第三話 最愛の人
「意図して見せた訳じゃ無い。力の残渣に想いが反応して世の境を超えた。とても強い想いがある」
あやかしは眠そうに欠伸をすると、白湯を啜る。起こしたようで申し訳ない。
「大事な人です。とても」
見ることはできたけれども、会話は交わせなかった。
「可哀想に。そこは黄泉比良坂。現世と黄泉を隔てる坂だ」
「引き戻せないんですか」
無理だとは感じている。後ろから近づいたが、先生は振り向かなかった。
「イザナギとイザナミの話を知っているはず。試さない方がいい」
国を産んだ夫婦神のことだ。
火の神を産んで死んだイザナミを取り戻すため、黄泉に降りたイザナギは妻の変わり果てた姿を目にする。イザナミは恥をかかされたと怒り、イザナギは一目散に逃げる。追うイザナミを阻止するために、イザナギは黄泉の入り口に大きな石を置いた。
「……」
「考えてはいないと思うけど、あとを追っても意味が無い。現世で為し得なかったことをする場所じゃ無い」
そこまで言うと、あやかしは白帷子の寝間着をひきずって台所に入る。
ひとしきり冷蔵庫を探ると、鉢にキュウリの浅漬けを盛って帰ってきた。
「食べる?」
「ううん」
私が曖昧にしていると、あやかしも箸を動かさなかった。
「神流が強く求めるなら、告別はできる。それで大概気も済む。大事な人に道標を示すかどうかも、神流が決める」
「全て私がすることですよね」
あやかしに頼むことでは無い。私があやかしとなって行うことだ。
「そういうこと」
「留守居の件、お話を受けたいと思います」
そうすれば先生と言葉を交わすことができる。あの時は別れを告げられなかった。互いに未練で苦しんでいるのならば、せめて餞ぐらい終わらせよう。
「まずは一杯お湯を飲んでから返事して。それでいい?」
「まわりが見えていないのは知っています」
得るものと失うものの軽重さえ比べない浅慮に違いない。
「後悔さえも犠牲にできるなら、そうすればいい」
「お願いします」
私は三つ指を突くと、あやかしに平伏した。
そのあと形容できない気持ちが湧き上がって、しばらくメソメソと泣いた。
あやかしは客間に布団を敷きはじめる。
「百年ぶりかな。少し薬臭いかも」
「あ、あのこのまま帰りますので」
私は恐縮するが、あやかしは聞かなかった。
「時間も遅いし、寝よう。私も眠いし。それに明日になれば神流の世界も違う」
箒で掃く音で目が覚めた。肌寒い。
開け放たれた雨戸から外を見る。ブラウスにスカート姿のあやかしが、積もった葉をまとめている。
「起きた? 朝食前に表に出てきて」
着替えの脇に置かれた半纏を肩にかけると、玄関から庭にまわった。
山から吹き下ろす風が吹き付けるのでは無く、私の中を通り過ぎて行く。
あやかしが手で招くので、庭から山道に入った。数分ほど登ると岩が突き出し、木々が途切れた部分がある。
その少し手前に木製の小さな祠があった。
あやかしはそれを指差す。
「これが私、そして脇にある……」
……石を数個積み重ねただけの徴が私だ。小さな花と五円玉一つが供えられている。誰かが祀ったのだ。
その控えめな様子に私は微笑む。
祠の先に目を移すと相模湾が見渡せた。
「どう?」
「うん。人間も悪く無かったかも」
「それぐらいが丁度良い」
「そうですね」
あやかしは、つっかけを鳴らすと山道を下る。
「速秋津比売」
立ち止まると、あやかしは振り向いた。
「?」
「それが古来からの私の名前」
スーツを着て坂を下る様子を見れば、神が街中で働く違和感も落ち着いてくる。
仕事を楽しんでいる訳でも無さそうだが、お金があればできることは増えるし、家屋も維持できる。彼女にとっては必要なことなのだろう。
北鎌倉駅で秋津姫と別れると、私は学校に向かった。
大学のキャンパスに入ると、名前をよく覚えていない友達が心配して肩を叩いてくれた。
学生課から呼び出しがあったことを知らせてくれたので、顔を出す。損害保険請求のための書類だ。欠席の一日も金に換算するらしい。長い間休んでいた気がするが、実質的に休んだのは一日だ。
看護学科は一限から忙しい。ようやく解放された昼前、私は学外の携帯ショップを探した。
修理では無い。手元の思い出を失わない新規購入の方法を頼む。
鎌倉のお店で手続きすることは辞めた。過去に生きているのは変わらない。でも未来に過去を繋げようと試みるのはもういい。先生に別れを告げることを選んだのだから。
大量の着信履歴を整理するため、手続きが終わった頃には昼食の時間を失ってしまった。私は急いで大学に戻る。
カラスが鳴く声に、ふと頭上を見上げた。舞っている訳では無い。ただ私を見守るように枝に止まっている。これからは、これがついて回る。
しばらくすると、禿げ上がったサラリーマンが一羽に石を投げはじめた。こんな日中からできあがっている。
カラスは無視していたが、飛礫の一つが私の近くに落ちた。それを契機に一羽が舞い降り、彼を煽る。
もう一羽は走り回るサラリーマンを後ろから狙い澄まし、後頭部に襲いかかった。襟を掴んだカラスは、頭頂に渡した残り少ない髪をむしり取る。
私は新しいスマホを取り出すと、その様子を撮って笑った。
「あはっ、ははっ」
他人の不幸を笑うのはもう何年ぶりだろう。
サラリーマンが逃げると、殊勲の二匹が近くに寄ってきた。
「餌をあげなきゃ。あとで家に来て」
「飛行機の中で消えちゃったら、あとは全て任せる」
秋津姫は羽田空港第三ターミナルの屋上で風に身を任せている。いつもと違うラフな格好は、南国シンガポールを想定したものだろうか。
真新しい小さなカートは私が運んでる。水彩画の道具も入っているらしい。
「心配には及びません」
新しい土地への分祀は珍しいことでは無い。なんなら船にも祀られる。普遍している訳では無いが、祀る人がいれば、そこに神はいる。
滑走路の方で轟音が響きわたったので、会話を中断した。
飛行機は速度を増すと、機首を上げ離陸した。着陸脚を格納するとさらに高みに登って行く。
「人は、この百年で空を飛ぶことを覚えた。あと千年で何をするだろう」
「秋津姫は、人間に興味津々ですね」
「千年すれば神流もそうなる」
今は先生だけでいい。
「さて、そろそろ荷物チェックと出国検査です」
私はカートのロックを外した。
「緊張するな」
秋津姫は、ハンドバッグからパスポートと搭乗券を取り出した。
そもそも彼女はパスポートをどのように用意したのであろう。
保安検査ゲートの前で、秋津姫は立ち止まる。
「神流の力も頃合い。立ち会えないけどいい?」
「一人で始めたことですから」
「そう、じゃあ行ってくる」
私は彼女のカートを検査台に乗せる。簡素なそれはすぐに検査を通った。滞りなく手続きが終わり、私は秋津姫に手を振る。
彼女が見えなくなると、空港の駅に戻った。
目的地は品川だ。
先生の親族は、私達の行為を恥だと見なした。
意識が戻らない先生を藤沢の病院から、品川の病院に転院させると私に対して面会禁止を命じた。
だからあの事件以来、私は先生に会ったことが無い。今なら容易いことだ。
一階の外来受付から院内に入ると、病棟がある上階に登った。
確かに私はそこにいるが、そこにいる人には私が見えない。
途中のナースステーションで鍵と注射器を手に入れた。
この階には個室が多い。施錠されることは少ないが、患者が意識不明で面会制限があるとなると外から鍵がかかっている。
解錠すると薬剤の匂いに混じって、先生の香りがただよった。
「先生」
私はベッドに駆け寄る。
先生は顔が痩けていた。意識不明が長く栄養補給は胃瘻に頼っているのだろう。
一旦カーテンを開けると、手を額に沿わせた。
「この三年間ずっと先生のことを考えていた。今日はお別れを言いにきた。もう苦しまないで」
私は椅子に座ると横から唇を合わせる。意識は黄泉比良坂に飛んだ。
坂の途中で座り込んでいる先生の手に、後ろから手を重ねる。
「神流ちゃん!。どうして」
思いもかけない来訪に、先生は心底驚く。
「先生、あの時はお別れを言えなかった。やっと言える」
「私も言いたかった。愛してる、神流ちゃん」
「先生。大好き」
現世で先生の唇に舌をねじ込む。
「でも神流ちゃん。ここはもう黄泉の国。生きている人間は来れないはず。どうやって?」
「もう人じゃ無いから」
先生のためだけに、そうした。
「まったく、らしい。それで神流ちゃん、私はどうすればいい?」
「もう、迷わないでね」
私は痩せ細った先生の腕に薬液を注入した。緩慢で確実な死が彼女を眠らせる。
「さようなら、先生」
バイタルモニターが悲鳴を上げる中、私は死に顔を眺め続けた。