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10.湖畔の宿にて② 新汰と杏子

まだまだ茶番。いつになったら話が進むんでしょうか。

 杏子は布団の中で目が覚めた。汗をかいたのか体がべとついて不快だ。


 まだぼんやりする視界は、黒く墨で燻された柱と木目が綺麗な天井板を捉えた。いつもの部屋の天井ではない。


 部屋の中は薄暗かった。朝早いか、夕方か。ぱちぱちと数度瞬きを繰り返し、ぼやける視界を戻そうと試みるが中々上手くいかない。


 この感覚は覚えがあった。時々起こす貧血の症状に似てる。また貧血を起こしたのかと思うが、流石に気付くとベッドの上と言う状況は今までもそれほどなかったはずだ。


杏子あんず目が覚めた?」


 はっきりしない思考でなんとか今の状況を把握しようとしていた杏子きょうこに聞き覚えがある声が掛けられた。


 穏やかなその声に杏子は安堵した。大丈夫、彼がそばにいてくれるならば。その声の主、新汰あらたもまた杏子が目覚めたことに安堵していることには気付かなかった。


あらちゃん、私心配掛けちゃった?」


「うん……いや、うん。心配した、かな」


「ごめんね……」


「……お前のせいじゃないだろ。具合はどう?……何か飲むかい?」


 起きようとしている杏子の様子を察して、新汰が手を貸してくれた。


「お茶、あるー……?」


「ああ、待ってな」


 部屋中の枕を集めて体を起こした杏子の腰の下に積み、寄り掛からせてから新汰は彼女から離れた。部屋の中を横切り、備え付けの冷蔵庫からあらかじめ入れて置いたお茶を取り出す。


 和風モダンにしつらえられた部屋であった。畳の上にベッドが置いてある。足音をさせずに移動する新たの動きには無駄が少ない。


 お茶のペットボトルの蓋を軽く捻り、完全には開けない状態で手渡す。手渡す際にも取り落とさないように気をつける心遣いがありがたかった。杏子は受け取るとそれを開けて一口含む。


 お茶の冷たさが彼女の意識をすっきりさせていく。喉を潤し一息付くと周りが良く見えてきた。電気の付けられていない部屋は薄暗かったが何も見えないと言うほどでもない。


 窓の外に目をやれば湖が見える。湖に向けて桟橋が掛かっているようだ。桟橋の上に誰かがいるような気がしたが判別はできなかった。


 そう言えば今日はここを目指して自動車に乗って来たのだった。ゆっくりと記憶が蘇ってくる。


「体、なんともない?」


 いつも誰かをからかうような放し方をする新汰だったが、今日はいつになく優しい声だった。


「うん……大丈夫、だと思う」


「そっか」


 小さく良かったと呟く声が聞こえる。心配をしていてくれたんだと思うと心が温かくなる。


「びっくりしたね。さっきの『風の……精霊』……かな。いつも遠巻きにしてるだけで近づいて来ないのに」


「俺も驚いたよ。こんなに敵対視される理由なんてないしな……」


 敵対心を持ってたのは、自分たちじゃないけどなと心の中で思ったが、あえて伝える必要もないだろうと思った。彼女は戸上の事情を詳しく知ってるわけではないのだから。


 陸たちにしたって自らに降りかかった火の粉を払ったに過ぎないはずだ。神殺しを行わなかっただけまだましだと思って欲しいくらいだ。


 もっとも一定の地域を守護できる程の地鎮神を殺せる能力のある者など、新汰の知る限り数人のみだけだったが。


 彼らに紙殺しの命が下ったとしたら、恥も外聞もなく断るだろう。不可能だと思うから。戸上の家の中の地位など新汰には何の興味もなかった。


 叶うならば父親の会社とも関係なく、杏子と共にひっそりと暮らせればそれで満足なのだが中々そうもいかないらしい。


「皆は大丈夫だったのかな?せいちゃんととおるちゃんは」


 十織に「ちゃん」を付けて呼ばれたことに噴出しそうになったが、『十織』とは初対面なのだから彼女を責めては理不尽だ。例え男性型の『徹』と会った事があったとしても同一人物などとは思わないだろう。


 元々杏子は人を呼ぶ時大抵は名前の後に「ちゃん」を付ける。それだけのことだと自分に言い聞かせた。


「うん。皆大丈夫だよ。隣の部屋で休んでると思う、長時間の移動だったしね」


 杏子のベッドに腰掛け、そっと彼女の額に当てた。ひやりとするその感触に熱がないことを確かめる。彼女は冷え性で体温は低い方だ。倒れた時は少し熱く感じたがこの様子ならばもう大丈夫だろう。


「夕食七時からにしてもらったけど、食べに行けそう?きついなら運んでもらうけど」


「あ、うん。行けると思う」


 時計を見ると、五時半を回ったところだった。もう少し休んでいられそうだ。


「ちょっと、正樹たちのところに行って来る。何かあったらすぐに連絡して。無理はするなよ」


「……判った。もうちょっとだけ寝てるね。眠り込んじゃってたら起こして」


 もう少し休みたいと思っていたところだったので、新汰の申し出は嬉しかった。元気な彼をここにいさせたまま眠り込むのには少し気が引けると思っていたところだったからだ。


 杏子は手に持ったペットボトルの蓋をしっかり閉めると、サイドテーブルに置き枕に埋もれて目を閉じた。


 それを見届けた新汰が部屋から出て行く音を聞きながら杏子は再び眠りに付いた。

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