9.湖畔の宿にて① 十織と清藍
また茶番回……。いつになったら話が進むんだって話ですよ。いろいろごめんなさい。また明日から頑張ります。
夕日が山に掛かりその下に広がる湖を赤く染めている。窓からゆっくりと沈む行く太陽を眺めながら、耳が痛いほどの静けさを感じている。
こんなにも静かだと言うのにきっとここにいる全員が、言い知れないざわめきを心に感じているのだろう。
チェックインの終わった水辺の旅館は絵に描いたような風情のあるものだった。
手配したのは新汰だった。宿泊費の支払いに青くなった者が何人書いたが、彼曰く、調査にかかる費用は全て上から出ているからと、豪華な昼食の代金も彼の財布から出ていた。
その新汰は今ここにはいない。残りの四人でツインの部屋割りについて話して欲しいと依頼されていた。本来は、杏子と清藍、陸と十織、新汰と正樹という部屋割りの予定だったのだが、急遽それを変更しなくてはいけない事態が起こっていた。
杏子が急に熱を出したのだ。新汰が言うには、先程の『精霊』の霊気に当てられたのだろうとのこと。さすがに杏子の看病を清藍にさせるわけにはいかず、新汰と杏子で一部屋使うことになってしまったのだ。
一晩休めば何とかなるとは聞いているが、一晩とは言え大きな問題がある。
「やっぱりここは、正樹さんには悪いけど三人で一部屋使うのが……。俺は、床でゴロ寝で大丈夫だから……」
他の人間がいないことを良いことに男言葉で、解決策の一つをもう一度言う。
そう、先程から堂々巡りなのだ。もう既に三十分はこのやり取りを繰り返している。本来なら日没までに少しでも調査をしなければいけないというのにこの体たらくである。
「ひー、諦めろ」
「おまっ。裏切り者かっ」
「いくら日上君って判ってても、床にゴロ寝はさせられないよ。見た目は……その、女の人なんだから……さ」
「今男の姿に戻るわけには行かない以上諦めろっ。その姿で清藍に悪さもできないだろう?」
「悪さなんて男の姿でもするかっ!」
「それはそれで、失礼なんですけど、十織?」
意識してと・おると間を空けて発音して、清藍が作ったようなにこやかな笑顔をこちらへ向けてくる。
「あーもう、別の部屋追加で借りればいいじゃねえか!ここがダメなら他の宿あたるとかっ!」
「日上君、声大きいよ。隣に聞こえる」
だんだんとエスカレートしていく十織の声に、たまらず正樹が注意する。
いくらホテルとはいっても古民家をリフォームしたような造りである。隣にどれくらい響くか判らない。慌てて徹は声を潜めた。
「ごめん……」
「せいらも許可出してるんだし、さっきも言ったろ。この時期に急に探して泊まれるホテルなんてないって。つか、さっきスマホで検索してなかったじゃないか」
「~~~~~~」
声にならない声で唸る十織。唸り声を上げているその姿すら女性である今は可愛らしく見える、とは徹には言えないなと陸は思った。
「それにさっきみたいな事があった以上、一人にしておくのも危険だよ。彼女、まだ自分の身を守れないんだろう?」
正樹の話し方は責める口調ではなかった。むしろ当たり前と思っているのかも知れない。
さっきの事とは、杏子が倒れる原因になった『精霊』の来訪である。
今、彼女の身を守れるのはここにいる三人のみだ。そして三人で彼女の部屋に詰めるわけにもいかないのは部屋の広さから見ても判りきっていた。
また、肉体的には女性二人と同室するというある意味とても美味しい状況をも真面目な陸は断った。彼の性格を考えればまあ順当な成り行きといえる。
「……マジで……同じ部屋に?いや……でも、そうだな。一人には出来ないし」
「十織がホントに嫌だって言うなら一人でもいいよ。今まではいつも一人だったんだし。何かあるって決まってるわけでもないしね」
何でもないことのように清藍が笑う。正直彼女も複雑なのだろうとは思う。
徹は彼女に告白されたことを誰にも話していなかった。長年の付き合いである相棒にすら言えなかった。理由は正直自分自身でも判らなかった。
そもそも、多分清藍はその思いを告げるつもりもなかったのではないかと考えていた。でなければ淋しさの余り優しくしてくれた自分に擬似恋愛のような感情を持ってしまったとか。
けれど、それでもあの時の彼女の表情を忘れることもできなかった。
彼女の気持ちは今も変わってないかも知れない。けれどどうしたらいいというのだろう。自分に何が出来るのだろうと思う。
その優しさが今の十織を途惑わせていた。
「まあほら寝るぎりぎりまでは四人で一緒にいるだろうし、変な意味に捉える必要なんてそもそもないしね」
取り成すように――いや、本当の意味で取り成したのだろう。場の雰囲気を変えるために明るく陸が言い一応その場はそれきりになった。
☆
宿の前に広がる湖には桟橋が掛かっていた。
宿の庭から直接湖の波打ち際まで降りられる造りになっている。桟橋には手すりもなかったが、湖の波打ち際は桟橋の先ぎりぎりくらいで落ちても危険があるようにも思えない。
十織はその先端に立ち尽くし、今日最後の太陽が湖の向こうの山に隠れていくところを眺めていた。
悩む必要なんてないと判っているのに、心が落ち着かない。守るために一緒にいるだけだ、そう言い聞かせるのに。
この相手が清藍でなければ悩まなかったかというと実際はそうでもない。年頃の女性なら誰でも同じように悩んだと思う。けれど、彼女は他の女性と比べても事の外美人だ。そして自分に思いを寄せているかも知れない女性でもある。
これが普通の男だったら美味しい、美味しすぎる状況だろうと思う。例え、自分が相手をなんとも思ってなくても、だ。
それに徹にとって清藍は何より大切な人の一人だから。大切すぎて箱に入れてしまって置きたいと思う程に。むしろそれが枷なのかもしれないが。
一つ大きく息を吐く。
「ごめんよ、せいら」
背後から静かに近づいて来る気配に十織は声を掛けた。いくら静かに歩いたとしてもこの静寂である。足音を、気配を感じ取れないわけはなかった。
「何に対して謝ってるのかしらね」
「う~ん、何だろう。襲ったらごめん?」
「今夜襲われたら確かに複雑ね。……レズに目覚めてしまうかも?」
「それは嫌だな、確かに」
それきり二人とも言葉を失ってしまう。後わずかで落ちきってしまう太陽と、ゆっくりと色を変えていく空が綺麗なグラデーションを描いていた。
十織の隣に並んで清藍が静かに言った。
「綺麗ね」
上から群青、青、水色、薄黄色、朱、赤と変化している空は、秋晴れの済んだ空気と相俟って幻想のように美しい彩りを見せていた。
「ここはアレか、ロマンチックだねっていうシーンか?」
「もう、茶化さないでよ」
「……確かに綺麗だけどな、向こう岸も少し紅葉が始まってるし」
「うん……」
湖を渡り風が吹いてくる。湖を渡ることでその温度を下げたのか、風は想像以上に冷たく火照ったからだを冷やすようだ。
さらりと清藍の亜麻色の髪を撫でる。その甘い香りは隣にいる十織にも届いている。
清藍は桟橋にしゃがみこむとその足を前に投げ出した。桟橋に座り込む形になって足をぶらぶらさせている。桟橋は思ったより高く彼女の足が水面に付くことはなかった。
「……ねえ、聞いていい?答えたくなかったら答えなくてもいいの」
しばらく足をぶらぶらさせてから、亜麻色の髪を風になびかせながら彼女は問い掛けた。
「答えられることなら……」
答える声は少し硬い。けれどいつもよりもずっと甘い声く響く声音だった。
「男でいる時と女でいる時ってどれくらいなの?どっちがより長いとか、さっき陸が『男には戻れない』っていってたけど、どういう事なのか聞いても大丈夫?」
「あぁ……」
考えを整理するように一呼吸ほど時間を置いてから返事は返って来た。
「基本は男の状態。こっちの方が安定してるんだと思う……。女になるには今は婆様の力を借りないとなれないかな、今は」
「そうなんだ……。ちっちゃい時は女の子だった、よね?」
少し前に思い出した記憶をもう一度たどるようにしながら問う声は、ゆっくりとして静かな声音だ。
「うん。今も戸籍上は女になってると思う。十二~三くらいまでは半々って感じ。婆ちゃんが言うには今男で安定しているのなら本来は男に生まれてくる予定だったんだろうって。戸籍を変える事は出来るみたいだけど診断書みたいなものが必要みたいでさ」
「複雑だね」
「まぁ、こうやって女の姿になれる以上どうなんだろうって思うけど、正直どっちでも俺だと思ってるから」
「まあ、確かにそうね。ありがとう、言い難い事なのに教えてくれて」
「いや、せいらこそ、なんだ。気味悪がったりしないでくれて嬉しいよ、ホントそれが一番怖かった」
「とおるはとおるだよ。男でも女でも。大事な友達でしょ?」
「うん、そうだな。大事な友達だ」
今はそれでいいと思う。清藍は静かな気持ちでそう思った。
H30-10-01 訂正・加筆。