White White Disaster
結論から言うと、俺たちは選択を誤った。
傘の少女とパンツスーツの女は俺たちを殺そうとした『敵』だ。
敵なのだから、殺すか無力化するしかない。
その単純にして明快な解に、俺たちはたどり着けなかった。
曹長は誰何の声を投げた。
優姫は対話を求めようとした。
自衛隊員は動揺する避難民を落ち着かせようとし、俺と紫苑は様子を窺おうとした。
その判断の甘さが明暗を分けた。
少女が地面に手を置いた。
白い大地が揺らめいたかと思うと、壁のようにせり上がっていく。
靴裏の蝋が彼女の方へ引きずり込まれる感覚。
よろめく俺たちの前方で、蝋の壁は家すら覆うほどの高さまでめくれ上がった。
俺の能力に似ているな、と。
ぼんやりそんなことを考えた。
だがあれは『炎』ではない。
真横から見た『ソレ』の形は有名な浮世絵に酷似していた。
葛飾北斎の「富嶽三十六景」。
その名を出された時に誰もが思い浮かべるあの「絵」。
正式名称は「神奈川沖浪裏」。
つまり、傘の少女の能力は。
――――『津波』だった。
時間感覚が引き延ばされているのが分かった。
そこが写真の中であるかのように世界が凍り付いている。
波も。雲も。蝋も。人も。
何も動かない世界。
ただ、脳みそだけが目まぐるしく働く。
正面から見た『蝋の津波』は明らかに家屋二つ分ほどの高さがあり、左右の端はまるで見えなかった。
あまりにも巨大で、あまりにも凶悪な運動エネルギーの塊。
それは獲物を前に開かれた顎のようにも見えた。
避けられない。
止められない。
防げない。
津波に立ち向かい、無事だった人間など一人も居ない。
つまり、俺は死ぬ。
俺たちは。
ここで―――
ごくりと唾を呑んだ瞬間、時が動き出す。
どどおおんと一度地を叩いた津波は無数の手を伸ばしながらこちらへ迫る。
僅かに突き出していた建物が破砕され、巻き込まれ、白い奔流と共に突っ込んでくる。
波頭は砕け、白泡じみた蝋が散る。
ごろごろと渦を巻く波。
瓦礫を巻き込み迫る波。
その圧倒的な存在感を前に、誰もが棒立ちとなっていた。
「っ!!」
硬直しかける体を拳で殴る。
一度。
二度。
三度目で全身が目覚める。
津波に立ち向かって無事だった人間はいない?
あれは津波じゃない。
あれは幻だ。
俺の炎と同じ、蝋燭で作られた偽物。
「群青紫苑優姫ッッッ!!!! 下だああああっっっっっ!!!!」
吠える。
喉がみきみきと裂けるほど強く。
「穴だっっ!!! 穴を作って飛び込め!! 厚い蓋をしろおおおっっっ!!!!」
言いながら、両手を地に置く。
全力。
文字通りの全力。
心臓を絞り、肺を力ませ、筋肉を怒らせるほどの力を込め、『炎』を蝋に投影する。
ぼっ、と。
プール一杯分ほどの面積が燃え上がる。
深さはかろうじて人間が収まる程度。
俺はいまだ凍り付いている周囲の人間に叫んだ。
「飛び込め! 五秒で閉じる! いぃぃぃち! にぃぃぃぃ!!!」
避難民たちは次々とそこへ飛び込んだ。
群青、紫苑、優姫もそれぞれの能力で地面に穴を開けているが、迫り来る波が速すぎる。
斜面を駆ける火砕流のごとき無慈悲さ。
地球が生み出した化け物の一つ。
ごろろ、ぐおおお、という咆哮じみた音が俺の怒号や曹長の指示、女たちの悲鳴をかき消す。
台風や竜巻では決して再現できない、『水』という化け物の咆哮。
地鳴り。地響き。
撹拌された風に髪が暴れ、服は逃げ出すかのようにばたばたとはためく。
「三っっ!! 荷物は捨てろ!! 荷物は取るなっっ!!! 命だけ抱えて来い!!」
なおも荷物に縋る人々に言葉を投げ、俺も穴に飛び込んだ。
壁面に触れる。あとは塞ぐだけだ。
「四ッッッ!!!」
祈った。
全員、穴に飛び込んでいてくれと。
頼むから、荷物なんかのために逃げ遅れる奴が出てくれるな、と。
「……五!!!!」
再び、渾身の力で『炎』をイメージする。
壁や地面の蝋が火炎となって広がり、天井を塞いでいく。
津波の音が少しだけ小さくなる。
(……)
白い天井の向こうに晴天の空が透けていた。
その青を白で塗り潰すかのように、蝋の津波が駆け抜ける。
ぼずっ、ぼずず、と大質量の波が通り過ぎる。
がらがらという音は瓦礫だろう。
子供が親に縋りつき、親が子供をひしと抱く。
男が膝を抱え、女が耳を塞いだ。
やがて轟音は止み、息苦しさすら感じるほどの静寂が訪れる。
大量の蝋が堆積したことで一気に穴の中は薄暗くなっていた。
「……」
俺の穴に飛び込んだのは十数名ほどだった。
皆、不安と恐怖に震えている。
俺だってそうだ。奥歯がカチカチ鳴っているし、油断すると膀胱が緩くなってしまいそうな気がする。唇だってきっと真っ白だ。
だが――――俺は色男だ。
「もう大丈夫です、皆さん」
色男は落胆すれども絶望せず。
暗い顔の似合う色男など居はしない。
ぱちんと櫛を開き、髪に入れる。
いつもの仕草。いつもの感触。
少しだけ、平常心が戻って来る。
「パニくらないでじっとしててください。すぐ何とかします。……」
これから起きるのは対話ではなく戦いだ。
持っていくのは本当に大事なものを詰めたウエストポーチだけにする。
俺はナップザックをその場に置き――――ふと思い出し、中からジャム瓶を取り出した。
指を入れ、口に含む。オレンジの味。
柑橘類を摂取してから『能力』を発動できる時間は長くはない。せいぜい三十分程度だ。
こまめに補給しなければ、いざという時に不発に終わる。
俺は穴の底に横穴を開けた。
そして真上に向かって階段状の『炎』を作る。
平泳ぎするように蝋を掻き分け、内部へ崩落しないよう左右に押しのけながら地上へ。
晴天の下に顔を出す。
「……!」
見渡す限りの蝋の雪原。
動くものは俺以外に二人だけだった。
こちらに背を向け、何かを話し合っていた二人はほぼ同時に振り向いた。
少女は口に手を当て、スーツの女が彼女を庇う形で立ちはだかる。
距離はざっと100メートルほどか。
「――」
少女が何事かを囁いた。
スーツの女は何も答えず、両手で蝋に触れる。
(来る!)
ジムには通っているが、喧嘩などしたこともなかった。
人を全力で殴れるかどうかすら怪しいが、今は戦わなければならない。
あの女はあの距離で攻撃態勢に入っている。
つまり、津波の女と同じように遠距離攻撃ができるに違いない。
両手を地につけ、蝋を『燃やす』。
ぼっとせり上がった炎の壁が俺を――――
どおん、と。
壁の中心に衝撃が爆ぜた。
「?!」
穴は開いていないが、『炎』にヒビが入っている。
両手を地につけた体勢でなければ衝撃で吹き飛ばされていたかも知れない。
ごろろ、とワニが呻くような、溝に濁流が流れ込むような不穏な音。
何だ。
一体何が起きている。
これは何の音だ。
(……)
向こうの能力が不明な状態で飛び出したくはなかった。
が、足を止めることで何かが好転するなんてことはない。
俺は上着を掴み、右方向へ大きく放った。
一拍置いて、左方へ側転して飛び出す。
どおん、と大きな太鼓でも打つような音。
続いて、がららら、と木造家屋が倒壊するかのごとき音。
見れば囮となった俺の上着は――――ズタズタに引き裂かれていた。
中空にはレーザービームのごとき白い何かの残滓が残っていた。
それは俺が見ている前でぱらぱらと崩れ、地に落ちる。
剥げ落ちたパイプの塗料がはらはらと散る様にも似ていた。
「?!」
白い『何か』を目で追う。
グレーのパンツスーツに犬用マスクをした女の手は綿菓子のようなものに包まれており、白い『何か』はそこから発せられたようだった。
綿菓子のサイズはかなり大きく、女はアコーディオンを弾くように両手でそれを引き延ばしていた。
ごろろ、がらら、と綿菓子の中で轟音が発せられる。
蝋の飛沫が散り、女の周囲に落ちた。
(こいつ……まさか……!!)
俺はとっさに地に手をつき、先ほどまでより分厚い壁を作り出した。
ぼっとせり上がる壁。
どおん、という凄まじい衝撃。
がらららら、という残響。
迫撃砲をぶち込まれたかのような錯覚に尻穴が凍る。
この音。
この威力。
光も電気も発してはいないが、間違いない。
あの変態女の能力は――――
(雷か……!!)
ぞわっと総毛立つ。
津波に雷。
俺の炎や群青の剣、紫苑のムカデ、優姫の泡などでは到底止められない自然の猛威。
こんなもの――勝てるわけがない。
だが、勝てなければ待っているのは死だけだ。
死ねない。
俺は、死ねない。
「!!」
ぶぼぼ、と白い地面があちこち盛り上がる。
誰かが地の下を移動しているのだ。
俺は片手を地に添え、小さな炎を走らせた。
と、無地のキャンバスに絵が浮かび上がるようにして無数の剣が生まれた。
切っ先が中心点を向くよう円状に並んだ剣がべこんとへこみ、中から群青が姿を見せる。
「無事か、陽甲」
「何とか。十何人かは助けた。そっちは?」
「足の遅いご老人が数人と、家族が二組。固まっていてくれて助かった」
助からなかった人間のことは聞かなかった。
群青の表情を見る限り、いるはずだ。
荷物のために逃げ遅れた奴らが。
「陽甲。……紫苑と葱キャッスルは?」
「分からない。俺も今ここに出たばっかりだ。そしたらいきなり――」
穴から這い出した群青は膝をつき、蝋の壁に身を隠した。
どおん、と例の一撃が放たれ、壁が揺らぐ。
「な、何だこれは……また津波か?!」
「雷だ」
「かっ、雷?!」
壁の向こうをそっと覗いた群青はすぐさま顔を引っ込めた。
「マジだな。雷だ。……やれると思うか」
「やるしかない。あと一撃でもさっきの津波をもらったら、地面が崩落して下の人が生き埋めになる」
次の津波が来る前に、雷の嵐をかいくぐり、あの二人を無力化する。
群青はハットを手で押さえ、首を振った。
「昨日の今日でこれか。泣きたくなるな」
俺は櫛をぱちんと開いた。
冷や汗に濡れた髪を梳き、覚悟を決める。
「色男の人生は苦難に満ちている」
「……お前の哲学は難しいな」
視線を交わし、頷く。
もう何度も繰り返した合図。
だん、と二人同時に地を叩く。
剣の柵と炎の壁が左右に広がり、女の視界を遮る。
雷が続けざまに放たれ、壁のあちこちを破砕した。
だが俺と群青はそこにはいない。
まだ最初に作った壁の後ろだ。
雷は正確に二回放たれ、またゴロゴロと響き始めた。
原理はさっぱり分からない。
だが、二回。
二回撃ったら「チャージ」が必要になるらしい。
俺たちは左右に別れた。
爪先で地を叩き、ローラーダッシュで一気に柵の端へ。
そこから更に炎と剣の柵を生やす。
ただし今度は、犬女の数十メートル手前で互いの『蝋』を交差させる。
「!!」
女が驚き、そして狙いを定め損ねた。
雷は俺と群青が通った遥か後方を抜け、見当違いの場所を破砕する。
8の字で交差した俺たちは更にもう一度8の字で交差し、女へ駆ける。
白魔人相手に何度も繰り返したコンビネーション。
俺たちは弱い。
弱いが、弱いなりに積み上げてきた。
それが今、活きた。
雷雲を手の中で転がす女はそれを霧散させ、ファイティングポーズを取った。
踵を上げた構え。
大樹さながらの威圧感。
――――この女、格闘技をやっている。
距離を詰めた俺たちは、拳闘の間合いに入る。
互いの息すら聞こえる距離。
「群青気を付けろ! そいつ――」
長い足が真横に振り抜かれ、群青のハットを掠めた。
すんでのところで身をかがめた群青は体勢を崩す。
「うっ!」
びゅおお、ひゅお、と空を切る蹴りが続けざまに放たれる。
蝋の壁で弾くも、彼女は一瞬で回り込み、俺の顔目がけて鋭い蹴りを放っていた。
あと10センチも背が高ければ俺はノックダウンしていただろう。
あいにくと俺はチビだ。
彼女の蹴りは急所を――――
「!」
外れた蹴りが再び俺の顔に迫る。
反応が速すぎる。
これでは――――
「マ、ズ……!!」
ごぼっと蝋中から伸びた手が女の脚を掴んだ。
「!」
白いムカデが女の脚を這い上がり、腰に巻き付き、胸を締め上げた。
無数のムカデが絡み合う地面から紫苑の顔が覗く。
「人のカレシに何してるの変態……!」
「っ!」
初めて女が言葉らしきものを発した。
だが既に遅い。
俺はタックルで彼女を吹き飛ばすと、蝋の塊で顔面を覆った。
まるきりパイ投げ同然の状態に陥った彼女の両肘もムカデが締め上げている。
これでひとまず無力化できた。
殺すか。
殺した方が良いのか。
その逡巡にコンマ一秒。
振りほどくのにコンマ一秒。
少女を見やる。
「妃……」
少女の手から傘が落ちた。
呆然とする少女は我が身を抱くような仕草を見せる。
俺、群青、紫苑の三人は彼女目がけて暴漢のごとく飛びかかり――――
「!!!」
ほぼ同時に、停止する。
きっ、きゅっ、と俺と群青は赤信号でも見たかのように急停止した。
紫苑は勢い余って転び、蝋の上をごろごろと転がる。
少女は傘を手放し、両手を開いていた。
まるでハグを求めるような手つき。
ただし、彼女はハグを求めているのではない。
彼女の『攻撃』は既に終了していた。
傘を手放した彼女は、二つのモノを掴んでいた。
火の点いたライターと、切っ先鋭いサバイバルナイフ。
そして辺りにはラバー製の大きなムカデの玩具が飛び散っていた。
炎。剣。ムカデ。
「……!!」
「!」
「!」
俺たちは普段、『トラウマ』を操る。
それが可能なのは蝋が温度を持たず、色彩を持たず、光を持たないからだ。
だが本来俺たちは診断書を出される程、炎を恐れ、刃物に怯え、ムカデを忌避している。
その俺たちの目の前に、『本物』。
ただで済むわけがない。
「ぁ、ぁ……」
俺は全身に鳥肌が立つのを感じていた。
群青は後ずさり、紫苑は顔面を恐怖に歪めている。
「とても初歩的なことなのですが――能力を使った後はちゃんと片付けないとダメですよ? バレちゃうと大変なことになるんです。こんな風に、ね」
少女はウサギの抱き方を教えるような口調で告げた。
そして、地に手を置いた。
地面がめこめこと盛り上がる。