夜、月を眺め
私は退屈していた。
人は私を讃えたし、私への畏敬の念が揺らぐことは無かった。でも私は、神と呼ばれようと、それに対して嬉しいなんて思ったことがない。
つまり私は——人を見守る日々に飽きていた、のだろう。
○
ある日、私は興味深いものを見つけた。それは、とある街の、とある湖の水辺に座っていた。
空には、もう少しで満月になるだろう、殆ど満ちた月が浮かんでいる。月は大地をこうこうと照らす。水面はきらきらと光を反射していた。
寄せては返す波音が、耳に心地いい。
「やあ。そんなため息をついて、どうしたのかね、若者よ」
私は、水辺に座りこむ青年に話しかけた。小さく呟いたくらいのつもりでいたが、その台詞は、夜の闇に驚くほどよく響いた。
青年は、声をかけた後もしばらく黙って、ただ虚空を見つめていた。目線の先には、月がある。どうやら、月を見ているらしかった。
彼の目には、月が映っている。
彼は私の方を一瞥もすることなく、俺は……と、掠れて消えそうな声で答えた。
しっかりと、確かめるように、ゆっくり話し始めた。
「俺はそこの教会を借りて、子供達に勉強を教える教師をしているんですがね、最近、国から『指導だ』とか言って、教える内容に口出しされてるんですよ。……なんだったかな、たしか、国の歴史を捏造して教えろ、みたいなクソ役人が来てね、無理やり偽の歴史を習わせようとしてるんです」
「そんなもの、断って仕舞えばいいのではないか?」
「いや、俺が言う通りにしないとこの街の税金がどうのこうのほざきやがった。街人質に取られちゃもう抵抗なんて無理ですよ。子供達には正史を教えたいのになぁ……。はぁ、こんな愚痴を言うことしか出来ないなんて、俺は情けねぇなあ」
「気に病むことはあるまいよ。とはいえ、この国はそんなに酷い状況なのか。知らなかった」
「そうさ、腐ってるんだ、この国は」
「国をどうにかして変えられないのかね?」
私がそんな提案を持ちかけてみると、大して考えた風でもなく
「変える、か。いいんじゃないですか。革命でも起こしてやれば、奴らも変わるだろうし」
本気ではなさそうだった。なんとなく言ってみただけだろう。
それから、一刻ほど話した。
気も紛れたし、そろそろ天へ帰ろう。
俺は立ち上がって、光る水面を見ながら、大きく伸びをした。
「あ、もう帰りますか。ありがとうございます、こんな話に付き合ってくれて。俺はまだ、ここで波の音でも聴いてます」
彼は、遠くを眺めたまま、私を見送った。
○
次の日も彼はそこにいた。相変わらず月を見ていた。
「こんばんは。今日もいい天気ですな」
私はそういいながら、夜空を見上げた。いくつか雲が流れていて、星々がささやかに、そして柔らかく光っていた。
「ですね」
彼は簡潔に答えて、口を閉じた。
昨日と同じように、彼は少しの間言葉を発さなかった。
「…………今日も、ここに来てしまいました」
「嫌なことでも?」
「まあ、少し。今日は……」
彼は言いにくそうにしていた。
少し待つと、彼はその重い口を開いた。
「今日は、教えている子の親が文句を言いに来たんです。自慢じゃないですが、俺は教師として優秀だと評判で、身分の高い家の子供も習いに来るんです。でも、私は無償で教育しているものですから、そんなに身分の良くない子も習いに来ているんです。それが気に入らないとかで、高い身分の子の親が、身分の良くない子供を教えるな、とか言ってきたんですね。それが、嫌で嫌で、つい、ここに来てしまったんです」
「そんなことがあったのですか。とんでもない人間がいるものですなあ。なっておらん。向こうにも、事情はあるのでしょうがね、それでも良くないことだ」
「まあそんなもんですよ、貴族なんて。彼らの子供は、これ以上ないくらい純真ですのに、親どもは心が汚いんです」
「なぜ、大人になる途中で性格が歪んでしまうのでしょうな」
「金に関わるとそうなってしまうのですかねぇ。いやはや、今俺が教えている子供達だけでも、真っ直ぐ育って欲しいものです」
そんな風にして、私たちは明朝まで語り明かした。
束の間の、楽しい時間だった。
○
水辺に来て青年と話す。それは一年程続いた。
言葉を交わし、時に彼の過激な物言いをいさめ、時に彼の思想から刺激を受けた。その時間は、私が唯一『生きている』と感じられる、なによりも大切な時間だった。
ある日、とある街の、とある湖の水辺に、青年が来なくなった。
最初は、生活が充実しているのかもしれない、と思った。それとも忙しいから来れないのかもしれない、と、基本的には前向きに捉えようとした。
しかし、彼は、いつまでも来ない。
曇りの日も、晴れの日も、満月の日も。果てには、雨の日にも、濡れねずみのようになることを覚悟して来てみたが、結局彼は来なかった。
水辺に腰を下ろし、一人で青年を待つ。
——そんな時は、決まって耳を澄まし、夜の音を聴いた。
波が寄せては返す。寄ってきては去ってゆく。
水辺で虫が鈴の音のような音で鳴く。
森の方から、フクロウの鳴き声が聞こえる。洞穴を通り抜ける風のような、どこか寂しさを含んだような切ない鳴き声だった。
○
彼が来なくなって一ヶ月が経った。
今日は風が強い。
私がいつものように水辺に座り、星の縫い付けられた、透き通るような夜空を眺めていたら、
「あの、すみません。いつも主人とお話ししてくれていたかたですか?」
と声を掛けられた。
後ろを見ると、若い女性が困った顔でこちらを見ていた。
女性が続けて「あの……」と再度言い掛けたから、私は慌てて答えた。
「ああ、あの青年はあなたのご主人なのですか。それなら、そうです。彼とは毎晩話しています。ここ一ヶ月くらいあっていないが、忙しいだけなんですかね?」
「いえ、その」
「うん?」
女性は、苦しそうな表情を浮かべて、喉元まで来た台詞を、言うか呑み込むかで悩んでいるらしかった。
あまりにも苦しそうだから促してやった。
「どうしたのかね。言うなら言ってくれ。気になってしょうがない」
女性は意を決して言った。
「主人は、一ヶ月前に亡くなりました。本当は、すぐにお伝えすべきかとも思ったのですが、心苦しくて……」
彼が、亡くなった? なぜ? 何故だ? 彼は若かったではないか。おかしい、明らかにおかしい。
「な訳がないだろう! 彼はあんなに若かったじゃないか!」
「うぅ、すみません。主人は盗人に会い、それを止めようとして殺されたんです。盗人はもう捕まりましたけど、主人はもういないんです、亡くなったんです」
「そんな——嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。なんで、私よりもよっぽど若かったのに死ぬなんて、そんなことが起こるなんて」
神であっても、人の生死を操る権限は無い。こればかりはどうしようもない。
彼は、すでにこの世へ戻って来られない死者になってしまった。彼に会うことは叶わなくなった。
波の音。
虫が鳴き。
草が揺れて。
夜の鳥が鳴く。
風が轟々と吹く。
蝶の羽ばたく音も。
ぽたりと雫が落ちて。
静けさという音もする。
目からは涙が溢れ出した。
気づけば女性はいなくなっている。
涙が頬を伝って流れ、地面に落ちた。
水面がぼやけて見える。というか水面が光っていない。なぜだろう。
そうだ。そういえば今日は。
新月だった。真っ暗だ。
夜空の星しか光るものがない。しかも、いまはそれでさえも揺らめいて見える。確実なものは何もなかった。ゆらゆら、世界が歪んでいる。
世界は闇に包まれたも同然だ。先が見えない。もう生きていける気がしない。私は死んだまま、生きている振りもせず、つまらない日々を過ごすだろう。そのような未来しか想像できない。否——そういう未来しか無い。いま、可能性は綴じた。これ以上の発展は望めない。私にとって、全てのものが無価値になった。
胸に大きな穴がぽっかり空いたみたいだ。
私には何も無い。
○
「こんなことなら、彼と会わなければ良かったのに」
と言ってみた。
無理に言い切ったけれど、全くそうは思えなかった。
三日月はぼんやりとした光を出し、地上をうっすらと照らした。
「神の力なんて要らない。不死身だなんて、冗談だろ?」
波風が強くなる。波音も大きくなる
「できることなら、私も死者の世界に行きたいよ……」
波は、寄せては返し、友は去る。
フルート協奏曲の『夜』という作品をイメージして作りました。聞いてみてください。よりこの作品の世界をイメージできると思います。