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店内を通って作業場へと入れば、先日娘の誕生日にと依頼されたドレスの縫製を無心に進めている男が目に入った。少年の師匠である。
少年は声を掛けるでもなく、ただ邪魔にならない程度に近くに椅子を置いて見守った。
今作っているドレスを依頼された当初は、師匠はすぐには承諾しなかった。
依頼主である父親のみが来店したからだ。
師匠は毎回、本人を見ないと作れないと言って依頼を断る。内緒でプレゼントを企てても師匠の否でおじゃんになるのだ。
店主の態度に憤って酷い言葉を吐いて出ていくものもあるが、中にはそれならば仕方がないと対象の者を連れてくる者もあった。
今回の依頼主もそうで、どうしても可愛い娘のために娘が一番輝くようなドレスを作ってやりたいと願ったのだ。それであれば、自分のサプライズなど諦めるなんて些末なことだと。
そういった客ばかりであったなら、この店も繁盛して懐も十分に潤っていただろう。
まあ無いものは無いので諦めている。
師匠には伴侶はいない。…と思う。
少年が師匠の元に転がり込んできてから今までそのような相手に会ったこともなければ、会話の中に出てきたこともない。
仕立て屋を営んでいるので、見た目だけは整えている目の前の男は容姿も悪くない。むしろ男である少年からしても良い方だと思える。
嫁がいれば、少年の――まるで家政婦のような――仕事も減るのだろうが、これもいないものはいないので仕方がない。
作業中のこの真剣な表情や、完成した時に見せる微笑みを見ればどんな女でもイチコロなのに、作業場には関係者以外を一切入れることはない。
本当に勿体ない。
ドレスの最終確認をし始めた師匠と同じく、その手元をじっと見つめる。
時々、チェックしてみろと渡される衣服のどこをどうチェックするかは、こうやって見て覚えなければならない。
こうしてチェックを必ずする師匠だが、少年の知る限りではやり直したことは一度もない。
そして、その出来に苦情や不満が来たことも。
きっと、このドレスも喜んでもらえるのだろう。
作業中には必ず掛けるモノクルに手をやると、ふっと小さく溜め息を漏らしつつ、作業台の上に置いた。
出来上がったドレスをトルソーに着せたところで、やっと師匠が少年を見た。
「ティグル、帰っていたのか。声を掛けてくれれば良かったのに」
「朝から洗濯も掃除もして、買い物に行って夕飯の仕込みも終えて、なんなら道具の手入れも終わって、師匠がそこのフリルをつけ始めた辺りからずーっと見学してたとこです」
声を掛けたところで、反応がないのはもう分かっているので、あなたが作業に没頭している間にこんなに家のことを終わらせたんだぞと告げる。
街の者が聞けば、やっぱりかと憤慨しただろう。
しかしティグルにとってはなんてことのないことばかりだったし、師匠に任せればもっと大変なことになるのだ。
「そうか、すまなかったな。やり始めると手の休めどころが分からなくてな」
「分かってますよぅ。師匠がそれだけお客さんのことを考えているのも、朝からずーーっと食事をしていないことも。はい、昨日の残り物のサラダをパンに挟んだだけのものですけど、夕食までの気休めにでも食べてください」
「ああ…そうか。ありがとう」
ティグルと呼ばれた少年がサンドイッチを差し出せば、忘れていたとばかりに空を見つめて、ヘラリと笑って口に運んだ。
大きくはないパンだが、それを一口で含むと、リスのように頬を膨らませて食べる。その姿が残念なような、可愛らしく見えなくもないというか。
「口に入れすぎですよ…」
注意しながらトルソーへ近付いて完成品を観察する。
朝早くに起きて始めたドレス作りが、陽の沈む前にもう完成している。
しかも襟元のレースも裾のレースもこの師匠が手ずから編んだもののようだ。既製品ではないのに細かく繊細に出来ていて、先日会った依頼人の娘の愛らしさを存分に引き立てること間違いなしだと思った。
「はぁ。やっぱり師匠はすごいなぁ…僕も早くこんなことができるようになりたい」
「お前はまずは雑巾をまっすぐ縫うところからできるようになるんだな」
夢見るようなティグルに、師匠は呆気なく現実を突き付け引き戻す。
「むぅぅぅ…。僕にだってできることはあるんですよぅ」
「家事は俺よりできるな」
「そういうことじゃなくてぇっ!」
「今日の夕飯はなんだ?」
「話変えないでくださいよぉぉっ! メンチカツですぅ!」
律儀に答えてくれる辺り、素直なヤツだと師匠は笑った。
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続きはまた明日です。