが――。
≫ 終わらせない!! ≪
どこからか、そんな声が聞こえたような気がした。
誰が?
その答えを知る者は、今はいない。
「なんッ――!!」
隊長が背後の気配を察知し、振り向く。
――ブロロロロロロォォ!!
爆音。
突如、部隊の背後から響く鋭いエンジン音。
猛獣の咆哮のような音が、空気を震わせる。
漆黒のバイクが、闇を裂いて飛び込んできた。
流線形のカウルが光を弾き、濡れた刃のようなシルエットを描く。
タイヤが床を噛み、火花を散らしながらスライドする。
黒い影が、隊員たちのど真ん中を切り裂いた。
乗り手は全身黒づくめ、
フルフェイスヘルメット。
反射するバイザーの奥は、見えない。
表情すら、伺えない。
――ただ、その闇の中で。
男は楽しそうに口角をあげた。
(ふぅー。最高っ、気持ちいいー!)
バイクの男が腰のホルスターに手を伸ばす。
次の瞬間、鋭い軌道を描く何かが部隊の中央へと投げられた。
――スタングレネード。
閃光が、世界を焼く。
真白な光が視界を埋め尽くし、耳を裂く轟音が鼓膜を叩く。
兵士たちは条件反射で身を低くするが、
視界を奪われたままでは反撃などできない。
その間にも、バイクは勢いを殺さず疾走していく。
後輪が軋み、煙のようなタイヤ痕を残す。
その姿は、疾駆する闇。
「おーい、みんなぁ。朝だよー、起きて起きてー」
バイクに乗りながら、
男は子供たちと博士の状態を確認する。
「あぁー。ごめんね、間に合わなかったみたい」
アメシスト、シトリン、アクアマリン。
彼女たちはすでに死んでいた。
頭部を魔法光弾で撃ち抜かれ、
もはや原型を留めていない。
男は、屍人化を防ぐため、
彼女たちの心臓を丁寧にハンドガンで撃ち抜く。
本来なら、獄卒が浄化魔法を使い、冥界へ送るべきだった。
だが――戦場に、綺麗事はない。
紫、黄色、水色のリンネホープが体育館の床を転がる。
遺志残響宝石/リンネホープ・ジェム――、
死体となった人間の心臓が宝石化したもの。
宝石の核には、死者の生前の記憶や知識、感情、意志などが封じられている。
男は、それらを拾い、ポケットへ入れた。
「あっちぃ」と呟き、ヘルメットを脱ぐ。
プラチナブロンドのポニーテールが、光を反射する。
アサン・クロイヴ。
当時は十代の放浪青年。
まだ会長でも、そして英雄でもない。
ただの悪運が強い男。
「おおっ、この子たちはきれいだねぇ」
クロ、シロ。
エル、アル。
この四人は、かすり傷一つなかった。
「でぇ、このボサボサ髪くんは……」
エメラルド。
右足と腰に二発、撃たれている。
「で、最後にこのおっさん。……うん。痛そ」
ファウスト博士。
腹部を数カ所撃たれ、かなりの重傷。
アサンが状況を確認する間にも、
気絶していた六人は意識を取り戻しつつあった。
まるで捨てられた玩具のように転がる、
穴だらけのブリキ人形。
だが、彼らはただの人形ではない。
フラトレスの住民。
命ある「住民」だ――。
その感情はきっと洗脳によるものではない。
エルの頬を、止めどない涙が伝う。
彼女の魂に宿るリンネホープが、
静かに怒りの「赤」へと染まっていく。
「くっ……くそ……!!」
焼けるような痛みを覚えるながら、
隊長の男がゆっくりと起き上がる――。
その脳天を、アサン・クロイヴが撃ち抜いた。
「そろそろ起きちゃうねぇ。これはマズいなぁ。みんな、さっさと逃げるよ!!」
生き残った子供たちは、裏口へと走る。
破壊された箱庭を後にして――。
◆ ◆ ◇◇ ◆◇ ◆
鉄の空が、黒く沈んでいた。
フラトレスの地上。
巨大な工場プラントを覆うように、重い雲が垂れ込めている。
雨は静かに降り続き、冷たい水滴が無機質な鉄骨を叩いては流れていく。
まるで、この世界から音という概念が消え去ったかのようだった。
四人の子供たちは、無言のまま歩いていた。
すべてが崩れ去った。
響き渡る銃声。
紅く染まった床。
砕け散る意志の残骸。
そのすべてを目の当たりにしながらも、彼らは生き延びた。
だが――。
すべての仲間が、無事だったわけではない。
クロとシロ、エルとアル。
四人は、重傷を負ったエメラルドを担架に乗せ、雨の中を進んでいた。
エメラルドの顔は蒼白だった。
意識はほとんどなく、
時折うわ言のように何かを呟くが、その声は雨音にかき消された。
ファウスト博士は、漆黒のバイクの後部座席に乗っていた。
アサンに支えられながら、どこか遠くを見つめている。
彼の胸には、言葉にならない絶望が渦巻いていた。
「……私のせいだ」
あの時、もっと早く気づいていれば。
あの時、もっと早く決断していれば。
アメシストも、シトリンも、アクアマリンも――。
失われた三つの命が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
子供たちを守ると誓ったはずだったのに。
彼らの未来を取り戻すために、計画を裏切ったというのに。
結局、自分は何も変えられなかった。
――巨大な鉄星炉が見えてきた。
雨がその表面を叩き、
まるでそれ自体が泣いているかのようだった。
クロも、シロも、エルも、アルも、
誰も、何も言わなかった。
ただ足を動かし続ける。
足元の水たまりが、淡い血の色に染まっていく。
だが、彼らはもう、それすらも感じなくなっていた。
――いつか、また笑える日が来るのだろうか。
その答えは、まだ誰にも分からない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
このままでは終われない。
彼らは、その思いだけを胸に、鉄星炉へと足を進めた。
雨は、なおも降り続いていた。