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White White Feeling

 


 少女が地に手をつく瞬間、俺が感じたのは絶望ではなかった。



 片手にナイフ、片手にライターを持っていた彼女が『手をついた』。

 それはつまり、少なくともどちらか一方を手放したということだ。

 どっちだ。

 俺のライターか。群青のナイフか。


 ――決まっている。

 こういう時、割を食うのは伊達男イケメンではない。色男ハンサムだ。

 色男ハンサムはハズレくじを引く運命にある。


「……!」


 両手を目に添え、ぎりぎりと瞼をこじ開ける。


 やはり、だった。

 少女はライターの方を手放していた。

 俺が色男ハンサムであるという運命的な理由もあるだろうが、単に彼女がライターに慣れていなかったという事実も影響しているに違いない。


 俺の視線に気付いた傘の少女は僅かに驚いたようだった。

 ミルク色の肌に赤い唇、黒曜石の断面を思わせる光沢に乏しい黒い瞳。

 やや野暮ったい黒縁眼鏡をかけた彼女は「委員長」ではなく、「飼育委員」「園芸部」「手芸部」あたりを連想させた。


 淡白な優しさを感じさせる顔。

 この顔が、100人近い人間を蝋の津波で殺そうとした。


「っ」


 伸ばそうとした手が、軋む。


 紫苑はムカデの色と光沢を見た途端、腰を抜かす。最悪の場合、そのまま過呼吸を起こしてしまう。

 群青は更に深刻で、刃物の切っ先など向けられようものなら嘔吐することさえあるという。


 二人ほど酷くはないが、俺も炎に近づくと全身に鳥肌が立つ。

 血は氷水のように冷たくなり、喉は震え、手足が強張る。

 だから一人暮らしをする今も、火を連想させるガス系の設備は一切置いていない。風呂も調理プレートも暖房もすべて電気だ。


 既にライターの火は消えていたが、脳と網膜にあの色が、光が、揺らめく姿が残っている。

 建物から建物へ、人から人へ乗り移り、触れるものすべてを食う赤い怪物。

 脳裏に残る鮮烈な記憶が俺の心をへし折ろうとする。


 少女が、小さく笑った。


 ずおおお、と辺りの蝋が彼女に吸い寄せられていく。

 群青と紫苑が己の恐怖するモノに近づき、いよいよ悲鳴を上げる。


 俺は――――左親指を噛んだ。

 肉が削げ、千切れるほどきつく。


「っっ!!」


 ぶぱっと口内に血の味が満ちた。

 激痛で目がちかちかする。

 だがほんの一瞬、俺は恐怖を忘れることができた。


 淀んでいた思考が再始動する。

 この少女の能力は『タメ』が大きい。

 今ならまだ、止められる。


 ぱん、と地に着いた手から『炎』のイメージを伝わせる。

 大きくうねろうとしていた蝋が身をじたばたばと暴れさせ、裂けるように四散する。


「!」


 能力と能力がぶつかった場合、「上書き」の法則が適用される。

 つまり後出しの能力が先出しの能力を一方的に潰すことができる。

 彼女はそれを知らなかったのだろう。


「もらったっっ!」


 少女の足元まで『炎』を伝わせる。

 どぶんと彼女は膝まで蝋に埋もれ、そのまま腰まで飲み込まれた。


 素早く彼女に飛びつき、背後に回って両腕を締め上げる。

 いやらしい感情などこれっぽっちも抱かなかった。


「群青! 紫苑! 起きろ!」


 女を羽交い絞めにしたままナイフを蹴り飛ばし、ムカデの玩具を蝋に沈める。

 二人はのろのろと立ち上がり、真っ青な顔と真っ白な顔を並べた。


「ぅ、ぅ……」


「かん、がえてもいなかった……」


 歯の根の合わなくなった群青が呟く。


「の、うりょくから弱点を看破、されるのか」


「考えてもいなかったって、甘いですね」


 ひやりとした声。

 俺に羽交い絞めにされた少女はさして動揺した様子も見せず、光に乏しい目をこちらに向ける。


「もしかして、人と戦ったの初めてでした?」


「そうだ。いいから黙ってろ」


 華奢な少女だった。

 体重は四十そこそこではないだろうか。紙のように軽い。

 肉は薄く、骨もひどく脆く感じられる。


 その華奢な肢体を抱いているからこそ分かることがある。

 この女、まったく動じていない。


 俺の心臓はばくんばくんと激しく脈打っているのだが、彼女の胸からは鼓動が伝わって来ない。

 実は死体だった、なんてことはないだろうから平常心なのだろう。

 平常心。

 この状況で。


「……お前、何なんだ」


「はい?」


 少女はアンドロイドめいた仕草で小首を傾げた。

 長い黒髪がさらりと揺れ、蝋の飛沫が黒タイツを汚す。


「私ですか? 私の名前はシンゲツです」


「しんげつ」


「妖しい墨に唇の月。妖墨唇月あやすみしんげつです」


 こちらを向いたその顔に、うっすらと笑みが浮かぶ。


「あなた、名前は?」


「……。嬉野陽甲」


「ヨウコウさんですか。良い名前ですね」


 彼女は気が触れているわけではないし、精神に障害を持っているわけでもなさそうだ。

 なのに、俺はどうしようもない『溝』のようなものを感じた。

 こうして話をしているのに、それが確かに通じているという手ごたえがない。


 じくじくと指が痛んだ。 

 赤い糸のごとく指から手首へ至った血が、真っ白な蝋の海に滴る。


「私、負けるの初めてです」


「最初で最後だ」


 俺は歯を剥いた。


「もうお前は誰とも戦えない。このまま――――」


 俺は言葉を切った。


 このまま、どうするんだ。


 殺すのか? どうやって?

 首を締めるのか。柔らかい喉を親指と人差し指で裂くのか。

 それは俺に許されているのか。

 ――そんなことをして、この心臓の持ち主は喜ぶのか。


 では手足を折れば良いのか。

 まったくダメだ。

 手が地に触れている限り、津波を起こされるリスクがある。

 彼女を完全に無力化するのであれば殺すしかない。


 俺は辺りを見回した。


 嫁尾さんは。優姫はいないのか。

 他の自衛隊でもいい。

 誰か。

 誰でもいい。

 誰か俺に正しい道を教えてくれ。


 この状況、俺は人を殺していいのか。

 俺は――


「陽甲。お前は何もするな」


 見れば群青が蝋の剣を握っていた。

 目には怒りが覗いている。

 己の弱点を逆手に取られたことへの怒り。

 白魔人に変えられたことへの怒り。

 姉の死という、最もデリケートな部分に触れられたことへの怒り。


「俺がる」


「へえ。いいんですか?」


 唇月が呟くと、群青は忌々しそうな目を向けた。


「私を殺した瞬間、あなたは人殺しになりますよ」


「それは知らなかった。教えてくれてありがとう」


 群青の顔が怒りに歪み、剣が振り上げられる。

 唇月の口が動いた。


「『一度やったやつは二度目もやる』。それが社会の鉄則です」


 ぴたりと群青が手を止める。


「義憤に駆られた殺人であっても、殺人には変わりありません。同じ状況に立たされた時、普通の人は対話を試みるけれど、その人だけは殺人を選ぶ。そんな風にあなたは解釈される。たとえあなたが『この一回だけです神様』と願って人を殺したのだとしても、世間はそうは見ません」


 唇月はどことなく億劫そうに告げた。


「いいんですか? 今ここで私を殺したら、あなたは『敵対した相手を最終的に殺す奴だ』と思われますよ。その辺の地下にいる人たちだけでなく、この二人にも。議論が噛み合わない時、話が平行線になった時、こいつは人を殺すんだって思われますよ。……人と人との関係は互いが互いを殺さないことを前提に成り立っています。その前提をあなたは自分で崩すんですか?」


 違う、と言いたかった。

 だが言えば言うほど白々しい。

 俺はただ群青を見つめることで誠意を示した。


 だが唇月の方が早かった。


「それに殺人はストレスを伴います。具体的に言うと、5年ほど休みなく働き続けた肉体労働者が抱える、漠然とした将来への不安感と、疲労感と、焦燥感と徒労感を足したほどの感覚だそうです。それほどの強大なストレスを抱えて、あなたはこの世界をたくましく生きていけますか? ただでさえ刃物に怯えるハンディキャップを持っているのに。あなたは私を殺すことに自分の人生を賭けられますか?」


 群青の手が完全に止まった。

 情けない仕草ではあったが、咎める気にはなれなかった。

 俺自身、彼女を殺しあぐねているのだから。


「!」


 群青の剣を掴む者があった。


 紫色のカーディガンを白い蝋で汚した少女。

 世間の目など気にしない俺の従妹。

 紫苑が剣を奪い取り、無言で少女に肉薄する。

 目には殺意。


きさき


 はっと気づいた時には既に、グレーのパンツスーツ女がそこに立っていた。

 彼女は紫苑の首に音もなく太い両腕を絡ませ――


「やめなさい」


「……」


 きさきと呼ばれた女は紫苑を絞め殺す数秒手前でぴたりと静止した。

 そして唇月の下へ犬のようにすり寄る。


「いい子」


 マズルガード越しに口と顎を撫でられた妃はにっこりと微笑んだ。


 俺は決断を下さなければならなかった。

 彼女たちを殺すか。殺さないか。


 殺す場合、高確率で相討ちになる。

 今の動きを見る限り妃は大暴れするだろうし、唇月は破れかぶれの津波を繰り出し、辺りをめちゃくちゃに破壊するだろう。

 当然、俺たちも無事では済まない。


 殺さない場合、仕切り直しとなる。

 奇襲のメリットが消えることで俺たちは窮地に立たされるが、同時に一つの可能性が見えてくる。

 和解あるは交渉の可能性。

 彼女たちの方が力は強いが、物資はこちらの方が多い。こちらには船の情報もある。


 俺は――――蛮勇を冒さない。

 堅実な道を選ぶ。


「……紫苑。剣を下ろせ」


「でも……!!」


「今、俺たちは見逃されたんだ。こっちも見逃す。一度だけ」


 唇月は無表情だった。

 笑いを押し殺しているようにも見えた。


 ひょう、と。

 一陣の風が白い大地を撫でた。


 津波に覆われた世界は死んだように静かだ。

 優姫も嫁尾曹長も顔を出さない。ほかの自衛隊員も。

 死んでしまったのか。逃げ遅れて見当違いの場所に埋もれているのか。


「……お前ら、何なんだ?」


 俺の問いの意味を唇月は勘違いしたらしい。

 ああ、と今更のように隣の女を示す。


「彼女の名前は『きさき』です」


 グレースーツの女は特に頭を下げるでもなく、頭二つは小さい唇月に顔を寄せる。

 髪に手を入れられた妃は嬉しそうだった。


「……姉妹か?」


「セフレです」


 大真面目な顔。

 何と答えれば良いのか分からなかった。

 紫苑が怪訝な表情で口を挟む。


「……レズ?」


「いえ、別に。ただ、妃はとても良い声で鳴くので、今のところ男性が欲しいとは思いません」


 唇月はちらと俺を見やった。


「気持ち悪いですか?」


「いや、別に」


 今時分、同性愛者など珍しくもない。

 それに――


「はい。私も別にレズが気持ち悪いとは思いません」


 でも、と唇月は続けた。


「でもホモはダメです」


「……」


「だって、気持ち悪いですから。毛がごわごわの男が汗だらけで絡んで、はあはあ言いながら欲望を満たそうとする様は、醜いです。行為に終わりと目的があるのも気持ち悪いです」


 唇月の声は決して大きなものではなかったが、静かな蝋の世界によく通った。


「バイセクシャルも女ならいいです。男はだめです。気持ち悪いですから。性同一性障害は大丈夫です。でも、怒った時だけ男の振りをするオカマは気持ち悪いです。かっこいいって言う人、いますけど。自分の都合で男と女を使い分けるのは気持ち悪いです」


「好き嫌いが多いな」


「さっぱりしたと思いませんか」


「?」


「世界が、です」


 唇月が示したのは蝋一色の世界だった。

 ビルは崩れ、家屋は埋もれ、電線は千切れている。

 世界はまるでクリームを塗ったばかりのホールケーキのようだ。

 何も無い。

 逆に言えば、何でも乗せられる。


「とても息がしやすいです」


 唇月は微笑した。

 その瞬間だけ、俺は彼女が自分と同年代の女子であることを思い出した。

 この顔で、彼女はクラスメートと談笑していたのだろうか。

 それとも教室の隅で机に突っ伏し続けていたのだろうか。


「ついこの間まで、気持ち悪いものを気持ち悪いと言ったらいけない世界でした」


「……」


「気持ち悪いじゃないですか。ホモとか、マイノリティとか。大した大学行ってないのに、勉強なんか役に立たないって言う人とか。まだ子供のくせに結婚して妊娠する人。×××人。健康志向で野菜しか食べない人。ゴルフをスポーツとか言っちゃう人。ただの移動手段なのに車をぴかぴかにして自慢する人。相手を黙らせたら自分の意見が正しいと思う人。私立大学。アボカド。ロリコン」


 じっと俺を見つめたまま、唇月は機械のように早口で続ける。


「芸能人。老人向けの無敵剣客小説。緑のチョーク。コンサルタント。謙虚じゃないオバサン。非通知着信。酔っ払い。大学教授。アルバイトリーダー。ゾンビ映画。カラオケ。キャバクラ。生命保険。お見合い。不幸自慢。コンタクトレンズ。ニーソックス。男の考える女性像と女の考える男性像。占い。コメンテーター」


 ぜんぶ、と。

 唇月は呟いた。


「ぜんぶ、ぜーんぶ、気持ち悪いです。本当はみんな気持ち悪いって思ってるのに、みんな無理やり理屈をくっつけるんです。理由があれば気持ち悪くないって言うんです」


「……その通りだろ。感性なんて人それぞれだ」


「感性にも最大公約数があります。そして、万人の感性が尊重される必要はありません。誰もが尊重される世界は、平均的な感性の持ち主が多くの我慢を強いられる世界です。異常なものを無理やり認めさせようとするから、世界があんなに息苦しかったんです」


 ひとしきり言い終えた唇月の口元に、妃がそっと水筒を近づけた。

 ちう、と中身を啜った唇月は頷く。


「気持ち悪いものは、気持ち悪いです」


 だから、と黒曜石の目が俺を見る。


「私は気持ちいいものだけ集めるんです」


 くらくらするほど幼稚な言葉だった。

 実際、群青はよろめいていた。紫苑は間近でゲロを見たような顔をしていた。


 だが、この少女にはその力があった。

 気に入らないものすべてを押し流し、ねじ伏せる力が。


「人は、気持ち悪いです」


「!」


 どきりとする言葉だった。


「あなた達はショッピングモールにいましたね?」


「ああ」


「あなた達が外にいる間、同じだけ汗を流した人間がどれだけいましたか?」


「……」


「プランターに野菜を植えることも、蝋を掘って土を回収することも、鳥をおびき寄せる罠を作ることもできたはずです」


 そう。

 努力は、できたはずだった。

 俺たちがヘトヘトになって帰って来た時、ほとんどの人々は平然としていた。

 やっていたのは家事ぐらい。


 彼らは『助けられる側』だった。

 ずっとその側に立っていた。

 アプローチの方法はあったはずだが、こちら側には来てくれなかった。


「気持ち悪いです」


 唇月は告げる。


「自分の人生が、救われるに値すると無自覚に信じている人間は」


「唇月」


 俺はぞわぞわとカビが生えるような感覚に襲われ、思わず彼女をきつく締め上げる。

 妃が殺意らしきものを向けたが、気にならなかった。


「凡人の命なんて箱詰めにされた20円チョコと同じです。安いし、他と同じだし、美味しくもないです」


「黙れ」


「なのに、特別だって思ってます。自分の人生が光り輝かないわけがないって。そういうの、気持ち悪いです」


「黙れ!!」


 言葉を叩きつけると、唇月は小首を傾げた。

 妃はじっと俺を見つめている。


「……範囲は人によりけりですが、多少は気合で広げることができるそうです」


「?」


「生物型の場合は、ある程度意思を『注ぎ込む』ことができます。物体型の場合は見たままです。現象型の場合は、ぴたりと止めることもできますし、現象そのままを再現することもできます。また、どの能力も共通で、『発生位置』をある程度調整することができます」


 能力の話をしているのだ、と気づく。

 なぜ今、『蝋』の能力について語るのだろう。


「それを踏まえて、知っておいてください。私たちは蝋に『手で』触れる必要はありません」


 ゆらり、と。

 靴裏に触れる地面が揺れる。


「足で触れても、発現します」


「!」


 周囲の地面が揺れる。

 吸い込まれるように。


 はっと見れば、四方八方から小型の津波が押し寄せてくるところだった。

 俺は腰まで蝋に埋もれた少女を見下ろし、気づく。


(まさかこいつ、靴下のどこかに穴を開けていて―――)


 どっ、と真横から津波に衝突され、吹き飛ぶ。

 小さな波に覆いかぶさられ、視界が一時白く染まる。


「陽甲!」


「ぐっ!」


 蝋を押しのけ、顔を上げる。

 群青と紫苑も津波に襲われ、体勢を崩していた。


きさき。抱っこ」


 さっと妃が唇月を抱きかかえる。

 これっぽっちも重そうには見えなかった。


 かかっと妃が爪先を鳴らす。

 踵の盛り上がったブーツにローラーが生まれた。


「こっちに来たら、いいものを見せてあげます」


 妃に抱かれた妖墨唇月が遠ざかっていく。



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