White White Suicide
二人の女、妖墨唇月と妃が白い大地を滑るように遠ざかっていく。
小型津波から這い出した俺は唾を吐いた。
蝋の混じったそれは、ナメクジのようにぴたんと地で跳ねる。
思い出したようにばくばくと胸が高鳴り、肉の剥げかけた親指からリズムに合わせて血が流れる。
ざざざ、と。
サメの背びれを思わせる小さな津波の群れが地に消えていく。
「うぶふぉっ!」
身を起こした群青は顔から胴まで真っ白に染まっていた。
紫苑はひっくり返っており、上半身を蝋に埋めている。
二人とも雪原で喧嘩した子供のようだ。
「津波の規模まで調整できるのか、あいつは」
群青の全身を覆う蝋が無数のナイフと化した。
バナナの房に見紛う蝋の塊から、しゃららら、とナイフがこぼれ落ちる。
紫苑もまたムカデの大群の中から身を起こした。
「あの根暗レズ殺す……!」
その根暗レズは既に数十メートルも離れている。
ちょっと走ったぐらいで追いつける距離じゃない。追いつくつもりなら『追跡』が必要だ。
――『こっちに来たら、いいものを見せてあげます』。
あの言葉は罠ではなく本当なのか。
本当だとして、何を見せるつもりなのか。
「群青。曹長と優姫さんを頼む」
俺は既に一歩を踏み出していた。
櫛を開こうとしたが、今やその時間すら惜しい。
「お前は?」
「追う」
「放っておこうよ。曹長たち助けるのが先じゃん」
首を振る。
「あいつらの能力は標的から離れれば離れるほど強くなる。ここでモタモタ蝋を掘ってる間に津波を出されたら今度こそ殺される」
妃の『雷』。
唇月の『津波』。
最大射程と有効射程がどれほどなのかは分からないが、どちらも俺たちを殺すには十分すぎる武器だ。
じっと目を凝らすと、彼女たちは時折こちらを振り返っていた。
俺たちがついて来るかどうか、確かめている。
意図は不明だが、あの二人は本当に俺たちに何かを見せたいらしい。
その『見せたい』は願望ではなく命令だ。
誰かがついて行かなければ反抗とみなされ、津波を起こされる危険性が高い。
「陽甲。追う人間も必要だが、残る人間も必要だ。優姫さん達が出てこないのが気になる。……誰がどう動く?」
「そ、そんな大事なこと、群青が決めればいいじゃん……」
「俺は指示待ち人間なんだ。悪いな」
(……)
色男とは堅実な男のことだ。
いや、俺でなくても同じことを考えるだろう。
津波を起こし、雷を発生させ、平然と殺人未遂をやってのける二人組について行くだなんて狂気の沙汰だ。
下手をすると先ほど拾った命をまた投げ捨てることになるかも知れない。
できれば俺自身はここに残り、火器を持つ曹長たちと合流したかった。
だが冷静に考えると、彼女たちを追うべきなのは群青ではなく俺だ。
「群青。残ってくれ」
「……分かった」
「陽甲。私が残った方が良くない? 向こう、犬女いるし。男二人の方が……」
「いや、紫苑一人で残って白魔人が出たら詰みだ。残るのは俺か陽甲のどちらかだ」
と言うか、と群青は呆れた目で紫苑を見る。
「お前、陽甲と別行動できるか?」
「できまセーン」
「だったら二人で追跡してくれ。それが一番効率が良い」
見れば唇月と妃はぐんぐん遠ざかっている。
すぐに追わなければ見失うおそれすらあった。
「行くぞ紫苑」
オレンジ色のインナー一枚では少々肌寒かったが、色男は心が温かいので問題ない。
ついでに言えば俺はデブなので体も温かい。歩く暖房器具だ。
しゃああ、と滑走したところで群青の声が追いついた。
「陽甲。……戻って来いよ」
返事をせず、俺は手を振った。
濡れた髪から汗が落ちた。
今や豆粒ほどに小さくなった唇月と妃はかつて川が流れていた辺りを越えていた。
その先にあるのは繁華街だ。
川はすでに影も形も残っておらず、すっかり蝋に埋もれている。
並木はへし折れ、落下したラブホテルの看板が顔を覗かせ、かろうじて埋没を免れた石橋にカラスが止まっていた。
「うっわ。何これ」
白い道路に黒いスプレーで文字が書かれている。
文字は大きく、滑走しながら一字一字を追う。
「『何でも嫉妬の一言で済ませる奴』……?」
その少し先のビルの壁面には『サフラン』、橋げたには『週刊誌』。
ラブホテルの看板には『貰い物の香水』。
木の幹には『家事が崇高だと思ってる主婦』。
「『気持ち悪いものリスト』みたいだな」
「あいつのやってることが何よりも気持ち悪いんですけど……」
しゃああ、と滑走する俺たちの遥か前方で二人の姿がアーケード街へ消える。
建物のほとんどが蝋に埋もれていたが、それ以上に黒く焼け焦げた家屋が目についた。
おそらくここに籠城した誰かが火を使ったのだろう。
「! 陽甲」
紫苑につられ、横を見る。
蝋に埋もれた川にゴミ袋のようなものが重なっていた。
よく見ると、人間だった。
犬やカラスがそれに集っており、肉を奪い合っている。
「ぅ」
紫苑にハンカチを渡す。
親指から流れる血は樹液のように固まりつつあった。
「こっち側はこんなことになってたのか」
物資があることは分かっていたが、俺たちは繁華街方面へ足を伸ばさなかった。
この辺りにはガラの悪い店が少なくないからだ。
白魔人も恐ろしいが、暴徒と化した人間の方がはるかに厄介だ。
俺たちが探索を後回しにしている間に、この辺りは死の街と化したらしい。
アーケードをくぐった瞬間、目に染みるほど強烈な悪臭が鼻をつく。
世界を覆った蝋でも隠し切れない死臭と腐臭。
「うっ……!」
紫苑が鼻を摘まんだ。
俺も思わず顔を顰め、辺りを見回す。
林立するビルはあちこちが蝋に埋もれ、ケーキから覗いたフルーツ片のようにも感じられた。
晴れた日には解放されていたドーム状の屋根が破砕されており、傾いた家屋の窓からは椅子の脚が突き出している。
イタリアンレストランの入ったビルは三階まですっぽりと蝋に埋もれ、スキージャンプの滑走台のように見えた。
ハンバーガー屋と焼肉屋の入ったビルは傾き、書店とコーヒーショップの入ったビルにもたれかかっている。
ブティックには電柱が突き刺さっている。
回転寿司屋は影も形も見えない。
民芸品店は内部からも蝋が噴き出している。
俺たちは一階の高さにある地面を駆け上がり、三階の高さから二階の高さへ滑走する。
世界は上下に景色を変え、ぼろぼろと蝋の破片が転がった。
傾いたビルは俺たちを見下ろす巨人のようにも思われた。
いつ、どこで、何が崩れるとも分からない不穏な世界を俺たちは走る。
アーケードのあちこちに唇月が残したと思しき落書きがあったが、ほとんどは蝋に埋もれかけているようだった。
(……?)
ポーチのジャムを掬い、口に運ぶ。
ふと、奇妙な点が目についた。
「白魔人がいないな、この辺」
「え? あ、本当だ」
この辺りの探索を俺たちは後回しにしていた。
それにこの惨状、大勢の白魔人がうろついていたことは想像に難くない。
では今、そいつらはどこにいったのか。
「あの二人が助けたのかな」
「……そんな感じには見えなかった」
だが、現に白魔人はいない。
アーケードを徘徊するのは人の味を覚えた猫ぐらいだ。
何か、嫌な感じがした。
あの二人は人間を白魔人に変える『蝋の綿毛』を持っていた。
もしかすると俺たちの知らない何かを知っているのではないか。
例えば、中身を抜かずに白魔人を無力化する方法を。
(……)
やがて、俺たちの視界に二人の姿が映った。
唇月と妃が姿を消したのは、アーケード街を抜けてすぐの場所に建つレンタルショップだった。
目立たない佇まいだが、外観はそれなりに立派だった。
ハリウッド映画の『レンタル開始』の垂れ幕は下半分が埋もれており、タイトルが読めない。
建物は二階まで完全に蝋没しており、二人の女は三階の非常口から中へ入っている。
「陽甲。見える?」
「ああ」
紫苑に言われるまでもない。
俺たちは地上数メートルの高さに立っているので、『ソレ』がよく見えた。
屋上に、何かが生えている。
桜という植物は、『赤』とも『白』とも縁が深い。
散る花びらは時に炎に見立てられ、血に喩えられる。
またある時は雪のようだと表現され、滝に舞う白泡にも例えられる。
今、俺たちの眼前に生える桜は純白だった。
レンタルショップの屋上には簡易ステージが設けられており、丸テーブルや椅子がひっくり返っていた。
かつてはプロモーション活動やイベントに使われていたのだろう。
その最奥に奇妙な大樹が生えている。
白樺よりも白い、氷山のごとき冷たさを帯びた真っ白な桜。
花はついておらず、蕾らしきものがぽつぽつと生えていた。
白魔人ではない。
蝋を浴びた普通の樹木でもない。
おそらく純粋な『蝋』の木だ。
「綺麗でしょ? この『蝋桜』」
唇月は既に妃から降りていた。
黒いスカートが翻り、黒タイツからぱらぱらと蝋が剥離する。
長い黒髪は生き物のごとく緩やかに揺れていた。
つかつかと歩み寄った少女は木の幹に触れる。
「私が作ったんですよ、これ」
「作った?」
「カゲロウが最後にどうなるか、知ってます?」
「……カゲロウ?」
「虫のことじゃありませんよ。『影蝋』。人間を核にする化け物のことです」
「白魔人のことか」
「ホイップマン……」
唇月の顔に薄笑みが浮かぶ。
「そっちの方がいいですね。じゃあ私もそう呼びます」
俺と紫苑の傍に立つ妃が、そっと丸椅子を置いた。
座るよう促され、腰を下ろす。
「白魔人の中身はいつか死にます」
知っている。
助けた時には既に冷たくなっていた、ということが過去に何度かあった。
おそらく取り込まれた人間が生存できるのは1週間ほどなのだろう。
「『核』が死ぬと、周囲の蝋がその人間を完全に取り込むんです。……こんな風に」
少女が枝に触れた。
俺は目を凝らし、息を呑む。
桜の幹から伸びているのは枝ではなく、人間の腕だった。
「!!」
俺が桜だと思っていたものは、太く白い幹に人間の手足を接合したものだった。
伸びる腕が枝で、開いた五指が小枝だ。
いや、手足だけではない。
枝の付け根や幹の各所には人の顔が浮かんでいる。
真っ白な蝋と化した人間はどれも苦悶の表情を浮かべていた。
「……!!」
俺は思わず後ずさり、紫苑は悲鳴を押し殺す。
「大丈夫です。もう死んでますから」
唇月はハタキを手に蝋の桜へ近づいた。
ぱっぱっと軽い所作で股に溜まった蝋の雪を落としていく。
「とても気持ち悪い人たちでしたが、死んだらこんなに綺麗です」
俺はほとんど無意識に懐の櫛を手にしていた。
ぱちんと開き、髪に入れる。
いささか場違いな仕草であることは理解している。
だが少しでも気を抜くと彼女の狂気に取り込まれてしまいそうだった。
俺はいつものように髪を梳いた。
自分の正気を確かめるように、そうした。
「何で――」
口の中がカラカラだった。
「……何で、そんなもの作るんだ」
「綺麗だからです」
唇月はテーブルに置かれたガスコンロのスイッチを入れた。
園芸用のハサミを炙り、スイッチを切り、ぱちんぱちんと蝋の枝を剪定している。
どうやらこうして『蝋桜』を作ったらしい。
完全な蝋燭と化した人間を切り刻み、組み合わせて溶接したのだろう。
気が触れているとしか思えなかった。
今すぐそいつを殺せと脳内で警鐘が鳴ったが、背後に立つ妃の存在感がそれを許さない。
やむをえず、俺は唇月と、彼女が愛でる蝋の桜を見つめる。
「綺麗であるということは、何よりも大事なことです。たとえ、世界がこんな風になっても」
「待って」
紫苑が口を挟んだ。
ぱつん、とハサミの間から人間の指が落ちる。
「白魔人は時間経過で自然死して、その時に……人間の形をした搾りカスを残す、ってことでいい?」
「そういう解釈で問題ないと思います」
ずりずりと椅子を運んだ唇月はそれにひょいと乗り、背伸びをするようにして高所の枝を切っている。
黒板の頂上付近を拭こうとする学級委員を思わせた。
犬用の口枷を嵌めた妃はその様をうっとりと見つめている。
「これを作ったことについてですが、一応、ちゃんとした理由もありますよ」
ぱちんとハサミが一度噛み合った。
んしょ、と椅子から降りた唇月は小さな花のようなものを手にしていた。
それが蝋の木に生える蕾の一つだと気づいた俺はふと疑問に思う。
この桜の木を構成しているのは人間の手足だ。
花など咲くはずがない。
「死んだ白魔人からはこれが取れます」
唇月が示した物体はタンポポに似ていた。
花の咲いた黄色いタンポポではなく、風を待つばかりの白いタンポポ。
つまり、綿毛。
「! まさかこれ――」
「はい。人間を白魔人に変える綿毛です」
黒縁眼鏡の奥で光沢の無い瞳が揺れる。
あなたのお友達が吸ったものですよ、とその目が語っている。
「完全に蝋化した人間の全身にはこれがびっしり生えるんです。そして風が吹いたらびゅおおって飛ぶんです」
「……。ウイルスか」
「いえ、カビに近いと思います。……定義はさて置き、一つだけ分かっていることがあります」
気づけば俺は食い入るように彼女の目を見つめていた。
「『影蝋』は伝染します」
「……」
唇月はくつくつと肩を震わせた。
「普通、蝋化した人間は地面に横たわった状態で見つかるんですが、それだと効率が悪いんです。風が吹いた時にあまり高い場所まで綿毛が飛びませんから」
効率。
つまり、人を蝋化させるための効率。
蝋桜を見る。
文字通り樹状に広がった枝は、強風を受けると大量の綿毛を飛ばすことのできる造りに見えた。
「お察しの通りです。この桜があるととても効率よく、気持ち悪い人を殺せます。風上の高所に設置するのがベストです。……学校、病院、公民館。どんな場所に籠城してても、人は絶対に資源を取りに外へ出ます。その時に蝋の綿毛を吸って自滅するんです」
唇月は俺の目を覗き込む。
「初めから大量の備蓄に囲まれていたあなた達は例外でした。でも外に出ないのなら、私たちが中に入り込めばいいだけ。そこでこれをふうっと――」
「……。ちょっと待て。まさかお前」
「はい。この辺りにもう人はいませんよ。だいたい殺しちゃいましたから」
不思議と、怒りの感情は湧き上がらなかった。
世界のどこかで誰かが死にました、とニュースで伝えられる感覚に似ている。
交通機関が寸断され、電話とネットが途絶え、テレビもサイレンも死んだ地球上で俺たちの『世界』はあまりにも狭い。
ただ、虚無感のようなものは感じていた。
優姫の仲間が向かった先は白魔人の巣だったということだ。
それはつまり、彼らも死ぬか白魔人化した可能性が高いということを意味する。
落胆に近い感情を抱く俺を覚醒させたのは唇月の言葉だった。
「風上からちゃんと狙えば、海の上にもばら撒けると思います」
顔を上げた俺は唇月の黒曜石の瞳を見つめていた。
「船、来てますよね」
「……」
「それもただの船じゃないですよね。望遠鏡で見ました。沖合にすごくすごく大きな何かが来てます。戦艦ですか?」
「――」
「隠さなくてもいいですよ。あの水着の人が生存者を助けに来たんですよね? だからみんなで海に向かって移動してるんですよね?」
俺の耳に唇月が顔を寄せる。
「私も行きたいなぁ」
声の裏に途方もない悪意が読み取れた。
こいつ、今までの行いを懺悔して、俺たちに同行したいと考えているわけじゃない。
海上要塞に乗り込み、そこで蝋の綿毛をばら撒くつもりだ。
逃げ場のない海の上で大量の白魔人が暴れたらどうなるかなんて想像するまでもない。
あそこには海水を真水に変える設備があると聞くが、それも潰されてしまうだろう。
「あそこにいる人たちがお前に何をしたんだ……!」
俺は声を荒げたが、唇月は怒るどころか微笑さえ浮かべていた。
「特に何も。でも、生きている人間の数はできるだけ減らしたいんです。世界はシンプルな方が美しいですから」
「違う」
「違いませんよ」
数秒、俺たちは見つめ合った。
火花を散らしたわけではなかった。
ただ、俺はそこに深い溝の存在を感じ取っていた。
唇月は俺から顔を離し、紫苑をちらと見る。
「学校や病院にも私たちと同じ能力を持ってる人がいました」
「殺したのか」
「はい。王様みたいに振舞ってましたから。女の人を奴隷にしてる人もいましたね。そういうの、気持ち悪いです。人が増えると、そういう気持ち悪いことが起こります」
またそれだ。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
こいつの口から出てくるのは美意識と主観の話ばかり。
幼稚な物差しだ。
気持ちいいとか気持ち悪いとか、そんなもので世の中や人間を――――
――俺と何が違うんだ。
(――――)
「回りくどい話はここまでにします」
唇月の言葉で俺は我に返る。
「さっき、その人にやめろって言ってくれましたよね」
群青の剣を手にした紫苑が唇月を殺そうとした時のことらしい。
「生き死にが掛かっているのにあなたはその人を止めました。なぜですか?」
「……」
「妃が止まらなくなるとは思いますが、相討ちに持ち込めば少なくとも『津波』を生み出す私を排除することはできたはずです。それをしなかった理由は?」
なぜ?
決まっている。
堅実な俺は相討ちなど望んでいないからだ。
相手を殺して自分も死ぬ。これほど愚かな行為もないだろう。
それに相手が先に矛を収めた状況で襲い掛かるのはフェアじゃない。
フェアと言ってもスポーツマンシップのことじゃない。戦場で戦士同士が交わす無言の約定にも似ている。停戦のラッパが鳴ったら銃は下ろされなければならない。
一言で言えば――――
「色男じゃないからだ」
「はんさむ?」
「色男だ」
ぱちんと広げた櫛を髪に入れる。
唇月は真意を測るように目を細めた。
「ナルシスト、ですか?」
「ナルシストじゃない」
俺は俺に惚れたりしない。
俺にとって俺とは磨くべき鏡であり、研ぐべき刀だ。
「……」
「……」
唇月の顔に薄ら笑いが浮かぶ。
嘲りは滲んでいなかった。
「陽甲さん、でしたっけ」
「何だ」
「そういうの、好きです。綺麗であろうとする意思は尊重されるべきです」
善悪の区別がまともについていないので気が触れているのかと思っていたが、違うらしい。
彼女は誰よりも自分の美意識に忠実で、それゆえに、自分の美意識に照らして好ましい者の存在に敏感なのだろう。
先ほどの攻防の最中、俺は彼女のお眼鏡にかなったらしい。
――複雑な気分だ。
「お友達になりましょう」
唇月の優雅な言葉に俺は睥睨を返した。
「何を企んでる?」
「何も。私は綺麗なものを集めたいだけです。モノも、人も。……ただ、条件があります」
血の色の唇が蠢く。
「あなた達の同行者の中に自衛隊がいましたよね? あの人たちを殺してきてください。それが条件です」
「……」
「ご存じの通り、私は蝋を『津波』に変えます。妃は『雷』です。私たちとお友達になったら、この世界を生き延びる確率はぐんと上がります」
「断ったら?」
「あなた達は死にます」
即答。
「私たちはあなた達より少しだけ早く、この世界に順応しました。能力だけでなく、いろいろなことを知っています」
唇月の肩の向こうに蝋桜が覗いた。
誰も知らなかった白魔人と蝋の木に関する事実。
影蝋という名前。
おそらくこの二人は俺たちより過酷な環境を戦い抜き、ここにこうして立っているのだ。
男だからとか女だからとか、そういった話ではない。
純粋な『生きる力』に関して、俺たちは彼女たちに大きく劣っている。
「お友達になれないのなら、死んでもらいます」
すっと妃が顔を寄せた。
彼女の手にはゴム栓で蓋をされた小さな試験管が握られている。
「蓋を開けて――」
妃が初めて口を利いた。
役者のように低い声の女だった。
「軽く振ればそれでいい。見た目以上に軽いから、口で吹く必要は無い。蓋を開けたら口を閉じて息を止めて」
「それを使って自衛隊を片付けてきてください」
ああ、と唇月は続けた。
「何だったらあのホストっぽい人も、一緒にお友達にしてあげてもいいです。妃。三つ差し上げて」
「はい」
妃は二つ目の試験管を俺の手に握らせ、更に一つを紫苑に渡した。
紫苑はじっと試験管を見つめていた。
「唇月……さん」
紫苑が初めて口を利いた。
「今、世界に何が起きてるの?」
「私にもわかりません。分かっているのはこの『蝋の木』が世界のあちこちに生えて、空から蝋の雪が降って、ごく限られた人間だけがこうして蝋を操れることだけです」
「どうして蝋が降ってるのか、分からないのか」
「はい。正確な理由は分かりません」
ただ、と唇月は空を見上げた。
薄ら笑いが引っ込んだ。
「地球が自殺したがってるからじゃないかな、って思います」
数秒、俺と紫苑は呆然とした。
はっと我に返った俺たちは互いの顔を見、唇月を見る。
「……自殺?」
「はい。地球は生き物だってよく言われるじゃないですか」
星を語る学者のように唇月は空に手を伸ばす。
「地球が人と同じか、それ以上の知性を持っている生き物なら死にたくなることもあるはずです。……環境破壊がどうとか、増えすぎた人への罰がどうとか、そういうちっぽけなことじゃなく。ただ単に、ふわっと死にたくなることもあるんじゃないですか?」
「その結果が蝋なのか。地震でも、雷でも、津波でも、火山の噴火でもなくて」
「天災で死ぬのは生き物だけです。地球自身はそんなものじゃ死ねません。だから、蝋なんだと思います」
「……」
「蝋で体を重くして公転速度を遅らせようとしているのか、マントルに引火させたいのか、蝋がたくさんあると重力が歪んでぽーるしふとが起きるのか、それとも単に人間同士の核戦争を誘発させようとしているのかは分かりません。ただ、この星はきっと死にたがっているんだと思います。私たちは宇宙船地球号の心中に巻き込まれたかわいそうな生き物です」
ロマンチックな話だ、と思った。
目をキラキラさせているのはセフレだけだが。
「まあ、私たちは死ぬ気はありませんけどね」
唇月と妃はくすくすと陰気に笑った。
「死にたがっている地球の上に住んでるのにか」
「生きることを簡単に諦める。これ以上に気持ち悪いことはありません」
残念ながら、同感だ。
それは色男でもない。
話は、それで終わった。
少女は曇天の空を見上げる。
「天気が崩れそうです。明日の朝、もう一度そちらに行きます。その時、自衛隊がいなければお友達になりたいのだと判断します」
「いたら?」
「津波を起こします。今度は何度も何度も起こすので、防御も回避もできませんし、させません」
「……」
「私と妃がその気になったら、たくさんの人を殺せます」
妃が手で出口を示した。
「色男の名に恥じない行動を取られてください」




