11|萌芽 λ
――夜明け前の空。
深い群青に、かすかなオレンジの光が滲む。
その下に広がるのは、
無数の水路が交差する水上都市の飛行場。
水面は静かに揺れ、
停泊する飛行艇のプロペラが、
朝の冷たい空気の中で、ゆっくりと回り始める。
旅立ちの時が、迫っていた。
「アンヘルヴェルトという人形師を頼りなさい」
ハンネエッタが毅然とした声で言った。
飛行艇の前に立つのは、エル、アル、エメラルド。
彼らの手には、ブルクサンガ行きのチケット。
だが――。
そこにシロとクロの姿はなかった。
彼女たちは、ハンネの側に立ち、
聖鉄ハンネ騎士団の騎士たちとともにあった。
彼女たちは、戦い続ける人生を選んだのだ。
主席魔導師・ハンネエッタとともに。
「で、オーツーはいいのかい?」
ハンネエッタが尋ねる。
答えたのは、エルだった。
「はい。……あれは、人の命を喰らう化け物です」
「確かに、タイプ・ジェミニは強い。でも――」
アルが、そこで言葉を詰まらせる。
脳裏には、今も鮮烈に焼きつく記憶。
燃え盛る戦場。
焼け焦げたリンネホープを吐き出す、O2の光景。
「じゃあ、あれは我々が責任を持って預かるよ」
ハンネエッタが、
胸に拳を当て誓いの所作をする。
O2、そして、シロとクロの機体。
すべてのカルディア:タイプ・ジェミニは封じられることになった。
――だが、またいつか。
あの獣が目覚める日は、来るのだろうか。
「あの……クロ、じゃなくて。――カガルノワ」
アルが、彼女の本当の名前を呼ぶ。
記憶を取り戻したクロ。
彼女の本当の名は――カガルノワ。
アルの声に、
彼女はぷいっと横を向いた。
その場にいる誰もが、照れ隠しだと気づいていた。
「……なに?」
カガルノワが、不機嫌そうに言う。
「また、いつか……」
アルはそこで一瞬、言葉を詰まらせる。
首を小さく横に振り、
少しだけ笑ってから、改めて言った。
「……生きて。絶対に死なないって、約束してください。」
カガルノワの瞳が揺れる。
そして、
「っ!! ――当然よ。そんなこと約束しなくても……」
頬を赤く染めながら、そっぽを向く。
その様子を見て――。
みんな、くすくすと笑った。
飛行艇のプロペラが、ゆっくりと回り始める。
風が吹く。
水面が揺れる。
そして、
飛行艇の灯りが、群青の空へと吸い込まれていった。
旅立ちの時が来た――。
―― 萌芽 λ ――
――夜の荒野を、ひた走る汽車。
ガタン……ゴトン……。
黒鉄の車体に張り巡らされた魔力血液のチューブが、
夜の闇に、淡く白銀の光を灯していた。
列車の最後尾、静かに座る一人の影。
月涙|ツキナ。
彼女は、全身を黒装束で包み、
顔を覆うのは漆黒の鬼の面。
「獄卒」
――それが、今の彼女の居場所だった。
汽車が停まる。
ツキナは、荒野の小さな駅に降り立った。
月の光だけが頼りの古びた木製の駅舎。
鼻を裂くような死臭。
足を踏み出した瞬間、彼女は悟った。
「この街は、死んでいる」
ツキナは、大通りを歩く。
――死体、死体、死体。
どこへ行っても生きた人間はいない。
戦火によって滅びた街。
瓦礫に埋もれた家々。
剥き出しの骨と焦げた遺体。
血の跡すら風化し始めた通り。
ツキナは、無言のまま目を閉じた。
これが、この世界――アスハイロストの真の姿。
ツキナは静かに手をかざす。
――浄化魔法。
淡い光が、亡骸に降り注ぐ。
瘴気の影響で屍人と化す前に――。
死体は灰となり、ボロボロと崩れ去った。
そして、
後に残されたのは――。
きらきらと煌めくリンネホープ。
ツキナは、落ちた宝石を、
丁寧に布でくるみ、回収していく。
彼らが残した「意志の宝石」を、
それを待つ人へと届けること。
それも、獄卒の仕事だった。
仕事をしていると、
同じく獄卒の男が近づいてきた。
黒装束に黒いベール。
彼は左手の小指を右手で握り、胸の前に掲げる。
それは、獄卒同士の挨拶の合図。
ツキナも、同じ所作で返した。
「――名前は?」
男が尋ねる。
「ツキナです」
「そうか……ツキナ。この街も、ひどい有様だな」
「……ですね」
ツキナの言葉は短い。
だが、彼女はその短い言葉に、確かな感情をのせるのが上手かった。
二人は並び、無言で浄化を続ける。
魔法の光。
灰となる亡骸。
拾い上げるリンネホープ。
その繰り返しの中で、
ツキナはぽつりと問いを投げた。
「プホラ・フラスコという男を知りませんか」
男は手を止める。
「それか、クロユリの頭をした悪魔について、何か知りませんか」
男は、記憶を辿るように、
わずかに首を傾げた。
「……すまない。どちらも聞いたことがないな」
「そうですか……」
ツキナは、それ以上何も言わなかった。
彼女は、あの日から――。
消えたプホラの魂と、悪魔・メフィストを追っていた。
◇
英雄歴3067年04月25日。
対摂理・ジェミニ計画の終幕から一年後――。
千塔街=ブルクサンガ。
太陽の丘を越え、ローゼンシルデ・サナトリウムを通り過ぎると、
森の奥、湖の前に佇む赤いレンガ屋根の家がある。
二階建ての大きな家。
屋敷というほどではないが、十分に立派な造り。
ガラス窓が並び、陽光をたっぷりと取り込む構造。
家の前には丸いテーブルと椅子が置かれていた。
そこでエメラルドが、湖を描いていた。
彼の手元には、広げられた白紙のノート。
鉛筆が滑り、湖面に映る光を描き出す。
黒一色の濃淡だけで、光を表現する。
それは、彼が得意とする技法だった。
ボサボサの天然パーマ。
すらりと伸びた背。
金縁のメガネの奥に、静かな瞳を湛えている。
――エメラルド・スターシーカー。
彼もまた、洗脳を解かれ、本名を思い出した。
それでも、彼は「エメラルド」という名前を気に入った。
家の中に入ると、
アンティークな家具やガラス工芸品が並ぶ宝石箱のような空間。
天井にはフラスコ画のような神話の絵。
伝説の神々が、静かに下を歩く者を見下ろしている。
廊下を抜けると、半地下へと続く階段。
そこには、「工房」があった。
工房の中央には作業机。
そこに座る少女と少年。
ラテルベル・ラズライト(エル)と、
アルミナ・ラズライト(アル)。
彼らの傍には、
彼らに新たな名前を与えたアンヘルヴェルト・ノヴェルが立っていた。
金に白が混じった髪を後ろに流し、
両腕には、義手。
頭上には半分欠けた光輪。
背中には片翼。
――彼は、半天使族だった。
ラテルベルは慎重に作業を進める。
アイルーペで手元を拡大し、
小さな部品を組み上げていく。
アルミナはその様子を楽しそうに眺め、
アンヘルヴェルトは厳しい顔つきで見守る。
人形塑躰師――。
人々は、「人形師」とも呼ぶ。
造花体を創る魔法使い。
その道は険しく、資格試験の合格者は、
百年経って、たったの七人だけ。
今、ラテルベルが行っているのは、
偽物の部品を使った修行の一環。
彼女は人形塑躰師の資格を得るため、
この工房で日々、鍛錬を重ねていた。
「――やり直しだ」
「違う! 何度言ったらわかる。やり直しだ」
アンヘルヴェルトが厳しく言い放つ。
ラテルベルは小さく息をつき、再び組み直す。
そんな光景を見ながら、
アルミナは静かに微笑んでいた。
アルミナは病を抱えていた。
血瘴病――。
幼い頃、
ガラの街で瘴気に汚染された水を飲み続けた影響。
それはジェミニ計画の終幕後、急激に彼の身体を蝕み始めた。
ラテルベルの症状は軽かった。
数カ月の治療を経て、回復へと向かっている。
だが――。
アルミナの症状は重かった。
すでに、通常の血管と魔力血管の二割が汚染されている。
それでも彼は静かに日々を過ごしていた。
読書。
魔法の研究。
そして、
自らの血瘴病と向き合い、
治療法を探しながら「生きる方法」を模索する。
「それでも、今は――」
「幸せだ」
彼はそう思っていた。
◇
――数カ月後。
工房で、アルミナが倒れた。
すぐに街の病院へ運ばれた。
彼は、自力で歩くことすらできなくなった。
ローゼンシルデ・サナトリウム。
千塔街=ブルクサンガにある、療養院。
そこが、彼の新しい住処となった。
何もかもを諦めたような顔。
アルミナの瞳から、
あの穏やかな光が消えかけていた。
ある日――。
見舞いに訪れたラテルベルに、
アルミナが静かに告げた。
「ボクが……もし、……」
「その時は……この心臓を使って、ブリキの人形を創ってほしいんだ」
それは、アルミナから、
人形師見習いのラテルベルへ。
初めての正式な『依頼』だった。
「なんで……」
ラテルベルは息を詰まらせた。
「ぅ――な、なんで。……なんでそんなこと……」
「ボクは……この世界が嫌いだ。……そして、この世界が大好きだ――」
アルミナは、意を決して言葉を紡ぐ。
「いろいろな世界を旅してみたい」
「……でも、それには感情が邪魔だから」
「感情はなくていい。ただ、この魂を持って、世界を旅したいんだ」
ラテルベルは、言葉を失った。
何も言えず、ただ下を向く。
その日、どうやって工房まで戻ったのかも覚えていない。
帰ると、
ラテルベルはアンヘルヴェルトにすべてを話した。
彼は、静かに聞いていた。
そして――。
「ブリキの人形、か」
「造花体ではないから資格は必要ない」
「……その依頼、受けなさい。ラテルベル」
「君の成長に繋がるはずだ」
アンヘルヴェルの声は厳しかった。
だが、その眼差しには、
どこか優しさが滲んでいた。
しかし――。
ラテルベルは、強く首を横に振った。
「ッ――いやです! ア、アルミナは……死なないから……!!」
涙を流しながら、必死に叫ぶ。
その言葉に、
アンヘルヴェルトの目つきが変わった。
「出ていきなさい」
低く、冷たい声。
怒りが、滲んでいた。
「な、なんで――」
アンヘルヴェルトは、
ラテルベルを静かに見下ろし、言った。
「……人形師は、命を扱う仕事だ」
「命の価値を知らない人形師など、いらない……」
ラテルベルは、息を呑んだ。
そして、
何も言えないまま、荷物をまとめた。
アンヘルヴェルトは、
ラテルベルの後ろ姿を、
そっと見守っていた――。
◇
六角形の神殿が、静寂の中に佇んでいた。
アリストシンカ――「ハル・ナキア神殿」。
そこは、歴史の節目を刻む場所として選ばれた。
テイルソニアの神殿ほどの壮麗さはないが、その構造は精密で美しい。円柱が整然と並び、壁面には神話を描いたフレスコ画が刻まれている。そして、神殿の中心には吹き抜けが広がり、陽光が優しく床を照らしていた。
外には小さな庭園があり、風に揺れる花々が穏やかな空気を漂わせる。だが、ここに集った者たちの間には、緊張と静けさが共存していた。
四人の姿が、中央の石造りの卓を囲んでいる。
アニハ=サンタカージュ。
ノイトぺセル=メンカリナン。
鬼天儀・ハンネエッタ。
そして――。
オセ・ツァザルディオ。
神殿の中には、彼ら四人以外、誰もいなかった。
「オセ・ツァザルディオ。では、サインを」
ノイトぺセルが、卓の上に広げられた書面を指し示す。
オセは一言も発さず、手元のペンを取ると、無駄のない動作で名を記した。
黒々とした文字が、静謐な神殿に刻まれる。
【Ose Zazardion/オセ・ツァザルディオ――】
「今この瞬間をもって、ハル・ナキア条約は正式に締結されたのじゃ」
アニハの声が響く。
光輪がわずかに輝きを増し、吹き抜けから降り注ぐ陽光が彼女の背を照らした。
「これにより、すべてのコミュニオンは、いかなる形であれ人を財として扱うことを禁じ、その廃止に向けた義務を負うのじゃ」
長きにわたり、幾度となく拒まれ続けた条約。
議論の場が閉ざされ、幾多の抵抗と妨害を経て、今、ついに実現した。
アニハは静かに続ける。
「この合意をもって、もはやこの問題に異論の余地はない」
ハンネエッタは、その言葉を噛みしめるように深く頭を下げた。
しかし、オセは何も言わなかった。
ペンを置き、無言のまま立ち上がる。
そして、振り返ることなく、神殿の出口へと歩き出した。
重厚な扉が開かれ、彼の姿がゆっくりと消えていく。
その背中には、もはやかつての権威はなかった。
――オセ・ツァザルディオは、主席魔導師の座を追われた。
対摂理・ジェミニ計画を主導した罪により、彼は星礼院から除名された。
そして、聖戦『錆の戦争』は、勝者のないまま中断された。
歴史が動いた。
静かな神殿の空に、風が吹いた――。
…………、
……、
「――ふぅ。ようやく終わったのじゃ……」
条約の締結を終え、アニハは長いため息をついた。
その瞬間――。
ぐらり。
「アニハ様!?」
ノイトぺセルが慌てて駆け寄る。
アニハの体が、ふらついたまま後ろに倒れかけたのだ。
「執政官!?」「またですか!?」「誰か、担架を!」
慌てふためく職員たちが、一斉に駆け寄る。
「……少し、疲れたのじゃ……」
「寝る時間を惜しんだ結果がこれですよ!!」
ノイトぺセルは眉間にしわを寄せ、深いため息をついた。
「病気にならない天使族だから――って、何度目ですかこの流れ!」
職員たちが手際よくアニハを支え、神殿の奥へと運んでいく。
「執政官、しばらく安静になさってください!」「とにかく、寝室へ!」
運ばれていくアニハは、意識が遠のく中で微かに呟いた。
「……でも、まだ……やることが……」
「いいから寝てください!」
そうして、アニハは静かに神殿の奥へと消えていった――。
『Orde Qiska//オルデキスカ』
エピソード・ラズライト ― 終 ―




