軋む車輪に星が降る
五月の風が通る頃、山路の茶畑は柔らかく芽吹く。新緑は山も集落も一緒に包む勢い。ところどころ山藤が、翡翠色の山肌に薄紫を添えていた。
私は、通学路から少し逸れた公園にあるクロガネモチの木を日傘がわりに、その根元近くの座り心地の良い石に腰を下ろして中原中也詩集を開いていた。詩集の中でも特に『山羊の歌』に入っている『木蔭』という詩が好きで、五百ページくらいある詩集のその場所だけはパッと開く事ができる。
『木蔭』に出てくる、中也が言う「後悔」の本来の意味にたどり着くことは容易ではないけれど、一連と四連の情景は、静かな戦場に似た学校で生きる私を慰めてくれているようで、まず始めにそこを開いて言葉を染み込ませるのだった。
本来、学ぶ目的で開かれているはずの学校は、ざっと見渡しただけでも、駆け引きや無垢な悪意に満ちていた。私はそういう感情に晒される事は避けたかった。だから高校入学早々、戦場では重要な人間関係作りの競り合いから抜けて、二学年に上がった現在まで、屍よろしく教室の隅に打ち捨てられていた。
それでも授業を受けるには困らないし、班行動などの場合は頭数という意味でどこかには加わっている。参戦すらしない私を叩き潰そうとするような物好きは、幸運なことに私のクラスにはいなかった。表面を繕うことは、相手も自分もできる年になっている。校舎に流れる泥水のような感情たちを見ぬふりしてやり過ごしさえすれば、私の日常は非常に穏やかだった、最近までは。
今日何度目かの、中也の書いた「後悔」を噛みしめた時だった。この場所に通じる道で、石くれがキュイっと鳴った。
ああ、彼女の足音だ、と思うと心に緊張が走る。
足音は私のすぐ近くで止まった。更にその足音の主は、私が座る石に背を預けて、地べたに直接座り込んだ。チラリと視線を斜め下に動かすと、さらさらとしたショートヘアが見えて、やはり彼女である事を認識せざるを得なかった。
ため息を飲み混んで、文字に視線を戻す。でも、生き生きと感じられていた、神社の鳥居も、夏が作る濃い陰影も姿を消して、中也の詩は、ただ紙の上にインクで書いた模様にしか見えなくなった。
そうなってしまったのを見透かしたようなタイミングで、麻ちゃん、と彼女は馴れ馴れしく私の名前を呼んだ。なあに、と数秒迷ってから返事をする。か細くも飴のような声で。
彼女はその空白の数秒が嬉しいのだと言わんばかりに、座った位置を少しずらして、制服のスカートから出た私の足に体重を傾けた。彼女のプリーツが砕ける、パリンと音もさせずに。
「ねえ、いつもみたいに読んでよ。サーカス」
猫がねだるように、彼女は私と触れたところを、少し擦り付けてくる。いつもみたいに、と彼女が言ったけれど、私と彼女のこういう関係は、つい三週間くらい前のクラス替えからだ。しかも彼女の方が一方的に押しかけてくる、私にとって迷惑なもの。
しかし、教室隅の屍である私に、彼女からの干渉をうまくすり抜ける術など備わっていようはずがない。仕方なくページを繰って、詩集最初の方にある『サーカス』を開いた。それを声に出して読む私の耳には、足元に座る彼女の「麻ちゃん」という声が染みついている。
彼女、坂本生成は目を閉じて、時折空気の音がするくらいしっかりと、鼻から息を吸っていた。この詩は、彼女のイメージの中ではサーカス小屋の裏手に海があって、潮の香りがするらしい。それで、こうやってありもしない匂いを嗅ぐのだと説明を受けた。
自分で読めばいいのに。
「麻ちゃんの『ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん』ってとこ。聴くの好き」
私が読み終わると、彼女は嬉しそうに、そして無遠慮に、私の膝に頭をコテリとのせてくる。私は少し顔をしかめて、文庫を彼女の頭から守るようにさっと避けた。
「読みにくいんだけど」
不服を申し立てると、気にしないで、と軽く返される。私だけの世界に、無遠慮に上がり込んでくる彼女。当然、私はそれを良く思っていない。陰鬱な気持ちになったけれど、項垂れると彼女が視界に映り込む。仕方なく私は、クロガネモチの枝葉を仰いだ。
二学年に上がってから、彼女と同じクラスになった。一学年の時にはクラス委員の経歴を持つ彼女は、この戦場の中でもうまく立ち回っている印象だった。それがなぜか、クラスが同じになった途端、急に私なんかに近づいてくるものだから、当然のように私は身構えた。
学校にいる時には、彼女の態度は目立って私に向いてはいない。誰とでも分け隔てなく、を素で実践できる稀有な人。それが放課後になると、私の通学路にあるこの場所へ、わざわざ立ち寄るようになっている。ずっと見つかることのなかったここが突然暴かれてしまったことは、悲しかった。救いは、もう直ぐゴールデンウィークに入るという事。少し長めの休暇をはさめば、彼女の気まぐれも収まるに違いない。
そう思ったのに。
「ゴールデンウィーク、麻ちゃんはどこかに出かける予定、ある?」
考えを読まれているのかと、一瞬どきりとした。何気ないその声色は計算されたものなのか、それとも。
少し考えて私は、特に何もないと答えた。
毎年この時期は、田んぼの準備や茶摘みで忙しい。家族総出の農作業。名古屋の大学に進学した兄は今年は帰省しないと聞いたし、私が手伝わないわけにはいかないだろう。
「うち、その時期は毎年、忙しいから」
私がそういうと、
「じゃあ、夜に遊ぼう」
優等生らしからぬ誘い文句を、彼女は切り出したのだった。
ゴールデンウィーク後半の晴天の日。彼女からメールがきた。送り主に「坂本生成」と表示されていて、私は昼過ぎから憂鬱な気持ちを抱えた。
夜。あたりがすっかり暗くなった七時頃。
家まで私を誘いにきた彼女は、母に模範的に思える挨拶をした。夜に出かけるということに、すんなりと母の許可が下りたと感じていたのだが、彼女の母とうちの母が昔からの知り合いだったらしい。生成ちゃんと友達になったの、なら安心ね。という母の誤解を解くこともできずに、彼女からの約束だけを宙ぶらりんに下げて、私は今日を迎えてしまった。
一緒に星を見たいから、というおおよそ昨今の高校生らしからぬ名目で、私たちはうちを出た。
低木の茶畑ばかりが広がる近所は、特別に出かけなくても、どこからでも星はよく見えた。農道をぶらぶらと歩きながら、彼女は、
「麻ちゃん、せっかくだし手を繋ごう」
と言った。友達と手を繋いだのなんて、遠い昔の記憶になっている。小学生、それも低学年までではないだろうか。彼女の顔と自分の手を、暗い中で見比べていると、ほら、と彼女に私が持ち上げていた右手を繋がれる。
「こどもみたい」
「そんなことないよ」
そう言って彼女は笑った。
私たちは、遊具も何もない公園に着いた。木のベンチとか、芝生とか。そういうものがあるだけの場所。街灯もないのに、星明かりだけで周りはよく見えた。
すわろっか、と彼女はそのまま芝生に腰を下ろした。私も彼女の隣に座った。満天の星空と、山を越えたところにある都会の街明かり。農道近くに通る国道からは、大型トラックが走っていく音が聞こえてくる。
「案外、ロマンチックじゃない」
上を見上げて彼女が言ったけれど、あまり不服そうではなかった。
彼女のことは嫌いではないけれど、緊張は残る。空を見上げながら、星座のことなんて全然わからなくて、私は何を話したらいいのか、考え続けた。
私も含めみんなが、学校の部品なのだとしたら、私はあきらかにそれに不調をきたす不良品だと思う。彼女はきっと、こんな時でも緊張しないし、自然に振る舞える人なのだろうけれど、私はそうではない。一生懸命やってもうまく行かない。彼女がなぜ、こんな私と星を見に出かけたかったのか。だんだん、星空よりも苦い気持ちの方が勝ってくる。
「でもまあ、見えるか」
ずっと空を見上げていた彼女は、そう言って、芝生にばたりと倒れた。
「何が」
「春の大三角形と北斗七星」
彼女が寝転んだせいで、地面の方から彼女の声がした。
「麻ちゃんも、こうやればよく見えるよ」
顔を見たわけではないのに、彼女がニヤッとしたのが分かった気がした。誘われるまま私も芝生にゴロンと体を倒すと、さっきまでより天球が近く見えた。でも、体を倒したことで、私は違うことを思い出した。
天敵に襲われたら、しんだふり。
それで、私は納得した。私にとって彼女は天敵なのだと。
特に目立った攻撃をされたわけではないけれど、私の居場所に何かの目的で入ってくる。捕食者の意図なんてこっちには分かるわけもないのだから、被食者はなんらかの回避行動を取るしかない。私の今のこれは、死んだフリに似ている。そう思ったらちょっと気が楽になった。
隣に寝転んでいる彼女は生きていて、私は死んだフリ。フリだから生きているのだけれど、これからも生き続ける彼女と、今後の生死が定かではない私と。並んだ私たちの隔たりは、なかなかのものだと思っていたら、麻ちゃん、と彼女が私を呼んだ。
答えるべきか、いや、死んだフリなのだから、目でも閉じていよう。
星空も消して、私はトラックの走行音だけを拾った。そうしていたら、彼女がもう一度、
「麻ちゃん」
かなりハッキリと私のことを呼んだ。それでも答えなかったら、隣で彼女が体を起こした。呆れて帰っちゃうのかな。私がそう思ったら、私の額にゴツンと硬くて同じくらいの温度のものが当たった。目を開いても、星空は見えなかった。代わりに、とっても近くに彼女がいた。
「麻ちゃんが好き」
彼女の声は今までにないくらいに震えていた。
「私は、坂本さんのこと、好きでも嫌いでもないよ」
「知ってる。キスしていい」
「やだ」
なんとなくそう言わなきゃダメかなと思って拒否したら、彼女は苦笑して、もう一度隣に寝転んだ。
「変だと思う?」
彼女に聞かれて、ううん。と答えた。
「だって私も変だから。今、坂本さんのこと苦手だなと思って、死んだフリしてた」
そう言ったら、彼女はトラックの音よりも大きな声で笑った。こんな風にも笑える人なんだ、と思うとなんだか安心した。
「麻ちゃんのそういうところ、好き」
ひとしきり笑って、彼女はそう言った。
「私はまだ、坂本さんのことなんだか苦手」
これを伝えても大丈夫だと思えて、私は彼女にはっきりと答えた。
「じゃあ、まずは苦手を普通にするところからかな」
「そうだね。たぶん、友達にはなれるんじゃないかな」
目の前には、さっきまでよりも綺麗な星空がうつっていた。