第一話 かんな
高架歩道の影に沈む暗褐色の牛丼屋の前で、バスの後を少女が横切る。追い抜きをかけたプリウスがスピードを上げた。
助けるつもりは無かったけれども、私は彼女の肩を抱いて歩道に引き戻した。
クラクションが盛大に鳴り響き、動転したプリウスは私を巻き込んでガードレールに乗り上げた。
少女は胸の中で、押し殺したような、次は呻くような悲鳴を挙げる。私の腕を掴む彼女の手は力を増して、指から赤みが失われていく。
交番の署員や帰宅帰りの会社員が集まり、私達二人を車の下から引きずり出した。
「大丈夫ですか? お姉さん」
大柄の男子高校生に助けて貰って立ち上がる。ほうぼう擦りむいていたが、耐えられない痛みは無かった。
少女はそうでは無い。
‘また助けきれなかった’
私はその場をふらっと立ち去った。
「藤沢署の者だけれど。市立大一年の芹沢 神流さんだよね」
先ほどの事故でへし曲がったスマホをどうしよう。ポテトを食べながら思案していると、制服を着た警察官が目の前に座った。
「はい」
「さっきの事故で中学生を助けたでしょ。関係者の証言を得られないと捜査に関わるんだ」
「そうですか。なら、協力します」
「良かった。署に来てくれないか。私は交通課巡査の飯島だ」
ようやく警察官は身分を示す。その身分証明書が正しいのか、そうで無いのか私には分からない。
食べかけのポテトをそのままゴミ箱に流し込むと、彼の後について階段を降りた。
「淡々としているね。事故に巻き込まれたのに」
「よく言われます」
少し気になっていた服の汚れをはたく。高価なものでは無い。
飯島巡査についてパトカーに乗ると、彼からいくつか質問を受けた。
「勘ぐる訳じゃ無いけど、なんでいなくなった?」
「またかって」
「人助けが徒になることがか?」
「知ってるんですか」
「警察だからな。二年前だっけか? 皆が皆クソ家族って訳じゃ無い。もっと人を信頼しろ」
私は人を助けようとして、訴訟を起こされた。
「今回も助からないかもって」
力を尽くしても無駄になることがある。全て失う時がある。それを怖れて、物事には関わらないようにしていた。はずだ。
「大丈夫だ。考えすぎだ」
深夜になって、ようやく警察から解放された。タクシーで帰って、郊外にある古マンションの一室に倒れ込む。
シャワーの温水は、裸からかさぶたを浮き上がらせた。外見以上に擦り傷を受けている。警察の言う通り、打撲の気配もある。
裸のまま薄ら寒い部屋に戻ると、ショルダーバッグの中身をあけた。
紙のものや、化粧品は大丈夫だった。奇跡的にタブレットPCも平気だった。でもスマホの充電は開始されなかった。
「やだな」
込み上げるものに抗えず、私は嗚咽した。
先生と一緒に選んだものなのに。もうこれしか思い出が残っていないのに。
二年前、八幡宮の例大祭にお参りした際、鎌倉の携帯ショップで古いものから交換した。
「LINEたまに届かないでしょ」
「電波悪いもん」
「電波のせいじゃ無いよ。最新の規格に対応してないから」
そうして先生は一番売れているものを選んでくれた。
「親にバレないかな」
「前のの残債は払ったげる。いつか返してね」
そんなの踏み倒すつもりだった。だってすぐに一緒になれるんだから。
翌日先生は私のもとを去った。
距離を取って歩く、いつもの藤沢駅。先生は不意に倒れた。
取り巻く野次馬をはねのけると、膝立ちで手を握る。
「高浜先生。どうしたの?」
脈が無く、息をしていないことに私は蒼白になった。
「誰かAEDを」
叫ぶと、私は先生の服をたくし上げる。手探りでブラのホックを外すと、胸に耳を当てた。絶望はそのままだ。
胸部を繰り返し圧迫していると、改札の方でサイレンが鳴る。駅員がAEDを片手に人の輪から顔を出した。
「お客様、ありがとうございます。あとは私がやりますので」
「いいえ、私がやります」
先生の大きな胸ごしに鼓動を聞くのは、私が一番上手だから。
乳房を避けAEDのパッドを貼り付ける。ガイダンスが流れ、先生の身体は跳ね上がった。それが二度ほど続き、先生は息を吹き返した。汗まみれの私は、駅の床に横たわる。しばらくして、救急車の音が駅前に共鳴した。
先生の命は助かったものの、意識は戻らなかった。
親族は、私と先生が特殊な関係にあったことを不快に感じて提訴した。AEDの不適切な使用による傷害であると。もちろん通らなかったが、嫌がらせのような民事が続いた。
あれから先生には会えない。キスで目覚めると自惚れてはいないけれども、たまには寝顔に指を沿わせたい。
「芹沢さんか。電話が通じなかった」
病院の廊下で、昨日事情聴取を受けた飯島巡査と会った。
頭を打ったかもしれないので、MRIを撮りにきている。
「スマホが壊れてしまって」
「そうか、早く直せ。あと、ちゃんと領収書取れよ。損害保険取りっぱぐれるぞ」
「分かりました」
修理したら、先生が手渡してくれた‘あのスマホ’は戻って来ない。
気乗りしなかった。
「昨日、君が助けた中学生は本木 美奈子と言う。膝下の複雑骨折だが、それ以上の怪我は無い。ちゃんと救ったんだ。胸を張れ」
「はい」
「まあ、無理にとは言わんが、少しずつ人間不信を治していった方がいい。家族が感謝の意を伝えたいと言っている」
「……」
高額な検査費用を支払うと、病院のロビーを通り抜ける。
入り口の木漏れ日に、一人の中年女性が隠れていた。目が出入りの患者を追っている。
あの中学生の親だろうか。裏口を探そうとしたが先に見つけられてしまった。
「本木 美奈子の親です。芹沢さんですよね。なんとお礼を言って良いやら。本当にありがとうございます」
「はい」
握る手には汗が染み、髪には串が通っていない。
「ご迷惑をおかけしました。よく言い聞かせているのですが、時折ふらっと勝手な方向に行ってしまう癖があって」
「そうですか」
「大事な子だから。ただ一人の子だから。生きていて良かった。意識が戻って良かった」
大事な人だから。ただ一人の恋人だから。生きていて良かった。意識が戻って……。
不意に悲しくなる。
「芹沢さん?」
涙を流しているのは私の方だった。
藤沢駅でバスに乗ろうとして、硬貨が無いことに気がついた。
飯島巡査にはスマホを直すことを求められた。警察はどうでもいいが、不便なのは間違い無い。
修理すると、交換対応になって修理品は回収される。
それはいやだった。どんな状態でも私と先生のスマホだ。
損害保険請求には不利だが、新しく買おう。鎌倉の、あの携帯ショップで。
高架歩道に登り藤沢駅の改札を通る。鎌倉駅で降りると、八幡宮の参道を上った。
空は晴れ上がり、由比ヶ浜からの海風がトンビを高みに上げる。
鳥は過去を思うのだろうか。ヒュウヒュウと猛禽どもが私を嘲笑する。
ふと足を止めた。
‘誰かに呼ばれている’
「誰?」
振り返って誰何したが返事は無い。
スマホを取り出そうとしたが、それは壊れてる。逃げ先となる思い出の書庫は塞がれていた。
観念すると、声に導かれるまま参道の脇道を横切り、北鎌倉の方向に登り始める。
非情を装ってさえ、世を捨てきれないように、縁も断ち切りきれない。それが私なのだろう。
辿り着いたのは、北鎌倉駅から東側に十分ほど登ったところにある狭い砂利道だ。
急な斜面に古い日本家屋がかろうじて引っかかっており、柵の無い庭には白菜やネギが植わっている。
いたって普通の古民家だが、どうしてここが特別な場所に思えるのだろうか。
ホラーの舞台にしても、もう少し雰囲気が欲しい。
服を正すと割栗石が敷かれた小道を歩み、磨りガラスがはまった木製の引き戸に指をかけた。
古びた表札には‘秋津’と書かれている。
鍵はかかっていないと直感したが、ナショナルと記された呼び鈴を鳴らした。
「裏に来て」
気の抜けたハスキーボイスが、残響と共に漏れ出る。
雑草を踏みしめると、裏庭にまわった。
「神流。よく来たね」
‘あやかし’は和装にたすき掛けで、油絵の画布を洗っていた。
少女だったが、幼すぎるという訳では無い。
羽音が聞こえる。まだ緑色のアキアカネ十数匹が、彼女の上を輪をなして飛んでいた。