SS.他称『銀の妖精』が過ごす早朝の教室 下
二人だけの教室は時が進まなくなったかのように私の弱々しい呻き声だけが空虚に響く。
「……あたし、貴女のそういうところが大嫌いだった」
力の抜けた小さな声。しかし小さいながらもそこに遮るものは無く、心から直接漏れ出た声のように感じさせた。
その重くのし掛かる言葉で私は涙を堪えた顔を更に俯けてしまう。
「いつも大切な時に目を逸らして、本心を隠そうとするところ」
彼女の表情も分からないまま、ゆっくりとその声が否応無く聞こえる。
「人に遠慮してモノを言えないところ。勝手に自分へ負目を感じてるところ。一度、鬱気の坩堝に嵌ったらどんどん沈んで行っちゃうところ、とか……もうホントにムカついてた」
「……ッ」
その言葉に胸が抉られる行く。耳を塞ぎたくなるのを必死に耐えた。
「相談もしないで、愬えもしないで、いつもいつも自分で決め付けちゃって……もうヒドイよ……。そんなに脆い心なのに、なんで頼ってくれないのって、そう思ってた」
「……ごめんなーー」
「でも……!」
私は罪悪感に駆られ謝罪を口走ろうとした。けど、それを言わせまいといきなりイヴァナちゃんが遮る。
さきとは違うハッキリとした声に驚いて、思わず私は顔を上げていた。
「でも、でもね……知ってるの。あたし、気付いてたんだ……」
「えっ?」
彼女の瞳の色は変わっていなかった。ついさっき視線を交わした時観た、悲しみや憤りを抑え込んだ力強い光がまだそこに宿っていた。
「エリーは人との関係を怖がってるけど、でもその繋がりをとても大切しているから臆病になる。エリーは自分を蔑ろにするけど、でもそれは自分以外の人にどうしても優しくしてしまうから、他人を責める筈の矛先をその優しさが歪めて自身へ向けてしまう。そして……エリーはあたしをとても、とてもすっごく大切にしている。あたしの為なら自分の身を鑑みないくらいに」
「……」
「他にもたくさんエリーの事知ってるよ? それはもう数え切れない程に、ね。だから気付いていたんだ……エリーがあたしにいくつも嘘ついているって」
私は目を見開き、その蒼の双眸の中に真実を探す。
「エリーの嫌いなところはまだあるし、それに……嘘つかれることはイヤだったけど。それ以上に良いところも知ってる。良いところも悪いところも全部、ちゃんと知ってたんだよ? それを経てあたしは貴女が好きだったし親友だと思ってた……でもそれはあたしの一方的だった」
「ッ! ち、違う! 私だってーー」
「違わないのッ! ……エリーがどう思っているか分かんないけど、違わないのよ。……だってね、知らないでしょう? 本当のあたしを。エリーが悪い訳じゃないんだ。貴女に知られないように、嘘ついていたのはあたしなんだから……」
私の咄嗟に漏れ出た本心へ彼女は被せるように強く断言すると、その声は段々と尻すぼみに衰えていく。
最後の方は本当にか細かったけれど確かに聞き取れた。でも、私にはその意味が全くもって分からなかった。
「……嘘……って?」
「………っ」
イヴァナちゃんは短く息を吸ったけれど、詰まったように先が続かない。
それでもやがて胸の内を吐き出すように続けた。
「……あたしは難しい魔術とか苦手だけど、エリーは新しい論述を言える程魔術が得意。あたしは貴族の付き合いが苦手だけど、エリーは社交界の華として輝いていて。あたしはこんなチンチクリンだけど、エリーは理想美の鏡写しみたいでーー」
つらつらとイヴァナちゃんの本音が出てくる。
それはどれも彼女の見せようとしなかった負の部分だった。
それを本人の口から耳にするのは初めてで、私は呆然と聞き受けることしか出来なかった。
「ーーあたしたちは全く違う。だからこそあたしの目には貴女が憧れとして写っていた。でもわかっていたの、それには自分への劣等感と憧憬が入り混じっていたって」
「……」
「私はエリーと仲良くなりたかった。でも、あたしのそんな一面を見せたらエリーに嫌われるんじゃないかって、そう考え出したらすごく恐くて……だから、あたしは自分に嘘を付いた。本心を騙してあたしじゃないあたしをエリーに観せていたの……」
「…………」
私は耳をそばだてずに、瞼を下ろしてじっと彼女の声と私自身を照らし合わせていた。
わかっていた。これがイヴァナちゃんだって私は知っていた。
そして知らなかった。彼女がこんなに私と似ていたなんて。
相手に伝えていない心に秘めた思いが、お互いに結びつく。
同じだ。彼女と私は同じなんだ。
大切に思っていた、歩みを揃えたかった、笑っていて欲しかった、そして嫌われることが怖かった。
どこかに負目を隠して、劣等感を抱いて、羨ましがって、そうして最後の一歩が踏み出せなかった。
もしかしたら私の根源魔法が彼女に影響を与えていたかもしれない。
だって彼女は裏表のない性格、思ったことはハッキリと口に出来る人だもの。根源魔法によって嫌われたくない気持ちが何よりも膨れ上がってしまい、本来の自身を見失っていたのかも……。
それならと私は一つだけ確かめる為に、またあの双眸を見上げる。
大きく綺麗な紺色の瞳。その彼女の目に写る力強い光は全く失われていない。
でもよく見ると、隠すようにして僅かに震えていた。それはおそらく恐怖によって。
そのことに気付くと私には彼女の決意と今の気持ちがどうしようもなくわかってしまった。
何故なら、それは私が勇気を振り絞れずに選べなかった選択だったから。
彼女に嫌われるのが恐くて、この関係を終わらせたくなくて。それが私の本懐だとしても選ぶことが出来なかった。
自身の全てを打ち明ける。
今抱いている罪悪感を振り払い、嘘偽りのない自分を観てもらう為に真実を告白する。
それは一方的な行為だ。相手を傷つける。受け入れられないかもしれない。
受け入れられなければ全てお終い。気持ち、思い出、築いてきた関係も何処かに行ってしまう。二度目の機会が来ることはないだろう。
迷いも無く相手を信頼していると言えなければ選べない選択だ。
だからそれを選ぶことは途轍もなく恐い、その筈。だって私はその結果を考えただけで意思が崩れ掛けたのだから。
ーーやっぱり、すごいな。イヴァナちゃんは……。
彼女が輝いて見えた。その決断力と心意気に尊敬の念を抱く。そして、彼女の想いに私も決意した。
進まなければ何も始まらないし終わらない。
彼女は私たちの関係に最後の一歩を進めた。なら私も、恐怖を拭うことは出来ないけれど彼女を本当に想っているならそれに続かないと。
「……私も、知ってたよ」
「えっ……?」
答えを待っていた彼女が予期してもいなかったであろう言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「本当のイヴァナちゃんのこと、知っていたの。だって私たちいつも一緒だったんだもの。隠し事に気付かないわけがないじゃない」
そう、私もちゃんと彼女を見てきた。
「好奇心旺盛で運動神経が抜群、じめじめした雰囲気が苦手で猪突猛進。幼く扱われることに腹を立てて、それを嫌い大人のように振舞いたがる。私より貴族歴が長いはずなのに私より淑女の作法を知らず、またどこか庶民的な風潮が気に入ってる」
唖然とした表情でパチクリと瞬きを繰り返すイヴァナちゃん。
「あのお願いをしてから、クラスでの私を見てもどかしげにしてたよね? それでもいつも必死に怒りを我慢して私の望みを守ってくれていたのを知ってるし、感情を抑え切れなくて何度か私の居ないときにあの人達に怒鳴っていたことも知ってた。すごく酷いこと、お願いしちゃったよね……」
強くて、やさしくて、嫉妬深くて、寂しがりやで、とても友達思い。
まだまだ彼女の事で知っているはたくさんある。
「イヴァナちゃんの凛々しいところは好きだったけど苦手でもあったんだ。私の思ってもみないときに感情が昂ぶるし、遠慮を忘れて必要の無いことまで口走ることもある。なによりもそれが変に短気な性格に起因しているところが危なっかしくて……苦手」
やっぱり私と彼女は違う種類の人間。繋がりを持ったからにはお互いの好き嫌いな部分がはっきりしていく。
「でもそんなところも羨ましく思ってたんだ。私もイヴァナちゃんみたいにはっきり物事を言えたら、怒ったりイヤだって言えたら正々堂々とちゃんと人に向き合えたんじゃないかって……だからね、私はイヴァナちゃんの良いところも悪いところもちゃんと知ってて、その上で好きだった」
言い始めたらキリがなかった。彼女への想いはそれはもう言葉にしきれないほどに沢山ある。
でもそんなわかりきっていることを延々と口にしていたら、心にした意志が揺らいでしまうかも。
だから私は一旦口を閉じると、姿勢を改めてゆっくりと確かに目の前を見据える。
彼女と視線がぶつかった。
「……さっき私のこと知ってるって言ってたでしょ? でも、イヴァナちゃんがどうやっても知り得ないことが一つだけあるんだ」
突然の告白に驚いていた様子だったけど、私の雰囲気を察したのか彼女は緊張に身を固めた。
もしかしたら彼女は今、先の私と同じ共感を得ていたのだろうか。それならばこれから耳にする言葉はどういったものか察しているだろう。
震える手と踵の浮いた足を抑え、浅く深呼吸を繰り返す。そして勢いに任せて真実を口にしようとした。
「わ、わたっ……ッ」
けど、言葉が喉を通らない。動悸が乱れて呼吸が不規則になる。今更ながらに恐怖が襲ってきていた。
これを伝えたら彼女との繋がりが崩れるかもともう一人の自分が怯え喚いている。
私が続けない為にこの教室が沈黙に包まれる。いつも五月蝿かった此処がこんなに静かなのは私の所為だと、教室の至る所から聞こえない声が訴えてくるみたいだった。
膝が笑い、体の芯が冷え、視線が揺れ始める。
気持ちだけが高ぶり、感情に引き摺られて置き去りにされた頭の中には何も浮かばない。
結局このまま私は何も言えずに終わるのだろうか、そんな諦念がふつふつと湧き始める。
その時だ。まるで見えない壁にぶつかったかのように全ての雑念が断ち切られる。そして心の片隅から記憶が蘇った。
寄り添おう、と愛の告白のような言葉と真摯な眼差し。
それを思い出すと共に、私を包み込んだ背中に回された熱く太い腕の感覚をもが蘇る。すると触れられた場所からだんだんと全身へ熱が広がり、芯にも暖かさが戻ってきた。
そしてまたあの決意が戻ってくる。
そうよ。恐いなんてことわかりきっていたじゃない。
この先にどのような結果が待っていようと、それでも私は決めたのだ。イヴァナちゃんと向き合うと、新しい道を歩むとあの時に誓った。
震えをねじ伏せる様に抑えつけ無理矢理にでも喉を鳴らす。
自身を吐き出した後に遅れて降り注ぐ恐れに身を攫われ無いよう、懐に置いた両手を再び握り込み願った。
ーーどうか、力を貸して下さい……。
願いは私の想いに応える。さっきしがみ付いた時とは比べものにならないほど身体の強張りを揉み解く。
背中の熱がまるで優しく支えるように私を励まし、最後の一歩を後押ししてくれる。
後を引いていた言葉がするりと喉を通り、邪魔な感情を追いやった混じり気のない素直な気持ちが溢れ出た。
「……私ね、一人がイヤだったの」
沈黙していた教室に向かって一人呟いた。
口にした言葉を聞いて、自分自身の見つめてこなかった望みに気付く。でも、それに思いを寄せる前に次々と内に潜んでいた一部が喉を通り出て行った。
「誰かに気持ちを受け入れてもらって、ただただ一緒にいて欲しかった。他に望んでいたことなんて一つも無かったわ、お金も誇りも才能も友達も全部。ただ側に居て手を握ってくれているだけでよかったの……だから、私は何も考えずそれに手を伸ばした。何を犠牲にしてもそれに手が触れてさえいれば、『形』なんてどうでもよかったの。私自身が満足なら……」
私は歪んでいたのだろうか。ただただ必死だったから何が正しくて間違っているかなんて考える暇もなかった。
でも、それで得たモノはきっと母の代わりに成れることはないと、薄々は気付いていたと思う。
「本当の方法は他にある筈なのは知っていたよ。でもそれは私には遠すぎた。いえ、早まっていただけなのかもしれない……どちらにしても、その末には何もなかったけれどね」
私はもう迷わなかった。
「イヴァナちゃん、私ね、根源魔法が発現していたの。多分イヴァナちゃんと会った時からずっと今まで……でね、それは人の心を操る能力なんだって。悪意も好意もその人が思うがまま行動するように本心を上書きするみたいな。だからそれを使って親友を創り出すことも出来ちゃうかもしれないーー」
一度それを話し始めると後はスラスラと流れるように続いて行く。
根源魔法、能力、発現時期、範囲、影響、そしてその結果。
今、私自身が知り得る限りのことは伝えるつもり。
「全部、私が操っていたの……だから、その……ね……えっと……」
でもそれを終えた途端、私は何をしたかったのか分からなくなった。
結局、私は何を言いたいだろう……自供? 謝罪? 報いを貰いに?
目的の理由なんてあまり考えていなかったけど、それを達成した途端に理性が正気を戻したかのように自身へ疑問を投げ掛ける。
しかし答えを持ち合わせない私には出来る事など何も無く、ただ受け身でイヴァナちゃんの返事を待つことしか出来なくなってしまった。
どちらにしろなんて自分勝手な事をしてしまったのだろう、と再度自縄自縛に進んで行く。
そこでいきなりの重さを感じた。
「……へっ?」
高く掠れた木枯らしのような声が情況に際して出てしまう。
その重さは内に募った負の意識などによるものでは無い。
なら何故と自答を探すうちに、やっと辿り着いた身体の感覚が答えを示した。
布越しの人肌の温もりと身体を締め付ける柔らかい重たさ。
いつの間にかイヴァナちゃんが胸の鼓動を聞き取れるほど近づいて、気遣うように私を優しく抱き締めていた。
現状に気が動転して混乱と焦りに染まる。
言葉よりも先に視線がイヴァナちゃんの表情を確認し真意を汲み取ろうとしたけれど、私の顔はその彼女の胸元に押し付けられている為にそれは叶わなかった。
「辛かったでしょ……?」
頭上から労わる優しい声が降ってくる。傷に触れたかのように私の体が反射的に小さく震えた。
「向けられる感情に追い詰められ、人を厭わない槍を突きつけられ、自分が全ての元凶だと告げられる。それはもう恐くて恐くて仕方なかったと思う。あたし分かるよ……だって、さっきも言ったけど本当のエリーを知っているんだから」
「ッ! で、でも、もしかしたらその思い自体もーー」
その声に彼女へ縋りたくなる気持ちと自身を締め付ける後ろめたさが綱を引き合う。
甘えを捨て身体を離そうとしたけど、それを事前に感じ取ったイヴァナちゃんは逆にもっと抱き寄せた。
「違うの。エリーの根源魔法とかあたしは関係ないと思うんだ。魔法がもたらすものは劇的で、それこそ人を変えちゃう事もできるかもだけれど……でも、その変化は気付ける筈なの。『魔法は模範し作り出すが産みはせず、先んじて全能なる現実がある為に』って初等部の最初の授業で習ったでしょ? だから、あたしに元々ある根っこの部分は昔から全く同じだって、あたしの想いはあたし自身のものだったってわかる」
彼女は迷う様子もなく断言する。その声色は変わらず優しくも言外に否定は許さないと、そんな気迫が込められていた。
「悪いのはエリーじゃない、貴女は少し人に求め過ぎただけ。でもそんな人沢山いるの。みんな違う人間なんだから求めるモノもその強さも別々で、それを渇望する事は罪である筈がないんだから」
「…………」
……私は、首を縦に振ることが出来なかった。
イヴァナちゃんが少しの無言の後に大きく息を吸う。
「……それでも、それでもね」
胴にまわされた彼女の腕へ放さないと力が籠もる。
「自分が許せなくて、罪を被ろうとするのなら……今度こそは手伝わせて。幾らだって操っていい、利用してもいいからエリーを助けさせて。きっと……いえ、絶対力になってみせる!」
イヴァナちゃん生粋の明るく力強い、頼りになる口調。
それに私の胸の中へふつふつと抑えの効かない半信半疑な希望な募ってゆく。
水瓶から溢れるように視界が霞み出し、体の支柱は側の温もりへと傾き始め、手足が行き場を求めて躊躇する。
私は隠せない期待を込めて言った。
「なんで……?」
そこまでしてくれるの、とそんなわかりきったことを、消せない怯えに声を小さく震わせながら問い掛けた。
彼女が可笑しそうに背中を揺らすのが体越しに伝わる。
「そんなの決まっているじゃない」
するりと体が離され間近に対面する。彼女の双眸にはそろそろと涙が蓄えられていたが、その面差しは笑顔に綻んでいた。
「あたしは、エリーの親友だから……親友でいたいから」
彼女は途中で言葉を飲み込むと、私の瞳を覗き込みもう一度言い直す。
私の中で幾重にも巻き付いていた枷が溶けて崩れ落ちてゆく、そんな気がした。
心に背負っていたものが消え去り、何もかもが見違えて軽く、まるで生まれ変わったかのようにすっきりとしている。
それと一緒に私の想いも抑えを忘れて溢れ出しそうになった。
しかし、堪えなければいけない。
何よりも先ずは彼女に応えなくちゃ……。
それはごめんでも、ありがとうでも無い。イヴァナちゃんは私たち親友だよね、と最初に問うた。
私たちの関係をお互いに形としてはっきりと確かなものにしようと、それを今一度求めている。
だったらと直ぐにでもこの気持ちを伝えたいのだけど、それよりも先走ってさっきとは違う温かさを持つ滴がひとつ頬に伝った。
すると倣うように次々と想いが流れ、潜めた嗚咽が混じる。
涙が止まらない。拭っても拭っても溢れる。
どうしようもなく流れるそれに、今日は泣いてばかりだなと他人事のように記憶を探る。
やがて私は止まない涙に拭う事を諦めて手を下ろす。
顔を赤く濡らし視界を霞ませながらも紺色の瞳をしっかり見据えて、途切れ途切れにひっくり返る声で答えた。
「……うん。私たち、親友だよ……これからも、ずっと……ずっと、一緒だもん……」
難しい事は言えない。でも言葉で伝えられない気持ちを精一杯の笑顔に表した。
多分、それは泣き顔の上に無理やり笑顔を象ったぎこちなく不自然になっていると思う。
だって目の前の彼女も同じだから。
イヴァナちゃんは笑顔に涙を流しながら唇を歪ませ、何度も何度も嬉しそうに無言で頷く。
そのどっち付かずな仕草に私は訝しむ訳も無く、お互いを包む共感に思わずも抑え込んでいた手綱を離してしまう。
華奢な体に抱き着く。そして経験を忘れ、羞恥を追いやり、この人生で培ってきた固執に別れを告げる為に、赤児の如く遠く響かせるように私は泣き喚いた。
「ーーーーッ!!!」
この校舎全体に響き渡るほどに喉とお腹を張りあげ、後の醜聞も気にせずにただ求めるがままに身を任せる。
私の胸の内がかつて無いほど晴れ晴れとしている。ひとときだけ、私を苦しめていたもの全てから解放された気分だった。
滝のように流れる涙はイヴァナちゃんの制服を濡らしてゆく。それでも彼女は何も言わずに、あやすように私を包み込んでいてくれた。
彼女の温もりを感じる。それはかつての母の腕の中と似ていたけれども、どこかが違っているように思える。
安心を覚えるという点だけは同じだ。でもそれに加えて別れに似た物悲しさを心の奥深く光の差さない所で感じていた。
涙は干上がることも無く止めどなく流れ続ける。
いつしか勢いは衰えてゆくけど、それでも喉は枯れようとも構わず廊下の端から端まで届くほどの喚声をまだ轟かせている。
あの広く整った廊下なら原音を嫌というほど忠実に増幅し反響させるだろう。
けれども、何故かその声が私たちの下へ返ってくる事は無かった。
窓の外で鳴いていた小鳥の囀りも何処かへ消えて、私の泣き声とイヴァナちゃんのあやす声だけしかこの教室では聴こえない。それはまるで此処だけが外界から遠ざけられているかのようだ。
私は覚えのある不思議と幸せな安心感を先程から感じていた。それは胸の奥が熱を持ち、締め付けるようにして私へ知らせて来る。
どこか重く苦しくも、私の心を優しく包み込んでくれる相反した感覚。
それに加えて危険が降り掛かからないように、間違った道を進まないように、そっと私たちの歩みを見守ってくれているーーそんな人知れずとも温かい眼差しを何処かからか向けられているような気がした。
気持ちの高ぶりも山頂を越えると後はゆっくりと降るのみ。既に涙も尽き果て、口からは嗚咽が残滓のように掠れて出る。
いつの間にか教室外の喧騒が戻って来ていて、校庭より朝早くから元気な青春の掛け声が響いていた。
私たちは腕を離すとお互いに微笑み合いこれからの事を話し合う。主に私の根源魔法についての話題だ。
しかし今更ながらにそれはある程度の解決はしていると伝えると、イヴァナちゃんは驚いた顔をしてその手段を尋ねて来る。
私は先生との経緯を話す。それを聞いた彼女は妙にニマニマとにやけた表情をしていた。
ふと彼女には朝練があったことを思い出して危惧したけれど、そんな事よりもこっちの方が大切よと返ってくる。
それならと私たちは時間を忘れて更に色々なことを語り合った。
クラスメイトと先生の事や私の償い方の相談、また昨晩の事件などの世間話もしたし、はたまた巷で噂になっているケーキ屋やそのお出かけの約束といった年頃の会話をもした。
特に学院の男子から嫌われる方法の具体的な案を一緒に考えている時なんかは、それはもうイヴァナちゃんは悪戯ごころに花を咲かせて楽しそうだった。
もちろん私にとってもそのひと時は、かつてない程の気楽な喜びに満ちていた。
そうこうしている内に一般生徒の登校時間となり、合間を挟んでやがて今日最初の授業が始まる。
流石にその頃になると昨晩から眠っていないツケがまたやって来たのか頭が船を漕ぎ始めていた。
グウィン先生が眠たげな目で教室に入ってくるのが見えた。相変わらずの騒がしい様子の教室に疲れた溜息を漏らしている。
ある経緯があって今の私の席の周りに人だかりがない為に、久方ぶりに此処からの見晴らし良い。ちゃんと最前の教卓と黒板がわかるし先生の姿も窺えた。
先生が教室の入り口から教卓へ向かうのを眠気を忘れ、じっと見つめる。するとその視線を感じたのかチラリと横目で私の方を確認した。
どきりと胸を高鳴らせながら、私は笑みを浮かべて『出来ました』と頷く。
それに先生から何か仕草が返ってくることはなかったけれど、よく見るといつもの無表情には小さい微笑みが模られていたように思える。
またあの不思議な感覚に包まれながらも今度こそ体の限界が訪れたのか、意識が夢へと誘われるようにして落ちて沈んでいった。
§
私は見覚えのある部屋で独り佇んでいる。それはどこか懐かしい小さな女の子の部屋だ。
可愛らしい人形に花で作られた冠、それと並んで無機質な化石のような物が棚の上に置かれている。壁紙も貼られていない部屋の壁には親子と思しき二人が手を繋いでいる絵が拙く描かれていた。
……思い出した。これは母と一緒に住んでいた幼い頃の私の部屋だ。
それはずいぶん昔の事の光景でなかなか気付けなかったけれど、一度思い出すと家の構造や思い入れ深い場所など色々なことも記憶が蘇った。
カーテンの開かれた窓からは夜の訪れを告げる夕暮れの光が差し込んでいて、郷愁漂う色合いに部屋を染め上げている。
そういえばいつもこのくらいになると夕食ができた頃合いだと、今か今かと母の呼ぶ声を心待ちにしていたと感慨深く思い出す。
ーーーー『エラちゃーん』
声が聞こえた。それは長いこと聞かなかった懐かしい声。
私は一瞬だけ惚けると何も考えずに部屋を飛び出した。憶えのある廊下から居間に入り、その奥にあるキッチンへと無我夢中で駆け込む。
いつもならそこに居るはずだった。翔けて来た幼い私を振り向きながら、得意げに今日は自信作だと料理の自慢をする筈だ。
胸を高鳴らせながらキッチンからの声の主を探した。それから居間を探し、廊下を探し、寝室を探し、便所から物置まで家中の全てを探し尽くした。
何処にも声の主ーー母はいなかった……。
これは夢だと何となく気付いていたけれど、だからこそ母ともう一度会えるんじゃないかって期待をしてしまった。
思い起こせば母が亡くなってから、私は一度も母の顔を夢の中ですら見たことが無かったっけ……。
そこでふと一つの真実に気付いた。
そうか、私は母の死を受け入れていなかったんだ。母の名残を求めて、それに似た『ホンモノ』を探していたと思い込んでいたけれど、私が本当に探していたのは消えてしまった母自身なのだ。
それなら見つかる筈がないじゃない。代わりをやってくれる人なんていないし、そもそも代わりに成り得る存在がいる筈ない。
母親は私にとって一人だけで、それを失ってしまったらもう取り戻せる訳がないのだ。
ーー母はとっくのとうの昔に死んでしまって、その亡骸は故郷の墓地の中で静かに眠っているんだよね……。
そう受け入れるのは難しいと思っていたけれど、既にその自覚が身に染みていた。
多分私が先生とイヴァナちゃんと関わって、本当に求めていたものが全く違うと気付けたからだろう。
イヴァナちゃんに触れ暖かさを感じた時、どこか無意識のうちにその真実を感づいて受け入れていたのだと思う。
私は小さな喪失感を心の片隅に残しながら、自室に戻り、廊下から居間、またキッチンの方へ向かう。
やっぱり誰もいないと諦め、私は振り向いた。
「エラちゃん、誰を探しているの?」
私そっくりの銀髪に、穏やかな目元。膝を折り、いつの間にか小さくなっていた私の視線に合わせる母の姿。
今まで夢の中に姿を出さなかったから期待なんてあまりしていなかったけれど、もしかしたらと望みを捨て切れていなかった。
もう一度見るだけで良い。その姿を記憶に焼き付けて夢から覚めても憶えていようとそんな淡い望みだ。しかし今私の望みの上を行き、母は私に語りかけている。
想像を超えた出来事に私は頭の中に真っ白になった。
ニコニコと微笑みを浮かべながら、私の言葉を待つ母。それに何よりも先に腹が立ってしまった。
「……どこいってたの?」
「うーん、ちょっとお散歩?」
幼い声でムッとしながら問い掛ける私に、母は誤魔化すように首を傾げながら答えた。
「……おかあさん、ずっといなかった」
「ちょっとじゃなくて、すっごいお散歩だったのよ」
「エラしってるよ。すっごいのはおさんぽじゃない」
「あら、そうなの? えーっと、じゃあちょっとお散歩してからまた散歩してたの。お散歩お散歩だったのよ」
「むっ……」
理屈なんてありはしない子供を誤魔化す言葉に、私は思考まで幼い頃に巻き戻ってしまったのか見事に言い包められてしまう。
何も言い返すことも出来ずに黙って俯いた。
「ん〜……!」
積もる怒りに唸る。
その次に理屈も何も無い感情に任せた言葉を口走ろうとしたけれど、見上げた母の慈しむ表情を見てしまうと溜まった怒りは霧のように霞んで消えてしまった。
よく鉱山から見つけた化石を持ち帰り見せつけると、頭を撫でながら褒めてくれたものだ。
その女の子らしくない趣味に母は何を言うでも無く、優しく微笑みながらあの慈しむ表情で私のことを見つめ続けていた。
私はその瞬間が何よりも特別で、その表情が何よりも好きだった。
幼い頃の思い出から戻ると、ふと俯瞰的に思考が戻りこれは夢であったことを思い出す。
私は今この夢を見ている理由を探した。これはきっと私の中で何かの転機が訪れているのだろうーーそう、自分で納得すると現状を変える事の出来る次の言葉を探す。
しかし、いくら頭を捻ろうとも浮かんだのは一つだけ。それは只の自己満足なのに今の私にはそれ以外の答えが無いように思えた。
「……ゴメンなさい」
私は想いを口にする。叱られた子供のように気不味げに両手の指で遊び、チラチラと相手の様子を窺いながら。
「エラね、わるい子だったの。おかあさんがもうかえってこないって、わかってるのにわからないフリしてウソついてたの。しんぱいさせたくないのにずっとウソついて、おかあさんがかえってくるのまってた……だから、いままでしんぱいかけて、ゴメンなさい……」
母の顔が変わる。それはどこか困ったようにして苦笑いを浮かべていた。先の表情を私自身の言葉により崩してしまったことに悲しさと罪悪感が襲ってくる。
私が沈んだ顔をしていたからだろうか、「もう」と失笑の後に両頬に添えられる温かい手の感触と慰める言葉が続く。
「そんな寂しそうな顔しちゃダメよ。あなたはもう一人じゃないんだから笑って笑顔を分けてあげないと。それにお母さんも悪いの、エラを置いて一人で行っちゃったんだから……」
頬から両手が離れて肩へ滑ってゆく。そしてゆっくりと手を引かれるように抱き寄せられた。
そして母は呟く、「私も、ごめんなさい……」と。
暖かく、柔らかく、大きく、優しく、丁寧で……幸せを分けてくれる。私の髪を滑るようにそっと梳き、背中に添えられたもう片手は赤子をあやすかのように規則的に鼓動を刻み打つ。
酷く懐かしい感触。焦がれ焦がれて失くした後も忘れられなかった唯一の居場所。
私はまた触れられた嬉しさと、そしてこれはもうこの世には居ないという事実に強く抱き締め返した。
「大丈夫よ、お母さんはずっと一緒にいるから。こうしていつまでもエラのこと抱き締めていてあげる」
「うん……」
耳元で優しく母が告げる。
私はその言葉に甘えていつまでもこの暖かさを忘れないように、夢から覚めるまでずっとずっと、確かなホンモノを心に刻み込んだ。
ご一読ありがとございました!
この物語はここで句切ろうと思います。
最後までお付き合い下さり、改めて感謝いたします。




