-プロローグ-
十二月三十一日。
私は、この広い世界でまだ小さいながらもその世界で、大きく私は泣き叫んだらしい。苦しみながらも必死に我が子の為へと死力を尽くした母は、その産声が聴こえたのか。まだ母の呼吸は荒いが、静かに安堵していたと私は聞いている。母の手を握り締め、支えるように強く鼓舞していた父も泣き叫ぶ私の顔を瞳に映し、何度も「ありがとう。」とその重い唇を開き、涙を浮かべながら感謝をしていた。
世那。
それが私の名。そして、私の最初の誕生日プレゼント。産声を上げた分娩室に、朝日が昇る。また一つの命が産まれたのだと二人は喜んでいた。照らされた陽の光は、少し肌寒い院内をほんの少し暖めてくれたという。
一月二日
母の容態が急変。元々、身体が弱かった母はそのまま集中治療室へと運ばれた。どうやら、私を産んだ事で免疫が著しく低下し持病が発症したらしい。体力も無く、産後間もない母の身体では対抗する手段が極めて厳しかったようだ。忙しなく動き回る看護士とその目紛しい光景に泣き叫ぶ私。運ばれて数時間後、治療室の赤い灯火が消える。室内から現れたのは治療を施した医者。顔を上げる事なく、項垂れた形相でただただ首を垂れていた。
父は悟ってしまった。あぁ、そういう事か。何ということか。疲弊し緊張した筋肉が骨を失ったように崩れてしまい、思わず肘をついてしまう。私の父と再会する事は無く、母の目も開ける事は無かった。父の乾いた頬にまた塩辛い雫が流れ落ちていた。生まれたばかりの私と父を置き去りにし、母はこの日を境に去ってしまった。
それから六年後。十一月十九日。
また肌寒い季節が巡り、秋風が強くなりつつあるそんな日だった。肌が見える手や首に冷たい風が降り掛かり、冷たく纏おうとしている。身体を屈めながら歩き、少しでも寒さを凌ごうとするそんな私に対して、自分が身に纏っていたマフラーを着けてくれた。父の匂いは、温かくとても気持ちが落ち着いたと今でも覚えている。そんな私たちに降り掛かったのは、一石の思いがけないものだった。
瞬間、私には理解する事も把握する事も出来なかった。後に聞けば、道路をはみ出した車が勢い良く歩道へと乗り出したとの事だ。
咄嗟に父は、私を庇うように突き飛ばし勢いが止まらない車から距離を置いたらしい。私を庇った事で、父は逃げる事は出来ずそのままスピードをつけた車にはねられた。交通事故により父もまた、母を追うように私を残しこの世を去った。まだ幼かった私にはこの時、父が死んだ事が理解出来なかったようだ。けれど、私は直感していた。
私は、一人ぼっちになってしまった・・・と。
それから私は、親戚たちの家に引き取られ生活を続けていた。その時の記憶は、あまり覚えていない。目の前で父が死んでしまったのだ。先程まであんなに楽しく話していたというのに。私の中の何かがパズルのように引き裂かれ、粉々に砕け散った感触があった。
虚となった瞳は、きっとどこにも焦点は無かったのだろう。親戚たちの投げかける言葉も、周りの大人も、当時の友達もフィルターが何層にも重なり、あの時の私には、鼓膜まで届く事すら無かった。口数が減ってしまったのはその頃からで、乾いた口は重く声を震わせるのも一苦労だった。一人は嫌だ。あなたじゃない。あなたでもない。母を、せめて父までは奪わないで欲しかった。
歳を重ねる度に、盲目な哀しみは増していくだけだった。母を救えなかった医師を恨んだ時もあった。父を跳ね飛ばした運転手を殺してやろうとも思った。けれど、歳を重ねる度に思う。それであの二人は喜ぶのだろうか、と。哀しみを原動力にし、あの医師を恨んだところで母は喜ばない。怒りを振り下ろし、あの運転手を殺したところで父は戻ってはこない。幼い頃に読んだ神も天使も、この世界には居ないのだろうと悟ってしまったのだ。だから、やり場のない矛先が歯を食いしばり、時折口の中は鉄の味がした。
時が経ち、親戚の家から離れ孤児院に居た私が十九歳になった年。私にも恋人が出来た。恋人の名は、冬真。私よりも二つ上歳が上の人。優しくて、面倒見が良くて一緒に笑い合ったり怒ったり。何よりも一緒に居られるのが、他の何物とも比べられない幸せが溢れていた。孤独という閉鎖された私という世界には、あまりにも眩し過ぎた。そう、ずっと一人だった私の隣には今、トウマがいる。空白だった想いというキャンパスにトウマというパレットが何色にも塗り替えてくれた。彼が笑えば、喜べば暖かい色。彼が泣けば、悲しめば少し寒い色。けれど共感すればまた明るい色へと塗り替える。空にも似た素敵なキャンパス。
あの日が来るまでは・・・。
「待って。」
静寂を決め込んでいた部屋に私の声が震える。それは、似た感覚。昔、幼い心を蝕んだあの感覚。息苦しさすら掻き立てる。呼吸が重くすら感じる孤独感を戦慄させる。
「どこに・・・、行くの?」
恐る恐る言葉を発した私は、突然出て行こうとするトウマに問いかける。その背中は、どこか私に似た感覚があった。
閉じ籠り、耳を塞いでしまった私に。だからこそ、感じてしまったのだろう。いつものトウマではない。そんな気がした・・・。
「なんで、振り向いてくれないの?」
続けて声を投げかけても、彼が振り向く事は無かった。瞳に映るのは彼の後ろ姿だけ。一歩二歩踏み込めば手が届く距離なのに、何かに引き裂かれたかのように遠く感じてしまう。
手が届かない、足が前へと進まない。それは一種の恐怖心なのかも知れない。この空間に亀裂を入れられて、目の前にいるトウマが別次元にでも居るかのようだ。
「ごめん・・・。」
ようやく発してくれたトウマはこちらを振り向く事は無く、小さな声で謝るだけだった。か細く掠れた声は、余計に伸ばしたい腕を払い退けてしまう。
喉の奥で言葉が詰まり、声道がつっかえる。その度に心臓が一鳴りずつ私の中で響く。余計に強く大きく。瞳もまた共鳴するように震えていた。網膜が何かで溺れそうだ。
「巻き込みたくないんだ。」
続けてトウマは、そう言う。やはり私から遠ざけるように距離を置く。そのプレッシャーに押し出され、まだ近付ける事が出来ないでいた。
今、近付けば無数の刃で手を切り刺されてしまうのではないか。そんな殺気すら感じてしまった。
「ト、トウマ?」
そう言って、彼は私とこの部屋を残し去ってしまった。ガチャリと無機質な扉の音が部屋に響き渡る。その頃になってようやく身体が反応してくれた。
「待って、お願い!」
そう言葉に発した時には彼が居た温もりだけ。彼に届く事はなく、そのまま声が跳ね返ってきた。巻き込みたくない。その意味は何だったのか。私には見当も付かなかった。だから、
私は・・・。前に進む事を決めた。痺れた身体を前に出し、走り出す。
真実を確かめたい。私はトウマを追いかける事に決心した。ドアに手を伸ばし、フックに掴み掛かる。いつもより重く感じる。けれどこれ以上、躊躇してはいけない。そんな気がしていた。この時の私は、思いもしなかった。追いかける事に必死だったからだ。
ドアを開けた先が、まるで小説のような世界だったのは夢にも思わなかったから。
扉を開けると暗く染まった空間だった。明らかに普段見る景色では無かった。いつもの街並みも、いつもの空模様も、通り行く人影すらもそこには無かった。
明らかな別次元。星無き夜空のように広がるこの空間は、沸々と不気味さを演出していた。
「ここは、どこ?」
思わず私は口に出してしまった。誰かに返事を求めるわけではない。自分に言い聞かせる為だ。少しでもこの不気味な空間の中で冷静でいる為だ。何よりもトウマを探すのが目的だ。ここにトウマがいるのだろうか。
周りは暗闇。しかし、全く見えないわけでは無い。光が無い部屋であれば自分の身体すらも見えないだろう。不思議にも自分の身体だけは、まるでスポットライトを当てたかのようによく見える。
「出口が・・・、ない?」
改めて周りを見渡してわかった。後ろから入ってきたはずなのにその出入り口は無かった。まるで、初めからそこには無かったと言わんばかりである。
後ろへ振り向き掌をかざしてわかった事もある。数歩下がった先は、見えない壁のようなモノがあった事。どうやら戻る事は出来ないようだ。
「前に進めってことなの?それしか無いみたいね。」
そう思い、元の場所に戻りたいという後ろめたさが無いと言えば嘘になる。だとすれば、進むしかない。後ろでもない。右でも左でもない。進むなら前へ、奥へ進むしか無いのだろう。暗闇へと一歩、前へと一歩踏み出す。恐怖を振り払う第一歩でもある。一度踏み出せば怖くは無い。そう思わなければ、不安で圧死してしまう。
だから、少しでも平常心を。少しでも強く見せなければ。仮面を被るように、マスクするように、フードを被るように。弱い自分を見せては駄目だ。相手に付け入れさせるな。そう言い聞かせ、前へと進む。
しばらく奥へ進むと、光が見えた。丁度、人一人が入れる程の開け放たれた光の空間。出口だろうか、いやまだこれは入口なのかも知れない。
「何かの入り口かしら?」
私はそう良い聞かせ、声に出し認識させる。なぜかそこで足が止まってしまった。進めないわけではない。止まらなければならない、
そうせざるを得ない。そんな気がしていた。
〈進むのか?〉
どこからかはわからない。ノイズ混じりの声がこの空間に響き渡る。上でもすぐ横でもない。
でも確かに私の耳に不思議な声が聞こえてきた。男性とも女性とも似つかないこの声は、やはり不気味だった。
「・・・誰?」
〈ここは空白の世界。〉
その声の主は、そう答えた。空白の・・・、世界?やはりここは、私の世界とは違うのか。
当然、見たことも聞いた事もない。
〈お前が求めるもの、手にしたいもの、探したいもの。全てはお前次第だ。
だが、求めるものに対し代償は払って貰う。〉
声の主は、一貫して淡白で機械的だった。それが不気味の理由でもある。だが、恐怖に圧倒されては駄目だ。私は胸に手を当て、恐怖を搾り取るように拳を握りしめる。
〈その覚悟があるならば、進むが良い。〉
言われるまでもない。私は前に一歩踏み出した時から決めていた。トウマを、真実を確かめたい。その一心だけだ。
ならば、進むしかない。光の向こうに答えがあるのなら。あなたに会えるのなら、どうなったっていい。