3.実験当日の朝
「起きて、起きて下さい旦那様! いい加減起きないと間に合わないですよ!」
「……あぁ、今起きる……」
春の風が過ぎ去っていく頃の朝。
小鳥達の美しい歌声が王都郊外の住宅地に鳴り渡る。
寝室の僅かに開いた窓からは風が何処からかの花の香りをのせて室内を巡って行き、朝の訪れを静かに報せた。
しかし今はそのような些細な心を華やかせることでさえ、私を誘惑してくる眠気の前では、この耳と鼻が邪魔者として捉え鬱陶しく感じさせられた。
昨晩は徹夜で新しい研究と実験の論述を纏めていた為、ベットに潜り込んだのはほんの2、3時間前くらい前なのだ。
そのため瞼を開けるのさえ億劫なほどにひどく眠い。
小鳥とは別の、室内から聞こえる鈴の音のような透明な声が意識を揺らす。
しかし、意識はともかくもそれに身体はピクリとも反応せず、まるで石のように姿形を変えることはない。
身体が動かなければ仕方ないだろう?
他に出来ることといったら眠気に意識をゆだねることしか……。
「…………zzz」
「……ハァ、もぅ……」
消えていく意識の中で、ベットが軋む音と共に近くに顔を覗き込まれているような人の気配を感じた。
わざとらしく仕方のないと溜息を漏らすようにと鼻を鳴らすと、今度は耳元で悪戯っぽく囁くようにしてまた鈴の音を小さく響かせる。
「……グィネちゃん、起きて。今日は私の実験の日、でしょ……?」
ッ!?
反射的に眼を見開き、弾かれるように上半身が起き上がる、それにつられてやっと後から意識が遅れてついていく。
……あ、あぁ……そうだ……そうだったよな……。今日は今行っている研究の最終実験の日だった。昨夜はその為に眠らずに議題を整理していたのだ。
決して幼い頃、彼女に実験と称した遊びを思い出した訳では無い……全くいつも私の罪悪感を刺激する間際らしい言い回しをするな……。
既に先程の眠気が嘘だったかのように一瞬で抜けて、頭の回転も今更のように活発になってくる。
嫌な事を思い出させられた文句を言おうと、いつの間にかベットに上がっていた我が家のメイドに顔を向ける。
メイドといっても王宮で採用している様なメイド服を着ているわけでは無い。服装は膝上までの橙色のワンピースにエプロンを着けただけという普通の家政婦の様な格好をしている。
見馴れたその顔はいつもなら高潔さを感じさせる美貌を持ちながらも人柄の良さが表れた穏和な笑顔を浮かべているはずだが、今はその灰色の瞳は薄められ、頬を動かさずに唇の端だけ上げるという不気味な笑顔を浮かべていた。
その背筋が凍えるような視線を向けられていることに気後れてしまうと、ついさっきまで頭にあった文句を丸々忘れてしまった。
顔を逸らしてあの視線の理由を記憶から探ろうとすると、瞬時にそれを理解した私は何とか誤魔化そうと寝起きの頭で言い回しを考える。
と、とりあえず無難な話題で話を逸らさなくては、笑顔を返しておけばどうにかなるか……?
「……お、おはようアリス。今日の朝食は何かな?」
「……おはよう御座います、ご主人様。本日のメニューはアスパラとベーコンのオムレツ、レーズンのトーストに……あ、それとニンジンの冷製スープです」
「なッ!?…… ニ、ニンジンか……確か昨日の朝食にも同じものがあったような、気がするんだが……?」
「ええ、実は昨日作りすぎで余ってしまって、魔法で冷凍していくつか保存しているんですよ。でもそんな毎日同じ献立だと飽きちゃいますから、明日は違うものを考えなきゃ」
「そ、そうだな……。ま、まぁでも2日くらいなら大丈夫さ。アリスの料理は美味しいし……そ、そんな頻繁に出る訳ではないだろうから、すぐに飽きる訳ではないしな……!?」
「ありがとう御座います……。でも、実は一昨日ニンジンが安売りしていたのでまだたくさんあるんですよ。どう調理しようか考えものです」
「……そう、なのか……?」
「あ、そうだ。何度も言いますが、徹夜での研究は程々にして下さいね。本当に何度も言っていますが、次やったら分かっていますね……? それではお支度が出来た頃には、食事のご用意をしておきます。」
「…………ハイ」
彼女は亜麻色の髪を前に垂らし一礼をした後、表情をそのままに寝室から静かに出て行った。
…………ハァ……またか。
彼女は私の健康にかなり気を遣っているため徹夜をしようものなら、罰を与えるかのように私の苦手とする料理をその次の日の朝食に入れてくるのだ。
あぁ……朝から憂鬱だ。
しかしながら今日はこの研究の大詰めだ。結果を確認するための実験を行わなくてはならない。
だが、またあの小うるさい生徒達の相手をしなくてはならないのか……。
面倒だ……しかしこれも仕事。気持ちを入れ替えなくては……よしっ、まずはシャワーを浴びて身だしなみを整える。
その後に軽く体と魔法回路のストレッチをして、今日の朝刊を確認する。
次に朝食を…………やはり食べきらないといけないのだろうな。
食べ残したところで何か言われることは無いのだろうが、前に一度見たあの悲しそうな顔が記憶に蔓延って離れてくれない。
……もう一時間くらい寝ようかな。




