White White Prisoner
しんしんと、蝋の雪が降り続けている。
空には低く垂れ込めた雲。
曇天から降る蝋の雪は長引くことが多い。明日の朝まで降り続けるかも知れない。
アーケード街を抜けたところで俺はジャム瓶を取り出した。
指を入れ、口に含む。
甘い。
指をシャツで拭き、手鏡を取り出す。
鏡に映る俺の顔はいささか暗かった。
先ほどの問答の中、何もできなかった悔しさが俺の顔を歪ませている。
あの場で二人を殴り飛ばすか、説き伏せることができれば良かったのだが、俺にはどちらもできなかった。
俺は唇月ほど雄弁ではないし、妃ほど武に秀でているわけでもない。
どんな方法であれ、挑めば負けていた。
だからこうして脅迫されたまま、すごすごと尻尾を巻いて引き返している。
自分の情けなさにため息が出そうだった。
だがそれは人生における日常だ。
情けない思いをしたのなら、払拭すればいい。
次だ。
次に会う時、あの二人を――
(……)
ともあれ、色男は陰気であってはならない。
俺は櫛を入れ、最高の角度で最高の笑みを鏡に向ける。
この『若い七福神』とでも呼ぶべき丸っこい顔。
申し訳ないぐらいに色男だ。
「陽甲?」
滑るように先を往く紫苑が振り向いた。
俺は地に満ちる蝋を掬い、二つの試験管を白い炎に放り込んだ。
そして思い切り、地面に叩きつける。
「!」
ぺぎゅ、と。
蝋に包まれたガラス管が割れる。
「な、何してるの?! それは……」
「ゴミだ」
俺は堅実を尊ぶ。
それが色男だと信じているからだ。
だが同時に、清らかでなくてはならない。
清らかさを失えば人は人でなくなる。
人でないものに色男を名乗る資格は無い。
「で、でもそれがないと……!」
「これがないと、何だ? 『曹長たちを殺せない』とか言わないよな、紫苑?」
「……」
「怯えなくていい。あいつらは無敵じゃない」
無敵なら、『自衛隊を殺せ』なんてことは言わない。
本気で俺たちを仲間に引き入れるつもりなら先ほどの問答の中で俺たちを拘束し、悠々と曹長たちが飲まれた場所へ引き返し、津波を起こせばいい。
居場所を失った俺たちは唇月に従属するしかなくなる。
だが、彼女たちはそれをしなかった。
俺たちに自衛隊の始末を依頼するからには、それなりの理由があるのだ。
それも漠然とした不安や懸念ではなく、具体的なリスクにまで考えが及んでいると俺は見た。
(……あいつら、自衛隊と交戦したことがあるんだな)
他の避難地区にも曹長と同じ自衛隊の一団がいる。
彼らと戦った結果、唇月たちはリスクを感じた。
津波なら一方的に殺せるはず。雷なら一撃で殺せるはず。その予想が、覆った。
覆るとはつまり、殺せなかったということ。
彼女たちが交戦した自衛隊員は津波に飲まれても死なず、雷で撃たれても死ななかった。
いや、少し違う。
おそらく津波に飲まれても脱出し、雷よりも早く銃火器をぶっ放したのだ。
唇月の津波は所詮、蝋の津波。
熱で溶けるし、水のように一方的な破壊を生むことはできない。
妃の雷も所詮、蝋の雷だ。
光の速度で宙を奔ることはないし、直撃しても全身が焼け焦げることはない。
あの二人の能力は偽物に過ぎない。
本物の銃火器と正面切って戦えば劣勢に立たされるのだろう。
それに唇月は明らかに華奢でひ弱だ。妃は強いが、主を守らなければならない。
その関係性にも弱さがちらついている。
無敵でないのなら、戦える。
今すぐ引き返しても返り討ちに遭うだけだが、群青や曹長と知恵を結集させれば彼女たちを殺――
(……)
殺すのか。
本当にそれが正しいのか。
気に入らないものを排除するという方法は、まさにあの二人の考えではないか。
では止められるのか。
俺の稚拙な言葉で、心身ともに結びついたあの二人を説得できるのか。
――できはしないだろう。
矜持なら、落としどころを見つけることもできる。
だが『美学』はダメだ。人の美学は変えようがない。
俺がそうであるように。
俺は隣を滑走する紫苑に手を伸ばした。
「それもくれ、紫苑。割る」
「……」
「紫苑? ……」
俺は人情の機微に聡いタイプじゃないが、かといって愚鈍でもない。
紫苑が唇月の思想に共鳴しつつあることには気づいていた。
ああいうのを何と呼ぶのだろう。優生学だったか。それとも選民思想だったか。
何にせよ、危険だ。
唇月の匂いのするものは、早々に紫苑から引きはがすべきだ。
「紫苑。それをくれ」
「一応、曹長たちに見せてからの方がいいと思う」
陰気な目が俺を捉える。
試験管を握る手は紫色のカーディガンの向こうへ。
「私たちが見たものの証明にもなるし。これはまだ割らないで」
霧のごとき不安が俺の胸中に漂った。
問いを投げかけようとした俺は紫苑の声に前を見る。
「陽甲、あれ!」
「!」
広い広い蝋の雪原が、そこだけ泡だらけになっていた。
バスタブ――いや、野球場いっぱいの泡風呂をぶちまけたかのような光景。
周囲を見回した俺は気づく。
ここは先ほど唇月たちの襲撃を受けた地点だ。
(泡があるってことは……)
優姫は無事らしい。
胸に淀んでいたものがするりと解ける感覚があった。
良いニュースはそれだけではなかった。
暗い空の下に続く白い世界に、迷彩服の姿が五つ。
自衛隊員は全員無事のようだった。
俺、紫苑、群青、優姫、そして自衛隊。
唇月に対抗しうる戦力が全員無事というのは喜ばしいことだ。
「曹――」
明るい声を上げようとした俺は、気づく。
誰もが必死に動き回り、大声を上げていることに。
泡だらけの大地の隅に『何か』が並べられている。
マグロのように並べられ、布を被せられた『何か』。
明らかに人間だと分かるものもあった。
人間の形をしていないものも幾つかあった。
「――!」
俺と紫苑はスピードを上げ、彼らに合流した。
そして報告も挨拶もしないまま、泡だらけの蝋に手を突っ込んだ。
発見されただけで、死体の数は30を超えていた。
糸の絡まったマリオネットのように手足をめちゃくちゃな方向へ曲げた死体。
交尾中に殺された雄カマキリのように家財を抱えた格好で頭部を失った死体。
ハサミを突き立てられたクマのぬいぐるみのように全身の穴から血と蝋を噴き出した死体。
俺たちは何度も吐いた。
血まみれの死体を直視した群青と俺は何度か失神したし、遠巻きに見守る避難民も白い世界に吐瀉物をまき散らしていた。
作業を続けるうちに臓物の感触や匂いには慣れたが、『目』だけはダメだった。
目をかっと見開いた死体は人間の根源的な恐怖を呼び起こす。
いずれ動き出し、俺たちを死者の世界に引きずり込むのではないかという恐怖。
よくドラマや映画で死者の目を閉じる仕草を見かけるが、あれは安らかな眠りを願ってのことではない。
生きている側が、死者の眼差しに耐えられないからああしているのだ。
そんなことを考えながら、俺は工業用接着剤を思わせる真っ黄色の液体を蝋の大地に吐き散らかした。
結局、俺たちはその場で一夜を過ごさなければならなくなった。
蝋の雪は視界を悪くするだけでなく、地形を変え、肩に降り積もって足を鈍らせる。
この状況で白魔人に襲われたら新たな犠牲者が出てしまう。
最も近くにあり、最も盤石に見える建物は二十階建てのオフィスビルだった。
壁面にガラスを張り巡らせた現代の脆い城。
俺たちは窓を破り、順に中へと侵入する。
コードの這う床。コピー&ペーストしたかのような黄緑色の椅子の数々。
PCにはカラフルな付箋が貼られており、コーヒーカップの中は黒ずんでいる。
蓋を開けたままの栄養ドリンクが横たわるデスクの上では、卓上カレンダーが数か月前の日付で時を止めていた。
死体は道路一つ挟んだ向かいのビルに担ぎ込んだ。
俺たちは黙とうを捧げ、死者に僅かばかりの花を添えた。
自業自得、だった者もいるのだろう。
だがこの中の誰もこんな結末を想像してはいなかったはずだ。
輝かしくはなくとも、幸せな未来へ向けて出発したはずだった。
どんな形であれ、誰かの『生きようとする意志』が踏みにじられた。
そのことに俺は怒りではなく、虚しさのようなものを覚えた。
もう少し声を大きくしていれば。
あるいは、もっと早く動けていれば。
もっと大勢が助かったのかも知れない。
そんな後悔に苛まれながらオフィスビルへ移動する。
数分後、俺が思い浮かべた言葉は実体化して俺の耳に飛び込んできた。
最も大きな会議室に集まった避難民の顔には、様々な負の感情が浮かんでいた。
助かったことを安堵する声はほとんどなかった。
助けられなかった命への憐みと、この先の展望を不安視する声が不協和音となって会議室に響く。
あんた達がもっとしっかりしていれば助けることができたはずだ。
警戒が不十分だったのではないか。
なぜもっと早く動けなかったのか。
蝋に埋もれた物資はどうするんだ。
このままあんた達の指示に従って本当に安全なのか。
再び嘔吐の衝動がこみ上げるような、批難の声が飛び交った。
幸か不幸か、空は鼠色の雲に覆われていた。
まだ午後だというのに世界はほの暗く、白い蝋がべたべたと窓ガラスを叩く。
誰もが疲弊しきっていた。
声を発するのも億劫なほどに。
非難の声も弁解の声も徐々に少なくなり、やがてその場には沈黙だけが残された。
一旦解散となり、避難民たちはビルの各所に散っていった。
曹長の部屋へ向かうのは気が引けた。
自分たちをさんざん罵倒し、批判した相手を命がけで守らなければならない自衛隊員の心中は察するに余りある。
だが、報告は行わなければならなかった。
空気を読むことは大事だが、最重要事項ではない。
空気を読むことで物事は好転しない。
蝋の木。
白魔人の核の行く末。
綿毛。
それらの話を聞いた曹長は組んだ手の甲に額を置いた。
ほう、と淀んだ溜息。
モールを出発した時に比べ、十歳も老け込んだように見える。
「状況は分かった。……で、あいつらの能力は『雷』に『津波』か」
はい、と頷き、分かり切った事実を添える。
「俺たちの能力とは規模が違います。真っ向勝負では絶対に勝てません」
椅子に掛ける曹長はぶんぶんと犬のように首を振った。
心身の疲労を忘れようとしているのだろう。
「我々が銃弾をばら撒けばどうにかできると思うか?」
「はい。……ただ、向こうもそれは分かっていると思います。こっちの射程の外から攻撃してくるんじゃないかなと」
「いや、あの津波を銃で抜くのは無理だ」
群青がハットを手の中で回した。
その手は白い蝋で汚れている。
「さっきの津波には瓦礫も混じってた。それに波をいくつも重ねられたら分厚い壁になる。銃弾はあいつらのところまで届かない」
「ってか、津波に向かって銃を撃つってことは、撃つ側は真正面から津波を浴びるってことになりますよね。……」
能力者が死んだ時、既に発動していた能力がどうなるのか、俺たちは知らない。
能力が消滅するのなら、津波は完全停止する。
しないのなら、津波は銃の持ち主を覆い、飲み込み、噛み砕く。
この能力の正体は不明だが、『津波』がある時ぴたりと完全停止するとは思えない。
おそらく、唇月を殺したとしても彼女が起こした津波は残り続ける。
「打つ手無し、か」
曹長が両手で顔を覆う。
俺は櫛を取り出し、手の中でくるくると回した。
「いや、まったく死角がないとは思えません」
「?」
「あいつらが無敵なら絶対にしないであろう話を聞いてます」
「あ、陽甲ちょっと」
俺は紫苑の制止を振り切り、唇月の提案について話した。
自衛隊を壊滅させれば自分たちの仲間にするという依頼について。
そこから推測される彼女たちの『非無敵性』について。
曹長と群青はしばし絶句していた。
「……それで、これを貰いました」
俺は紫苑を促した。
彼女はやや渋々といった様子でガラス管を差し出す。
中には真っ白な綿毛が一つ。
「軽く振って蓋を開ければ、綿毛がそこら中に飛び散るそうです」
「……」
曹長はじっと試験管の中を見つめていたが、やがて俺に視線を移した。
「どうするつもりだ」
「曹長にお預けします」
ふっと曹長が笑った。
「我々を殺さなくていいのか? そうしたら助かるんだろう?」
「仲間を売るのは色男じゃない」
ぱちんと櫛を開き、髪を梳く。
あの二人に命を保証される。その提案は確かに魅力的な響きを持っている。俺はそれを否定しない。
だがそれは俺の信じる色男の道に外れている。
この心臓の持ち主に誓って、俺は堅実であらねばならない。何よりも生きることに執着しなければならない。
それと同時に、清くなければならない。この心臓の持ち主に誓って、恥ずかしい振る舞いはできない。
唇月に殺されず、しかし、唇月に媚びてもいけない。
難しい問題だ。
だが人生には苦難が付き物だ。
「あの提案をうまく利用すれば、あいつらを負かすことができます」
「……堅実じゃないと思うけどな」
紫苑がぼそりと呟いた。
「いや、堅実だ。全員の知恵を結集してあいつらをひっ捕まえるのが一番、堅実だ」
ガラス窓の向こうで蝋の嵐がびょう、と風向きを変えた。
俺は薄暗い世界に耐えかね、電気ランタンのスイッチを入れた。
「あいつらが来るのは明日の朝です。それまでに対策を練りましょう」
俺はぐるりと全員を見回す。
群青、紫苑、曹長。
今は別室にいるが、優姫も無事だし、自衛隊員四人も健在だ。
そして向こうの手の内は読めた。
俺たちが一丸となれば、あの二人にも勝てる。
「勝つのは俺たちです」
「……もちろんだ。誰も負けるつもりはない」
曹長は受け取った試験管を指で弾いた。
「しかし……陽甲がまともで良かったな。危うくカミさんの顔を皆に見せちまうところだった」
「奥さん、怖いんですか」
「怖くない奥さんなんかいないんだよ」
「何で私見るんですか曹長」
群青だけは顎に手を置き、じっと考え込んでいた。
「あいつらの依頼を逆手に取るのも良い手ではあると思うが……やっぱり迎撃より奇襲をかけた方がいいんじゃないですか、曹長」
「いや、この雪では外に出ることはできない。それに唇月と妃はとっくに移動しているだろう」
「曹長がいなくなったら避難してる人たちもぶーぶーうるさいだろうしね」
「かといってバカ正直に迎撃するのはな……。あいつらの能力は『飛び道具』だ。近づかせること自体がリスクになる」
「狙撃とかできませんか、曹長」
「そんな装備はない」
「隠れてズドーン、なら狙撃銃なんて要らないんじゃないですか?」
「遮蔽物が少なすぎる。それにこれほど世界が真っ白だと身を隠すのはひと苦労だ。装備によっては光の反射で居場所を特定されかねない」
曹長はしばし考え、こう言った。
「唇月は『自衛隊がいなくなっていたら陽甲が仲間入りを希望しているとみなす』と言ったんだな?」
「はい」
「だったら我々がこの服を脱げばいい」
とんとん、と曹長が迷彩服を示した。
「あ」
「なるほど」
あまりにもシンプルな答えに俺たちは拍子抜けした。
確かにそうだ。
あの二人が『自衛隊員』を認識する方法は迷彩服と火器だ。
その二つさえ隠してしまえば、曹長たちは一般人に紛れることができる。
「明日の朝、あの二人が来る。迷彩服の男はいない。向こうは油断する。陽甲が交渉を持ちかけて、隙を見せたところで我々が――」
「待ってください。それだけじゃダメです」
群青だった。
「あいつらはこの『蝋の綿毛』を渡している。その意味を考えるべきです」
「意味?」
「蝋を操る能力があるとは言え、陽甲や俺が曹長たちを殺せるわけがない。向こうはそう考えている。だから綿毛を渡したんです。『これを使って自衛隊を殺せ』ってことでしょう。つまり――」
「……白魔人が必要、か」
はい、と群青が頷く。
「曹長たちの服と武器を隠して、白魔人を最低でも一体、あわよくば二体用意する。その状況を唇月たちが確認して初めて奇襲をかける余地が生まれます」
「じゃあ誰かに吸ってもらう?」
「ダメだ」
俺はぴしゃりと言い切った。
「何で? どうせ助かるのに」
「助からないかも知れないだろう。もし向こうに策を読まれたら戦闘になる。うかうかしている内に白魔人がどこかへ逃げ去ったりしたら、その人は死ぬ。そんな役目を誰にさせるんだ」
沈黙が流れた。
さすがに、こればかりは誰も引き受けたがらないだろう。
それに強制することもできない。
そもそも、生理的に受け付けなかった。
誰かを意図的に白魔人に変えるという行為が、だ。
あの女の言う『気持ち悪い』に当たる。
俺の哲学で言うならば、『色男』ではない。
「もっと良く考えよう」
口を開いた俺と、群青の視線がかち合った。
「ああ、そうだな。優姫さんも呼ぼう。知恵を借りたい」
窓の外は暗く、吹雪にも似た蝋が降り注いでいる。
薄暗いビルのあちこちで蝋に火が灯されていた。
人々は俯き、目を伏せていた。手を合わせる者もいる。
宗教的な儀式を思わせる光景。
俺は火を避けるように廊下を進み、優姫を探した。
彼女は小さな保険会社のオフィスにいた。
いくつかの家族が身を寄せるその部屋は、他より少し温かかった。
優姫は小さな子供の手当をしているところだった。
傷口を縫合する手つきは淀みなく、鼻歌すら聞こえる。
「はい。これで大丈夫」
ジャケットを失った彼女は迷彩ビキニにジーンズ姿だった。
子供の目には毒だろうが、だからといって彼女に上着を貸す者はいない。
皆、布の一枚、水の一滴すら惜しんでいる。
「安静にしててくださ~い」
子供の手に飴を握らせた優姫が振り返る。
「あ。陽甲。ごめんね? 会議出れなくて」
優姫は頭部に包帯を巻いていた。
聞いたところによると、彼女は最後まで生存者を穴に引っ張り込もうとしていたらしい。
結果として僅かに逃げ遅れた。
押し寄せる瓦礫で額を割り、そのまま意識を失っていたらしい。
つややかな胴体もあちこちにガーゼが貼られ、包帯が巻かれている。モールで負った傷だ。
初めて会ってからまだ数日しか経っていないというのに、彼女は様変わりしつつあった。
傷だらけの姿に。
俺は移動しつつ一通りの情報を伝えた。
「……何それ。超むかつく」
普段は柔和な印象のある優姫の顔に怒りが滲んでいた。
「気持ち悪いとか悪くないとか、そんな理由であんなこと……」
まったくもって同感だ。
あの二人と、二人がやったことを最低と言わず何と言えばいいのか。
だが現実問題として、ここにいる全員があの二人に命を狙われている。
明朝の襲撃をどうにかして防がなければ、全員で蝋の下に埋もれることになる。
逃げ出す、という選択肢は無い。
蝋の吹雪の中を移動することはできないし、吹雪が止んだところで白魔人に襲われる危険性の方が高い。
それに首尾よく港へ逃げ込んだところで、船を呼び寄せる合図は『信号弾』だ。
唇月と妃は間違いなくそれを発見する。
発見されたら最後、特大の津波が背後から俺たちを襲う。
最悪の場合、船を乗っ取られ、海上要塞に綿毛をまき散らされる。
「……」
海上要塞。
その単語を思い浮かべた俺は気が進まないながらも一つのことを報告した。
彼女の仲間が既に殺されているか、白魔人化している可能性。
優姫は消沈するかと思ったが、予想外に首を振った。
「大丈夫だよ。みんな凄いから。ちょっとやそっとじゃ死んだりしないって」
「そうですか」
なら、何も言うまい。
優姫の仲間のことだ。彼女自身が一番よく分かっているはず。
窓を見る。
暗い世界と建物を隔てるガラスに俺たちの顔が映っていた。
「しかしこっちの人を裏切れって……バカな話だよね」
「ええ。話にならない」
人に裏切りを唆すような奴をどうやって信用しろと言うのか。
連中のお友達になったところで、遅かれ早かれ使い捨てられるのがオチだ。
(――――)
いや、そうでもないかも知れない。
妃はともかく、唇月は美学ありきで行動している。
おそらくその場その場の利得より、己の美学に照らした是非で人間を判断する。
彼女の機嫌を損ねない限り、さほど悪い扱いを受けることはないのかも知れない。
だが、彼女は外道だ。
どれだけ理屈を塗りたくろうともそれだけは覆せない。
安寧を約束されようとも外道に従うつもりはない。
俺は騙し討ちに必要となる各種条件を優姫に伝えた。
「自衛隊をいなくさせて、かつ白魔人を……か」
「綿毛を使わなかったと言い訳してもいいんですが、それだと俺たちが自力で自衛隊を打ち負かしたことになる」
「ん。それは不自然だよね」
「はい。だから――」
甲高い悲鳴が俺たちの会話を中断させた。