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浴室に行くと、水を抜いてあるバスタブがあった。
上背のある師匠が足を伸ばしてゆったりと入れるほどの大きなバスタブだ。
以前ティグルと一緒に入っていた時も問題なかったくらいである。最近は滅多に一緒に入らなくなったので分からないが、多分まだ大丈夫だ。
師匠は置いてある洗剤やブラシには目もくれずバスタブへと近付いた。
ツイと挙げた指先でさっと何かを書くと、空中に光の文字が浮き出た。バスタブの汚れが一瞬で消えてしまった。
もう一度何かを書くと、栓がされ、渦のように湧き出たお湯が一瞬で溜まった。
「よし、これで完了だな」
あっという間である。
ティグルもこれと同じようにするのだが、倍の倍の倍は掛かってしまう。
どうしても落ちなかった汚れは結局洗剤で洗うことになるし、お湯の温度が十分でなければお湯を足すことになる。
もしかしたら普通に洗った方が早いのだろうが、魔術の練習を兼ねているのでこれを毎日繰り返している。
魔術は誰しもが使える訳ではない。
才能があれば誰でも使えるとも言えるが、師匠が書いたように文字を使う者もいるし、絵のようなものを描く者もいる。
文字が上手く書けない、絵に心がこもってないなど発動しない条件がいくつかあるのだ。
高度な魔術ほどより複雑な術式も必要になる。
魔術にも色々あって、こうした生活の上でのものから飛行術、攻撃術、回復術に解毒術。他にも色んなことができるのが魔術なのだ。もちろん得意不得意はあるが、師匠はある程度なんでもできた。
仕事に必要だったからだ。
ちなみに、師匠の言った“奥の手”とは、この魔術での消臭だった。
身近にそんな存在がいるせいで、ティグルは努力を欠かさない。
そんな弟子を見ていくうちに良くないとは思いながらも情が移ってしまったのも仕方がないだろう。師弟の関係でありながら、家族のような関係にもなっている今は存外心地のいいものだ。
ティグルは師匠に恋人もできないことを心配してくるが、本人は大して気にしていなかった。運を天に任せているなんて言うのだ。
しかし、こんな生活をしている自分を理解してくれて、傍にいてくれる存在が現れることは天文学的確率だろうな、なんて言うのは、諦めているとも取れるのだから、心配せずにはいられないティグルだった。
*
「ああぁぁぁあっ! なんって可愛らしいんだっ! なんなのだ! うちの娘は天使か!? 妖精か!?」
店内に響く声は昨日完成したドレスの依頼主だ。
その娘も同伴しており、完成品に袖を通してお披露目したところで、依頼主は膝を付いて天を仰いでいた。
少女が動けば、たっぷり使ったはずのフリルがヒラリと軽く動く。
どうやったらあのように縫製することができるのか。
淡い黄色に青の刺繍が映えて元々の少女の愛らしさが増し増しになっている。
「すっごく素敵です! ありがとうございます! ほら、お父様もちゃんとお礼を伝えてくださいな!」
「あ、ああ。シューゼルさん、このように素晴らしいドレスをこんなに早く仕上げてくれて本当にありがとう! こんなっ…こんなに可愛らしくては……人前に出したくないぃっ」
「もうっ! お父様!?」
祈りを捧げている父親を放置して娘が師匠へと礼を述べる。小さいのにしっかりした少女だ。親がこうだからこう育ったのだろうか。
窘められた父親は、打って変わって真面目な顔をして感謝するも、娘を抱き締めて泣き出した。
この分だと、父親がごねてごねてごねまくった後に娘から(もしかしたら彼の奥さんからも)一言二言貰い、結局ドレスを着て行くことを認めることになるのだろう。
せっかく師匠がパーティーに行くこの娘のために作ったものなのだからそうして貰わねば困るとティグルは眉根と唇をつり上げていた。
気付いた師匠が自分の眉根をトントンと叩いて笑った。
そして、後れ馳せながら店主であり、師匠である彼の名前はシューゼルと言う。
フルネームはシューゼル・アドミレイル。このアドミレイル侯爵領の子息、次男坊であるが、ここではただのシューゼルとして生活しているため、その正体を知るものはごく限られた一部の者しかいない。
貴族であるシューゼルが街に下りて生活するのに心配なのは食事と睡眠だけで、時折家の誰かが客に扮して様子を見に来ている。様子を見に来ているのか、注文にきているのか怪しいところではある。
もちろん、そうして様子を見に来ているのだからいつの間にか転がり込んだティグルとも面識があり、来る度に菓子の一つでも持ってくるようになるほど、可愛がってはくれている。
シューゼルよりもしっかりしてると頼りにされているようだ。
夕方、陽も暮れた頃に閉店の準備をし始めた。シューゼルが店内の片付けをしていると、外を片付けていたティグルのぎゃあっという悲鳴が聞こえてきた。
「しっ、ししししし、師匠! くっ、くっ、蜘蛛!」
駆け込んで来たティグルに、蜘蛛ぐらいでなんで悲鳴を上げるんだと呆れた顔をすれば、考えを察したティグルが、違いますよぉっ! と情けない声で否定した。
「こんばんは。申し訳ありませんが、今日はもう閉店時間でして…」
「ここが、仕立て屋? 服、作って欲しい」
「……おや」
入り口に気配を感じて見れば、女性がドアに手を掛けてこちらを覗いていた。また後日来てくださいと声を掛ければ、聞いていないのかキョロキョロと店内を見回しながら入ってきた。
コツコツと複数の足音を立てて入ってくるその体は―――蜘蛛だった。
〈アラクネ〉
上半身が人間の女性で、下半身が蜘蛛の体を持つ魔族だ。
美しい女性の姿を人前に晒し、誘惑して、近付いてきた者を蜘蛛の糸で絡め取って食べてしまうと言われている。
確かに女性の姿は美しく、儚さもあり、それでいて扇情的だ。
正体を知らない者に守りたい、近付きたいと思わせる魅力を持っているようだが……その下半身は大きな蜘蛛そのもので4対の脚が生えていて異形だと分かる。
蜘蛛の体に女の上半身が乗っているような形だ。
蜘蛛の部分に鋏角と触肢部分が見当たらないことから、恐らく女の口と手がその代わりだと判断した。
「ティグル、彼女は蜘蛛じゃなくてアラクネという蜘蛛の魔族だ」
「へえ、そうなんですね。って、やっぱり蜘蛛じゃないですか!」
「ティグル、どうやら彼女は帰るつもりはなさそうですよ」
「あなたが、服作る?」
「はい。この“仕立て屋”の店主で、縫製を担当しておりますシューゼルと申します」
「シューゼル、私の服、作って。ラミア、ふわふわの服着てた。似合ってた。とても。ここで作って、もらったって」
「ラミアさん? ああ、確かに少し前にご依頼をいただきお作りしましたね」
肌寒くなってきた今よりも少し前、暖かい服を作って欲しいと来店してきたのが、彼女の言うラミアだ。
寒くなってくれば、凍えて動けない日々が続いて困るのだと言っていた。
そんな彼女には、特別暖かな服を作っていた。
〈ラミア〉
上半身が人間の女性で、下半身が蛇の体を持つ魔族。
アラクネの同様に、美しい女性の体で人間の男を誘惑し、丸呑みしてしまうと言われている。
ラミアはアラクネのような儚さは持ち合わせていないが、妖艶で官能的だった。
ティグルは彼女を見てただ固まっていた。まるで蛇に睨まれた蛙のようだと言ったら怒られた。
ラミアに似合う暖かな服を作るのに、大変な思いをしたのをティグルは忘れてはいない。
そして、魔族と言えどそんな妖艶な女性を前にしても、シューゼルが平然としていたことも。
アラクネを前にしてもそれは変わらない。
「うちの師匠に春が来ることはあるのかしら」
「何か言ったかティグル?」
「いいえっ、何も!」
「だから、私にも、作って!」
両手を合わせて懇願するようなアラクネを見れば、割りと綺麗めの衣服を着ている。
まるで少女のような可憐な服だ。
あれで人間を騙すのかと思えば、師匠が新しく作るなんて止めてほしいなぁ、なんて思ったりもしてしまう。