妻の死を人伝てに知りました。
ある朝。急に叩き起こされたサウロは、妻の訃報を聞いた。
「サウロさま……なにはともあれ、一度トライシオン公爵家の本邸にお戻りになったほうがよいかと……」
青い顔をしたリタがそう勧めるので、サウロは呆然としながらも王都内にある公爵邸へ向かった。
(妻が、アリアドナが死んだ?)
(本当に? 信じられない。妻は、俺より年下なのに。なぜだ? 死因はなんだ? 事故か? 病気か?)
彼女と初めて会ったのは、とある夜会だった。
彼女はとても美しく可憐だった。艶やかなブルネットに挿した小花まで愛らしかった。白いレースをふんだんに使ったデビュタントのドレスはまるで妖精の衣装のように見えた。
サウロは一目で恋に落ちた。この生涯かけて愛すると誓い、毎日通い、熱烈に押して口説いて、最後には『あなたの情熱には負けたわ』と言わせ恋仲になった。
大恋愛の末、周囲の反対を押しきり結婚した。
幸せだった。
あの喧嘩をするまでは。
トライシオン公爵邸の門扉は開放されており、玄関ホールまでだれにも咎められず進めた。だが、公爵家の当主たるサウロの顔を知らないらしい若いフットマンに誰何され、玄関ホールで足止めを喰らった。
押し問答をしていたら、すぐにこの公爵邸の老家令が駆けつけた。彼の顔は覚えている。長年勤めているセルバンテスだ。
「アリアドナが死んだと聞いた! 本当なのか? なにがあったんだ? 葬儀は? どこの教会の墓地だ?」
サウロの矢継ぎ早の質問に、老家令セルバンテスは顔色を変えずに頭を下げ淡々と口を開いた。
「当家に関係のないかたはお引き取りを。弔問に訪れたというのなら、主のもとへご案内いたしますが」
「主? 主とは誰だ?」
「前年、家督をお継ぎあそばした、ダミアンさまでございます」
ダミアン! まさか、息子のダミアンか! 家督を継げるほど、大きくなっていたとは知らなかった! 一も二もなく、サウロは面会を求めた。
ちらりと彼を見たセルバンテスの「……お太りになられましたなぁ……」という呟きには聞こえないフリをした。
応接室の一室に案内されたが、ここは商会の人間が使う部屋ではなかっただろうか? この公爵家の当主であるサウロが通されるべき部屋ではないはずだ……いや、家督は既にダミアンが継いだと、さきほどセルバンテスが言っていた。
(どうしてだ? なぜ息子が先に家督を継いでいるのだ? 俺がいるのに、変ではないか?)
解らないことだらけだった。
彼がこの家に戻らない間に、一体全体なにが起こっていたのだろう。
「お待たせしましたか」
三時間は待たされただろうか。
待たされ続け、堪忍袋の緒が切れるかと思った矢先。ノックもなく応接室に入ってきた若者は、アリアドナと同じ艶やかなブルネットとサウロと同じ青い瞳を持っていた。
(ダミアン、か?)
昔の幼子の面影は一切なく、そこにいたのは怜悧な印象の青年実業家然とした息子の成長した姿だった。
「ダミアン! 大きくなったなぁ!」
サウロは思わず立ち上がっていた。
自分よりも大きくなっている。なんと立派な姿になったことか!
(昔は俺に構ってほしくて、よく足元をウロチョロとしていたというのに!)
邂逅を喜ぶサウロに対し、青年は不快だとはっきり分かる表情を見せた。眉間に皺を寄せ顔を顰めたまま、サウロをジロジロと胡乱気に見やる。
「客と聞いたのだが……セルバンテス、これは誰だ?」
「! 忘れたのか? ダミアン、お前の父だ! サウロ・トライシオンだ!」
青年は不愉快そうな表情のまま、「父……?」と呟いた。
「俺の父親は、十五年もまえに行方不明になっている。この世には、もういない」
「え……?」
いま、ダミアンはなんと呟いたのだろうと、サウロは己の耳を疑った。
父親は行方不明、だと。この世にはいないと聞こえたのだが。
「ちょうどいい、俺の独り言でも聞いていくか?」
そう言った青年は、尊大な態度でソファに座りその長い脚を組むと、父と名乗ったサウロを虫けらでも見るように蔑んだ視線で見つめた。
こんな視線を昔見た覚えがある。
前トライシオン公爵が、よくこんな瞳で彼を見ていた。
なにか恐ろしいモノを見た気がして、サウロは足から力が抜けソファに座り込んだ。
「俺の父親は糞でな。俺の母を騙して結婚した。“生涯君だけを愛し守ることを誓う”などと、口先だけ甘いことを言ってこの公爵家に入り込み、その実、隠れて女を囲っていた。俺が七歳のころ、それがバレて母と大喧嘩したあげく、離婚届には絶対サインしないと捨て台詞を残して去った」
そうだ。
そうだった。十五年前、浮気がバレた。外に女を囲っていたのを、いつの間にか調べたらしいアリアドナに追求され、離婚したいと言われた。彼は絶対離婚届けにサインしないと言い捨て、この家を出たのだ……。
「母はその後、自分の夫の“行方不明届”を貴族院に提出した。それが提出され十年経過して、まだ行方知れずなら“死亡届”が出せるのだが……母は何を思ったのか十五年経ってから、“死亡届”を提出した。つまり、公的に俺の父親は、もうこの世にいない」
「なんだって……? “行方不明”、だと? “この世にいない”、だと?」
公爵家を出奔してからの彼は、その時々女の家に転がり込み相手や居場所を変え転々としていた。彼の容貌をもってすれば、女は次々と引っかかった。
レストランや商会での支払いは、すべてアリアドナの名前で、トライシオン公爵家のツケで払ってきた。
この十五年間ずっと。
アリアドナがサウロの行方を調べようとしたら、解らないはずがなかった。
アリアドナはサウロを探して、彼を追ってくるはずだった。泣いて彼に縋り付き『逃げないで、もう一度やり直そう』と言ってくるはず、だったのだ……。
だが、追手は来なかった。
「俺の父親という人間は、本当にクズ野郎でね。母を誑かして結婚するまえは、男爵家や裕福な商家のうぶな令嬢を、その顔と甘い囁きで騙して身体や金品を奪っては、あっけなく捨てるような非道な真似を平気でしていたらしくて。
母は俺にとても厳しく躾けてくれたよ。“お前はクズ人間になるな”と。“女性を弄ぶのは地獄に落ちる所業だ”とも。“浮気をするということは相手の心を殺す、殺人犯だ”とも言っていたな。
まったくもって母の言うとおりだ。俺もたった一人の可愛い妹が、そんなクズに誑かされたらと思うと、胃の腑が煮えくり返る」
「……妹?」
(ダミアンに、妹だって? そんな存在知らない、聞いてないぞ)
サウロの知らない、アリアドナの娘ということか。
つまり……アリアドナはサウロと離婚しないまま、他の男を連れ込んだということになる。
眉間に皺を寄せたサウロに対し、ダミアンは呆れかえった声を出した。
「なぜ、お前がそんな不機嫌そうな顔をする? 妹は正真正銘、父親も同じ俺の妹だ」
「え?」
「父が失踪するまえ、母は妊娠していたんだ。恐らく、父は妹の存在そのモノを知らなかっただろう。お陰で妹は父親の顔を知らない、幸せな娘に育ったよ」
(え? 幸せな娘? 父の顔を知らないのに?)
どういうことなのかと戸惑うサウロ。
そんな彼の怪訝そうな顔を見るダミアンは、どこか楽しそうであった。
「そうだろう? 俺の父親の記憶は、どんなに遊んで欲しくても仕事だと邪険に扱われた記憶だ。妹が同じ目に遭わないだけでも僥倖だ。
それが本当に仕事だというなら我慢もしようが、我がトライシオン公爵家の金を使い女遊びに興じていたというのだから、笑うしかない。婿の分際で!」
そうだ。
サウロは、アリアドナの婿だった。
アリアドナこそが、このトライシオン公爵の唯一の後継者。弱小子爵家出身のサウロとの結婚を周囲に反対されたが、説得してやっと結婚したのだ。
だが結婚後すぐにダミアンが生まれた。
領地経営や社交に忙しかったアリアドナは、さらに息子に時間を取られた。夫であるサウロに構う時間がなくなった。
だから彼は、自分の寂しさを紛らわすため外に愛人を作ったのだ……。
「アリアドナは、どうして死んだ? 事故か? 病気だったのか?」
(十五年ものあいだ、俺の帰りを待っていたんだろう? 愛しいアリアドナ。唯一俺が本気で愛した女。きみはなぜ死んでしまったんだ?)
動揺しながらのサウロの問いに、トライシオンの若き当主は冷たい目で彼を睥睨した。
「そんなこと知ってどうする? 名無し人よ。ここに入ってきて、セルバンテスに訊いたのだろう? “どこの教会だ?”と。
俺の記憶が正しければ六歳のころ……まだ父親が屋敷に居たころに、じいさまの葬式があったが……十六年もまえになるか。
我がトライシオン公爵家が代々葬られる教会を知らないなんて、トライシオンを名乗る人間にはあり得ない……いや、あのときも、葬儀に父親は列席していなかったような……俺は乳母に手を引かれて、泣きじゃくる母の背中を見ていた記憶がある。母を慰める男は……いなかったな。母は一人で耐えていた……なるほど。奴が失踪したのは十五年まえだが、十六年まえからあの男はトライシオンの人間では無かったのだな」
サウロは遠い記憶を探って思い出した。
アリアドナの父。前公爵……そうだ、突然の病で死んだのだ。
サウロはそのとき懇意にしていた女のもとにいた。前公爵の葬儀に間に合わなかった。
彼は王都にいて、公爵が葬られたのは広大なトライシオンの領地のどこかの地方……だったはずだ……。領地経営などすべてアリアドナの指揮下だった。サウロはどこになにがあるのか、なにも知らない。
「母の死因より母の悪癖の方が、聞いておく価値のある情報だと思うが……」
「悪癖?」
ダミアンはシガレットケースから煙草を取り出すと口に咥えた。傍らに控えたセルバンテスがすかさずマッチの火を彼に差し出す。
独特な香りの紫煙が立ち上った。
「悪趣味だと注意をしたのだが、仕返しだと嗤ってたな。
なんでも、自分の夫がなにも知らない女性を騙していたのがヒントになった、とかで……。商売女に金を渡して、とある男にワザと近づき、男女の仲になれと命じるんだ。そのターゲットにしたとある男に、次はブロンドの女性を宛がおうか、青い瞳の美しい女性にしようかと、愉しそうだった。……歪んだ愉しみだな」
(……なんだって?)
「自分の魅力で口説き落とした女と一緒にいる気で、実のところすべて仕事で惚れたフリをしている女性とともにいる気持ちって、どんな気持ちなんだろうなぁ?」
話は終わりだと立ち上がったダミアンは、もうサウロを見ようとしなかった。吸っていた煙草をセルバンテスが構えていた灰皿に入れると、颯爽と応接室を出ていった。
(……どういうことだ?)
この十五年間、サウロとともに過ごした女は次々と代わった。あの女たちは、みんなアリアドナの指示を受け彼と付き合っていたというのか? 仕事だったというのか?
飄々とした顔をしたセルバンテスがサウロに近づき、慇懃無礼に告げた。
「最後にご忠告申し上げます。もうアリアドナ女公爵はおりません。“アリアドナ・トライシオン”名義での買い物は不可能だとご承知ください。もういない人間名義の買い物を受け入れる商会はございません。現当主ダミアンさまのお名を使ったら、憲兵に引っ立てられるお覚悟でお願いいたします」
「なんだって? 俺は、ダミアンの実の父親なんだぞ?」
「あなた様がそうだと、どのように証明されるので? ご当主さまの実の父君はもう死亡届が提出されていると、さきほどご説明があったばかりだと存じますが? いや、あれは“ひとりごと”でございましたか……それと……アリアドナさまの“最後の悪癖”は、“アリアドナ・トライシオンの死”を彼女の最後の依頼請負人へ知らせること、でございました」
家にある金目のもの、ご同居人がすべてお持ちになり……いっさいがっさいすべて無くなっているかもしれませんなぁ?
笑顔の老家令が語った内容に、サウロは焦って公爵邸を飛び出した。
走って、走って、走った先にある、サウロの住んでいる下町の安アパート。
中はもぬけのカラだった。何年かまえに買った絵画も、女に買ってやった貴金属類も、当面の金も、全部無くなっていた。
リタもアリアドナの依頼を受け、彼と生活していた人間だったのだ。
妻の訃報を聞いて、なにもかもを一度に無くした。
公爵邸を出奔したときは、まだ二十九歳だった。
だがあれから十五年。セルバンテスが言ってたように、身体にはだいぶ贅肉がついた。容色も衰えた。女は向こうから来るものだった彼に、今でも女を口説けるのか解らない。
実家の子爵家は、ここ十五年のうちに、いつの間にか爵位返上し行方不明になっている。もしかしたらトライシオン公爵家によって取り潰されたのかもしれない。
唯一愛した女はどこにもいない。
さらには、自分の貴族戸籍までも。
彼は今後どうしたらいいのか。
この悲しみも、この怒りや憤りも、この遣る瀬無さも
全部、どこにぶつければいいのだろうか。
サウロは今後どうしたらいいのか解らず、呆然と途方に暮れるしかなかった。
☆
☆
☆
「セルバンテス」
「はい、閣下」
「今日のこと、母上に知らせるか?」
「一部始終を余さずご報告する所存ですが」
「そうか……これで母上の溜飲が下がると良いのだがな」
「閣下の溜飲は、下がりましたか?」
老家令の質問に、若き公爵は片方の唇の端をあげて笑った。
「あいつの絶望の表情を見ることができた。少しだけ、恨みを晴らした気になったな」
幼いころ。父の足元に駆け寄り、そのたびに暴言とともに蹴られそうになったことが忘れられなかった。彼には彼なりの思いがあった。
執務机に座り、手紙類を検分し始める。
「母上からの手紙は? いつ旅行から帰って来るのだ?」
「さて。やっと隠居したのだから、エリカさまと“気侭な母娘二人旅を堪能する”とのことでしたので、いつお戻りになるのやら……」
「まぁ、気晴らしになるなら、それもいいだろう」
ダミアンが家督を継いだあと、帳簿を見ていたら信じられない名目の使途不明金が出てきて母を問い詰めた。そのとき母は、ぽつりと呟いた。
『あらやだ。すっかり忘れていたわ』
本当に忘れていたのか、息子の手前そう言ったのか、それは解らない。
だが、『そろそろ最後の仕上げね』と言って行った、元夫を切り捨てるための一連の作業は、なかなか手が込んでいると思う。
ダミアンは自分の母親が、なにを思って十五年もかけて夫を捨てたのか理解に苦しんだ。
だが男と女の間には、息子といえど第三者には理解できないなにかがあるのだろうと、不承不承納得したのだった。
【END】
信じられない名目の使途不明金
→『S氏・閨 外注』という名目でした。