ヘリクスの森とうわさの種
ずいぶん長いこと、暗闇の中にいた気がする。ほんのわずかに開いたまぶたから差し込む日の光は、それほどにまぶしかった。
私はだるさの残る体をゆっくりとベッドから起こして、テーブルに置きっぱなしにしていた空のティーカップを見つける。ようやく、いつもの朝がきたという実感がわいてきた。
昨日も宿泊者は現れなかったので、パジャマのまま裏手の庭に出て、地下水を汲み上げるポンプでティーカップを洗う。
そのままキッチンに足を運んで、朝食の準備に取りかかった。火を起こそうと呪文を唱えたけれど、何度唱えてもロウソクのようなちっちゃい炎しか出ない。コンロに取り付けてある魔石が弱くなっているみたいだ。魔石を保管している銀製の箱から新品の輝かしい魔石を取り出し、コンロの中でくすんでいた魔石と取り替える。今度の炎はドラゴンが吹きかけたように活き活きとしていた。
朝食に潰した穀物と豆を混ぜ合わせたスープを飲んで、少し休憩をした後は、日課の地質調査だ。
制服に着替えて施設の外に出ると、いつものように、鬱蒼としたヘリクスの森が四方を取り囲んでいる。建物のある広場は暑いぐらいの日光が届いているのに、向こう側にある木々の間は寒々とした暗闇が広がっていて、まるで死後の世界に通じているかのよう。
軽く手首を回して、わきに挟んでいたノートとペン、そして魔素探知機を持ちながら地質調査にのりだす。
それぞれの場所で、魔素探知機の検知棒を地面に突き刺す。施設近辺、異常なし。施設と森の中間地点、異常なし。森の入り口付近、通常の値をわずかに超過。うん、今回も変わりなし。森の中だったら、もっと高い、興味深い魔素値が出るような気がする。でも戦う装備も無しにあそこへ入るのだけは勘弁してほしい。たとえ王国の本部から指示が来たとしても、絶対に嫌だ。
施設に戻り、今度は裏手の庭に植えてある植物の状態を確認する。これも特に異常なし。何十種類の植物があっても簡単に終わってしまう。もうこのエリアの土壌は通常と変わらないと結論づけていいんじゃないだろうか。森の中に見えるねじれた形の草木や、妙な色合いのキノコに比べたら、ここにある植物のなんと平和的なこと。
その後は本部に転送するレポートの作成と、客室の保守作業や代わり映えのしない雑用、それと森の監視任務が残っているだけだ。
昼食の前に客室の整頓や掃除をしていると、窓から見える森の木々たちが、風もあまり吹いていないのにざわめいているのが目についた。
今日はお客さんがくるかな。なんとなく、そう思った。
日が傾いてきて、窓から差し込む日の光もだんだんと赤みを増してきた。私は自室の窓際にある小さな机に座り、レポートの仕上げをしている最中だった。
すると、机の上に置いていた魔石が、黄色い光を放ちはじめた。
誰かが、エリア内に入ってきたのを示す反応だ。
私が魔石を軽くなでると、石の中に施設全体の映像が現れる。施設正面に向かって、ゆっくりと近づいてくる人影があった。静かな声で呪文をつぶやき、よりはっきりとした映像を見せるよう操作する。
しだいに浮かび上がってきた人影の実像は、大きなボウガンを構えた、小柄な人物だった。髪はボサボサで赤茶色をしていて、団子鼻の下には、たっぷりと貯えられた髭がある。おそらくはドワーフの男性だろう。
しかし、彼は酒場でよく目にするような、発泡酒の入った小さな樽を持って豪快に笑うドワーフのおじさんとは印象が違っていた。
狩人のような、鋭い眼光だった。顔の皺は深く、額には太い血管がまるで木の根みたいに浮き出ている。
それでも、人間ならお客さんであることは間違いない。まずは彼の警戒を解いて、ここがどういう施設か説明しなくては。念のために魔石で体にバリアを張ってから、私は玄関へと走っていった。
玄関の小窓から様子を見てみると、ドワーフの男性は正面にある立て看板をじっと見ているようだった。険しい顔をしながら、目線を上へ下へと繰り返している。
私は大きく息を吐き、なるべく相手を刺激しない表情と声を心がけながら、玄関のドアを開けた。
「こんばんは。当施設をご利用の方でしょうか?」
「誰だっ!」
ボウガンの先が、素早く私の胸へと向けられた。バリアを張っているものの、彼の眼光とボウガンの矢先が発する迫力に、少々怖気づいてしまう。
「す、すみません。決して怪しいものじゃありません。私は、ドラナ王国から派遣されて、この施設の管理などをしているものです」
「怪しいものじゃない? 信じられんな。本当に人間か?」
ボウガンはまだ、胸の中心に向かって照準が合わせられている。
「こんな気味の悪い森の中に、宿屋ってのもおかしいと思わないかい? それに、この看板の下のほう、こりゃいったいなんて書いてあるんだ」
お客さんが来たときはだいたいこんな流れになる。立て看板の上部には、この大陸のだれでもわかるような言葉で『宿屋』と書かれているんだけれど、下部はドラナ王国の書面用の文字で『ドラナ王国自然環境調査研究機関ヘリクスの森出張所兼宿泊施設』とある。全部読めた人はほとんどいない。
「えーっと、それは、ドラナ王国の自然を調べる研究所、かつ森を訪れた人のための宿泊施設、と書かれているんです」
「何か証拠があるのか」
「あ、はい、こちらに」
私はあらかじめ用意していた、王国の公認施設証明書をポケットから取り出し、魔法を使ってゆっくりと彼の目の前まで差し出す。
彼はしかめっ面を崩さないまま証明書を見ていたけれど、しばらくするとその顔もほぐれてきた。
「確かに……、これはドラナ王家の青い紋章に間違いねえ」
文章の末尾に押印された紋章が決め手になったようだ。彼は構えていたボウガンを降ろし、空いた片手ですまなそうに頭を掻いた。もう眼には先ほどの威圧感は無くなっていた。
「いや、すまなかったな、お嬢さん。わしは相当気が張り詰めていたんだ、許しておくれ」
「いえいえ、お気になさらずに。ほとんど人の手が入っていないヘリクスの森にこの施設があることは、私たちも秘密にしていたことなのですから」
「そうだったのかい。それで、さっそくで悪いんだが、今からここで一泊することはできるのかい?」
「ええ、大丈夫ですよ」
「代金はいくらなのかね」
「研究施設も兼ねた所なので、お代金はけっこうですよ」
「ほほ、そりゃあ助かるわい」
「そのかわり、寝床以外に大したものはなく、食事も最低限のものしか出せませんが……」
「いいよいいよ、安心して眠れる所さえあれば大助かりだ」
こうしてまたひとり、ヘリクスの森に足を踏み入れた人間を、この施設に止めることになった。
「宿泊者一名、ドワーフ族の男性、デニク・ブロンズヒル、と……よし、レポート完成」
レポートを完成させた頃には、もうすっかり日は沈み、施設の外は真っ暗になってしまった。用紙を丸めて紐で縛り、本部へ転送するためのポータル発生装置へと向かう。ダイニングでは、デニクさんがダイニングのテーブルに座り、夕食をとっていた。ダイニングを通り過ぎる前に、玄関近くにある小さなテーブルへ、帳簿代わりのノートを戻す。
開かれた真新しい帳簿の一番上には、やや崩した文字でデニク・ブロンズヒルと記入されている。
「よーお、お嬢さん。研究かなんかのお仕事はあがったのかい」
ダイニングに入ると、デニクさんの陽気な声が私を迎えた。もうほとんど酒場にいるドワーフの雰囲気になっている。
「ええ、終わりましたよ。これから本部に研究の成果を送るところです」
「送るってっと、そこにある魔石の入った妙な装置で送るのかね? 確か、ポータルってやつだったか」
「そうですよ、一方通行で、物体しか送ることができない簡易的なものなんですけどね」
私は筒状の装置の中にレポートを入れ、小さな声で呪文を唱える。すると、設置された魔石が反応して黄色い光を放ち、空間に小さな穴が開いてレポートが吸い込まれていく。
「ありゃ、あれで転送は終わったのかい。意外とあっけないもんだね」
「ほんと、あっという間ですよね」
ダイニングに私とデニクさんの笑い声が広がっていった。
「やはり大陸有数の魔法国家は技術が進んどるなあ。わしらの町はいまだに牛や馬に運んでもらっとるよ。せがれは牛の世話、ちゃんとやっとるだろうか」
「デニクさんは森の近くの町に住んでらっしゃるんですか」
「ああ、コラムの町だ。羊の毛や牛の乳がちょっと有名な、小さい町だな。ヘリクスの森へは歩いてでも行けるよ」
「へえー、コラムの町。この森に寄られたのは、何か素材を探しに?」
「いや、人を探している。コラムの町だけでなく、あそこら辺一帯でうわさになっているような、色男をな」
「うわさになっている、色男?」
「ひどい奴さ」
いつの間にか、デニクさんの顔にはさっきまでの朗らかな表情が消えていて、最初に会った時のような、鋭い眼光がまた眼に宿っていた。デニクさんは神妙な声色で話を続ける。
「『煉獄の魔人』、って呼ばれているらしい。奴はかつて、どこかの国に住む高名な魔導士で、炎魔法を専門にしていたんだそうだ。ところが、貴族同士の内部抗争に巻き込まれて失脚し、あげくヘリクスの森に追放されたんだと。現在は森の中で怪しい魔法の実験をして、復讐の機会をうかがっているんだとか」
深いため息を挟んで、デニクさんはぬるくなったスープを一口すする。
「それだけならわしらに関係のないことだったんだが……、しだいに町の周辺でおかしなことが起こるようになった。町はずれに黒焦げになった動物の死体が見つかったり、草原から火が出て小火騒ぎになったことが何度もあってな。それで、町一番の狩猟者であるわしに依頼が来たんだ。ヘリクスの森へ行って、『煉獄の魔人』のしわざかどうか、確かめてほしいってな」
「それで、この森へ」
「ああ。だが、わしが森で遭遇した『煉獄の魔人』は、うわさよりもひどい奴だった。追手に気付くと、デタラメに火炎をまき散らして一目散に逃げちまうんだ。森の中が一瞬で火の海になっちまうし、動物たちも巻き添えで焼け死んじまう。狐の親子が黒い塊になって息絶えているのを見つけた時、わしは怒りを覚えたよ。こいつは人間じゃねえ、わしらの町に被害が出る前に、なんとしても食い止めなきゃならんってな」
デニクさんは、椅子の横に置いていたボウガンにそっと手を置いた。破けた袖から見える太い腕には、痛々しいやけどの痕がいくつもあった。
「しかし、奴は手ごわい。幻影の魔法かなにか使っとるのかもしれんが、ボウガンを何発撃っても命中した試しがない。血の一滴も落ちておらんのだ。いまだに奴の実体を見たことすらねえ。奴は本当に……バケモノなのかもな」
私は言葉が出ず、床に目線を落としてうつむいていると、ふふっ、とデニクさんが笑うのが聞こえた。
「すまねえなお嬢さん。わしとしたことが、つい弱音を吐いちまった。久しぶりに落ち着いてメシが食えたからだろうな」
私を安心させるように、デニクさんは穏やかな顔を向けていた。
「わしだって、狩猟者としてそれなりに名の知れた男さ。相手がバケモノだろうが怖気づくわけにはいかねえ。それに、奴も消耗しているのか、最近は罠が仕掛けられていることが増えたしな」
「えっ、罠、ですか?」
「おそらくわしの追跡にうんざりして仕掛けてきたんだろうが、罠も扱う狩猟者のわしには通用せん。奴の尻尾を掴める日も案外遠くないかもな」
そう言うと、デニクさんは気合いを入れ直すように、太ももを叩きながら立ち上がる。
「話を聞いてくれてありがとな、お嬢さん。わしはこれで休むことにするよ」
「わかりました。おやすみなさいませ」
「もし万が一、『煉獄の魔人』がこの近くに現れたら、遠慮なく叩き起こしてくれ」
ギシギシと音を立てながら、デニクさんは客室のある部屋へと向かっていった。
私は少し背伸びをした後、ダイニングの片付けに取り掛かることにした。お出しした食事のほとんどはポータルから転送されてきた簡素なものだったけど、デニクさんはすべて平らげている。おかげで片付けも楽に終わった。
「『煉獄の魔人』……」
小さくつぶやきながら、私は窓から見えるヘリクスの森に目をやる。もはや森とわからないほどの、漆黒の暗闇が森をおおい尽くしていた。風でかすかに揺らぐ木々の動きを見ていると、まるで森そのものが大きなバケモノのようだ。
私はダイニングの明かりを少し落として、寝る前にいつも飲んでいるハーブティーを淹れるため、棚からハーブ類の入っている瓶を取り出した。
翌日、目を覚ますと昨日と同じような朝日が窓の外で輝いていた。制服に着替えてデニクさんの出発を待とうと思っていたけれど、彼は早起きで出発の準備をすでに済ませていたらしく、私も慌てて準備をした。
「世話になったな、お嬢さん。またいつかお礼をさせてくれ」
「そんな、お礼なんてとんでもない。こちらこそ、昨夜はお話を聞かせてくださってありがとうございました」
「なあに、たいしたもんじゃないよ。その魔法に守られた施設なら大丈夫かもしれないが、今後も『煉獄の魔人』には用心しなよ。それじゃあな」
「はい、いってらっしゃいませ」
デニクさんは軽く手をふると、振り返らずに、しっかりとした足取りでヘリクスの森へと入っていく。その姿が暗い森の中へ溶け込んだ時、森の木々が不自然に揺れたような気がした。
それから、私はいつも通りの日課をこなしていた。デニクさんの使っていた客室は意外と乱れていなかったので、清掃も早くに終わった。
外もだんだんと暗くなり、夕食をすませた私は、このまま何事もなく一日が終わるだろうとハーブティーの準備を始めようとした。その時、机に置いてあった魔石が黄色い光を放っているのに気がついた。
えっ。まさか、こんな時間に続けてお客さんが?
急いで魔石に手を触れると、ふらふらとした足取りで施設に近づく人影が見えた。頭のところに大きな耳らしきものがある。獣人だろうか。
ランタンに火をともして外に出てみると、大きな獣の耳の付いた、若い獣人とみられる男性が、看板の前でぼーっと立ちつくしている。
「こんばんは。当施設をご利用の……方でしょうか」
「宿屋……宿屋だよな、ここ……」
ランタンの光に照らされた彼の顔には、疲労が色濃く現れている。服は軽装だが汚れが目立ち、腰周りや背中には金属製の器具らしきものをたくさん身に着けていた。
「お願いだ。泊めてくれ、もう限界なんだ。三日間一睡もしていないんだよ」
今にも倒れそうな体を支えながら、私は彼を施設内に招き入れた。
玄関で座り込む彼に対して、私は最低限の質問をした。
「お名前を、お聞きしてもよろしいですか」
「ラデル・ハンス……コディロの村のラデルだ」
「ラデルさん、このヘリクスの森へはどういったご用で」
「人狩りだよ……『人狩り狩猟者』が現れたんだよ!」
「ひ、人狩り?」
「あんた、知らないのか。村中でうわさになっている危険な奴だ。昔は凄腕の狩猟者だったらしいが、動物相手じゃ満足できなくなって、人に手を出すようになったクソッタレだよ。そいつがヘリクスの森に潜伏して人狩りの機会をうかがっているらしい」
ラデルさんは両耳を力なく伏せながら、後悔の入り混じった声色で話を続ける。
「俺は懸賞金目当てで、この森に入ったんだがな……。奴には俺の仕掛けた罠が全然通用しねえ。追跡してみると、奴のボウガンの餌食になった動物たちが山ほど出てきやがった。小さな兎に十本近い矢が刺さっているのも見た。まともな人間の仕業じゃねえよ。バケモノだ。俺もやがてあんなふうに……ああああっ!」
「お、落ち着いてください!」
頭をかきむしるラデルさんを止めようとした拍子に、帳簿が置かれているテーブルが倒れ、何冊かの帳簿が床に落ちた。
とにかく今は休ませるのが先決だと考えた私は、先にラデルさんを客室へと案内する。夕食が必要かと尋ねたら、彼はいらないと答えた。客室のドアを閉めてものの数秒で、向こうから大きないびきの音が聞こえてきた。
玄関に戻り、私は散らばった帳簿を集めていた。ちゃんと順番があっているか、帳簿の最初と最後の日付を確認しながら整頓する。二番目に新しい帳簿の最後に書かれていた名前は、リーベック・アルタニア、そう、確かこの人は『火炎の貴公子』と呼ばれる賢者様だった……。
その時、私は何かに気付きかけた。
しかし、深く考えようとしても、それ以上思考が進まなかった。『火炎の貴公子』がどんな人だったのか、まるで薄暗い闇に包まれているかのように、はっきりと浮かんでこない。
「『人狩り狩猟者』……」
つぶやいたそのあだ名に、ボウガンを持ったドワーフの男性が頭の中をよぎった。
「……もうだいぶ遅くなっちゃったし、ハーブティーを作らなきゃ」
ダイニングに戻りハーブティーを入れている途中、私はレポートのことを考えていた。
ある時期までは、私はレポートで自分自身の見解を書いて送ったことがある。ヘリクスの森では不自然なほど行方不明者が発生しているが、その要因は森に入る人ではなく、森そのものに何らかの意思や、悪意が存在しているのではないか、という内容だった。
だけど、本部からは何も返答がない。私もそれ以上、深入りはしなかった。ただ日々の状況をレポートにして送るだけになった。私が首をつっこむには、この森の闇は深すぎるような気がする。もうそろそろ私の任期も終わるはずだし、その時は後任の人に任せておこう。
任期が終わったら、本当に帰れるのだろうか? 誰がここに迎えに来てくれるんだろう。私の前任者は……。
ああ、ダメだダメだ。こんなことを考えていたら、また眠れなくなってしまう。私はいつもより濃いめに抽出したハーブティーをカップに注ぎ、熱いまま一気に飲み干した。
浮遊感が私の体を包み、感じていた不安が頭から消えていく。私はテーブルの上に置かれたティーカップを片付けないまま、ベッドに体を投げ出した。
私の感覚が、だんだんと闇の中へ埋もれていく。
完全に意識がなくなる直前、森の方から、誰かの悲鳴がかすかに聞こえた。
どこかで聞いたことがあるような、そんな声だった。
『人をバケモノに変える魔法は、たくさんのうわさと、ひとつまみの悪意』
――ヘリクスの森周辺地域、ドロソンの村に伝わることわざ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。