第2話 『明日』
『明日』が辛くなっている。
みんな簡単に『明日』の約束をしてくるけど、その約束を守れるかどうかもわからない。
いっそどこか別の世界に行ってしまいたい。
別の世界、生きやすい世界、『明日』が楽しみと思える世界、そんな世界にいっそ行ってしまいたい。
席に着き、リュックから教科書やノートを取り出して机に入れると、何か入っている感覚があったので、手を入れてみると何か、濡れているものを触る感触があった。
机から手を抜き、出てきた手を見る。
――理解が追い付かなかった。
僕の手は、赤く染まっていた。
頭で理解するよりも、身体の反応は早かった。
僕は吐いた。
――気持ち悪い
胃の中から何かが逆流してくる感覚を、はっきりと感じる。
――気持ち悪い
朝食べたもの、飲んだものがすべて口から出ていく。
――気持ち悪い
口だけではなく鼻にまで逆流してきている。
――気持ち悪い
生暖かい、個体とも液体とも判別できないようなモノが次々に逆流してくる。
――気持ち悪い
いよいよ胃の中に入っていたモノがなくなったのだろう。
『酸っぱい』と表現するのがふさわしい、胃液までが逆流してきた。
それを見てまわりの男女が騒いでいるのがかすかに聞こえる。
ただ、そんなことを気にしている余裕などない。
少し経って、先生が「大丈夫か!?」と大声で言いながら走ってきた。誰かが呼んだんだろう。
声が出なかったので、答えることもできなかった。
その様子を見て、大丈夫ではないと判断したのだろう。
僕は先生に保健室へ運ばれ、保健室に入るなり、結局ベッドまで運んで行かれた。
そばらく保健室のベッドで横になっていると、また気持ち悪くなってきたが、嗚咽しただけで僕の身体からは何も出てこなかった。
またしばらくして保健室の先生が来て、黒色のビニール袋を渡しながら、
「吐きそうだったらこの袋使ってね。 それと、家に電話してお母さん呼んだからね。」
と言っていた。
ここで、少しばかり落ち着いてきたのか、ふと気になった事を聞いてみた。
「僕の机の中に何が入ってたんですか?」
そう聞かれ、言うかどうか、少し悩んだようだったが
「ああ、子猫の死骸が入れられていたみたい。それも、1匹だけじゃなくて3匹も。」
それを聞き、合点がいった。
目が合ったのは猫の死骸だったのだ。
思い出したくもないが、考えれば必然的に思い出してしまう。
また気持ち悪くなって、さっき受け取った袋に吐いた。吐いたのは多分少量の胃液だと思う。
直前まで会話をしていたので近くにいた保健室の先生は、袋を回収し、新しい袋をもう一度持ってきてくれた。
僕に袋を渡すと「ゆっくり休んでね。 お迎えが来たらまた来るからね。」と僕に声をかけてベッドから離れていった。
僕は寝入りばなに、いっそどこか別の世界にでも行けたら楽なのかな、と思った。
これは前から考えていたことだ。
別の世界、生きやすい世界、『明日』が楽しみと思える世界、そんな世界にいっそ行ってしまいたい、と。
目を閉じているといつの間にか寝てしまっていたようだ。
保健室の先生に、「迎えが来たよ」と言って起こされた。
少し寝たからか、寝る前と比べると吐き気と頭痛は落ち着いている。
目を開けるとそこには保健室の先生とお母さんが立っていた。お母さんは心配そうな顔えしていた。
きっと、すでに先生から聞いたのだろう。
「帰ろうか」とお母さんに言われ、「うん」と答えた。
帰りの車内で、何かを聞かれるかと思ったが、結局聞かれることはなかった・・・というより会話がなかった。
家に帰って来てから、すぐに自分の部屋に行き、ずっとベッドで寝ていた。
いや、寝ていたというより悶々として、寝たり起きたりを繰り返していた。
ふと目を覚ますと窓から、まるで紅葉し始めた紅葉のように赤い空の色が見えた。
いつの間にか夕方になったんだな、と思っていると、階段を上る音が聞こえた。
足音は部屋の前に来て扉をノックした。
「富貴君、開けて。」と誰かが言う声が聞こえた。誰の声かは直ぐにわかった。愛実の声だ。
そのあとすぐに、「富貴、開けなさい。」と言う友の声が聞こえた。
とてもじゃないが今は顔を合わせる気分にはなれない。
しばらく沈黙が続いたが、やがて、
「今日は帰るね。いきなり来てごめんね。」と愛実がいつもより優しい声で言うのが聞こえた。
少しして「私も今日は帰るわ。また明日ね。」と友が言った。
鍵をかけているわけでもないので、開けようと思えば外からでも開けることが出来るのだが、開けずにずっと待っているので、きっと気を使っているんだろうな、と思う。
(また明日、か。)
僕は『また明日』と言った友の言葉を思い出していた。
考えれば考えるほど今朝の出来事が頭に蘇ってくる。
だんだん気持ちが悪くなってきたので目を閉じて寝ることにした。
結局この日は食事もせずに寝てしまった。
この夜、ある夢を見た。
夢の中で僕は雲の上に立っていた。僕の前には1人の若い女性・・・女の子が居た。
見た感じ小学3年生くらいだろうか。
今ひとつ状況を呑み込めずにいると、「お兄さん、名前は?」と女の子が話しかけてきた。
「富貴です。」とやや困惑しながら、思わず敬語で答えると
「へぇ~富貴さんって言うんだ~。」と言いながらまじまじと顔を見てくる。
「君の名前は?」と聞いてみると、「私はね~、シャリーっていうの。よろしくね、富貴さん。」と答えた。
女の子・・・シャリーは、続けて言った。
「ねえ、富貴さん、私の目を見て。」と言われたのでシャリーの目を見た。よく考えると初めてシャリーの目を見た。
シャリーの目を見て僕は驚いた。『綺麗』と素直に思った。
まるで澄んだ海のような目の色だった。
言われた通り目を見ていると、不思議と【記憶】を見られているような感覚に陥った。
――数分後
「富貴さんありがとう。もういいよ~。」とシャリーが言った。
シャリーは「今ね~、富貴さんの【記憶】を見させてもらいました。」と続けた。
どうやら【記憶】を見られているという感覚は正しかったようだ。
「記憶を?」僕はシャリーに言った。
「そう、記憶。富貴さん、大変だったね~。
富貴さんが過去にどんなことをされて、どんなことを思ったのか、見させてもらったの。」
「僕の【記憶】を見たのはわかった。でもなんで【記憶】を?」と尋ねてみる。
しかし答えは返ってこなかった。
「今日はそろそろ時間だからまた明日ね。ばいばーい。」とシャリーは言った。
結局この日はここで目が覚めた。
(何だったんだろう。「また明日ね。」か。まあ、夢だしな。)
ふと時計を見ると午前6時を示していた。
もう「今日」になっていた。