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White White March

 

 酷い夜だった。


 一体何体の白魔人と戦い、何人の人間を救い出しただろう。

 何度怒声を飛ばし、何度柑橘を啜り、何度通路に逃げ込んだだろう。


 膝は擦り剥けているし、爪にはぎっちりと蝋が詰まっているし、ズボンの股が裂けている。

 心臓はヘリコプターさながらに今もバタバタ鳴っているし、床には汗の水たまりができている。3キロほど痩せたのではないだろうか。


 昇る朝日が俺たちを照らし出した。


 紫苑は線香を焚かれた蚊のようにひっくり返っている。

 今やビキニと包帯しか身に着けていない優姫は身を丸めており、壁に寄り掛かる群青はハットで顔を覆っていた。

 大の字で倒れていた俺はよろよろと身を起こし、エスカレーターの縁に寄り掛かる。

 三階の壁面はガラス張りで、その向こうに昇る太陽が見えた。


 曲がった櫛を開き、髪を梳く。

 髪を固める蝋がぱきぱきと砕けた。


(終わった……)


 死人が出なかったのは不幸中の幸いだった。

 怪我人は出たが、白魔人に腕をもがれたとか足を潰されたとかではない。

 パニックに陥った避難民が非常階段へ殺到し、将棋倒しになったのだ。


 自衛隊員は既に怪我人の手当を終え、交代で休憩と見張りについているようだった。

 『見張り』。

 白魔人はすべて撃破したが、油断はできない。


(……)


 口枷の女と、傘の少女。

 あの二人は結局見つからなかった。


 白魔人になった者たちは「白い綿毛のようなものが飛んできて、気づいたらそれを吸っていた」と証言した。

 綿毛は鼻の粘膜に吸着するとどうやっても取れず、そのまま同化するように皮膚へ染み込んだのだという。

 群青の証言とほぼ一致する。


(蝋の綿毛……)


 あれが世界を滅ぼしたものの正体なのだろうか。

 そうだとして、あれはどこから来たのか。

 そしてあの二人はなぜそれを――


「……何なんだろうな、あの二人組は」


 見れば立ち上がった群青がハットを頭に乗せるところだった。

 奴は慎重に優姫と紫苑を跨ぎ、俺の傍へ。


「友好的な奴だとは思えない」


「そうだな。どちらかと言えば敵だろうな」


 俺と並んでエスカレーターに身を預けた群青は懐から栄養ドリンクを取り出した。

 ぱきゅりと蓋を開けた俺たちは茶色い瓶の底をぶつけ、乾杯する。


「陽甲。あいつら、何が目的だと思う?」


「物資の独り占め」


 俺は即答した。

 この環境で人を殺す理由はそれぐらいしか思い浮かばない。


「だったら何で標的が俺なんだ?」


 くぴりと瓶を傾け、群青が外の世界を睨む。


「あいつら、明らかにここの内部構造を把握した上で侵入してるだろ」


「ああ。でないと蝋の壁であらかじめドアを塞ぐなんてことはできない」


「ってことは、こっちに『能力』を持ってる奴がいることも把握しているはずだし、自衛隊がいることも知ってるはずだ」


 要するに、あの二人はこの場所を『観察』していたということだ。

 俺たちが寝静まった後。

 あるいは、食堂で退廃的な朝食を愉しんでいる頃。

 奴らは蝋に紛れてじっとこちらの様子を窺っていた。

 その上で、群青を襲った。ここに違和感がある。


「『蝋の綿毛』を俺に吸わせた理由は何だと思う?」


「……」


「もしここの人間を全滅させるつもりなら、火器を持ってる自衛隊員を潰した方が合理的だろう」


 その通りだった。

 あの二人は避難民や遭難者を装うことができた。

 嫁尾曹長はもちろん、他の面々に近づき、蝋の綿毛をふっと吹きかけることはいくらでも可能だったはず。

 なのにそれをせず、深夜、眠っている群青に綿毛を放った。


 考え方は二つある。

 一つは、彼女たちが意図的にそうした可能性。

 つまり、自衛隊ではなく「あえて」群青を狙った可能性。


「あの二人、お前が能力を持ってることを知ってたのかも知れない」


「……。自衛隊を白魔人にしても俺たちが助けてしまうから、か?」


「ああ。運悪くお前が一階で寝てたから標的にされた」


「……」


 群青は納得していないようだった。

 俺もこの可能性は低いと思っている。


 もう一つの考え方。

 彼女たちが群青を襲ったのはただの「偶然」。

 要するに彼女たちにとって白魔人化するのは誰でも良かった、という可能性もある。


「あり得るのか、そんなことが」


「……」


「火器を持った自衛隊が数人いて、100人近い人間がいて、その中に能力者が含まれている状況にも関わらず、「誰でも良い」なんてノリで綿毛をばら撒いた、ってことになるぞ」


 確かに、ありえないように思える。

 そんなことをすれば白魔人は普通に『能力者』に救出されてしまうかも知れないし、自分たちの存在が露見するかも知れない。

 自衛隊は警戒心を強め、何かの拍子に出くわした際、問答無用で発砲されるかも知れない。

 不確実な上に自分たちもリスクを負うことになる。

 俺ならまず選ばない方法だ。


 だが彼女たちはあえてその方法を選んだ。

 そうまでして彼女たちが得たかったものは何だろうか。

 いや、「得る」ではない。そこには彼女たちなりのメリットがあったはずだ。


 白魔人にする相手を無作為に選ぶという方法が彼女たちにとって有利に働いた。

 自衛隊を狙い撃ちにするより、そちらの方が都合が良かった。

 それは、なぜか。


(……)


 俺はエスカーレーターの手すりから一階を見下ろし、昨夜の状況を思い出す。

 ぼたぼたと蝋をこぼす白魔人。

 塞がれたドア。

 上階へ逃げる人々。


 はっと気づく。


「長居したくなかったんだ」


「何?」


「モールの中には蝋が無い。だから自衛隊えものを探してうろうろするのは避けたかった」


「?」


「あいつら自身も襲われる可能性があったんだ。自分たちが造り出した白魔人に」


 付け加えるなら、自衛隊を探してふらふらする間に誰かに呼び止められたり、不審がられることも避けたかったのだろう。

 だから蝋の少ないモール内に滞在する時間を極力減らした。

 その結果が蝋の綿毛を使った無作為攻撃。


「要するに手早く済ませたかった、ってことか。案外、臆病だな」


(……)


 臆病。

 果たしてそうだろうか。

 俺にはむしろ逆に思える。


 蝋が無いから、手短に済ませる。

 その発想の裏にあるのは、『蝋さえあれば何でもできる』という自信ではないのか。


 まだ名も知らぬ二人の女ことについて、俺は考えを巡らせていた。

 やがて優姫と紫苑が目覚め、一日が始まった。






 もう一晩、ここで過ごす。

 嫁尾曹長がその話を口にした途端、避難民からは不満が噴出した。


 また白魔人が出たらどうするのか。

 船が行ってしまったらどうするのか。

 自分たちが休みたいだけだろう。


 真昼のフードコートで開かれた臨時集会で嫁尾曹長は様々な言葉を浴びていた。

 叱咤のような言葉もあれば、縋るような言葉もあった。

 そのすべてを黙って聞き、曹長は一つずつ順番に説明した。


 白魔人が発生した原因とその首謀者。

 あの二人さえ立ち入らせなければ問題は生じえないこと。

 船はすぐには出て行かないこと。

 自分たちにも休息は必要だし、それは咎められても困るということ。


 銃火器を持った嫁尾曹長が非力な一般人を根気強く説得する様は何となく奇妙ではあった。

 俺、群青、紫苑、優姫の四人は一切口を挟まなかったが、曹長の支持者のようにでんと構えていた。


 現実問題としてもう一夜の休息は不可欠だった。

 俺たちは消耗しきっているし、避難民はまだ大移動の準備など何一つ終えていないからだ。

 それに時間の都合もある。

 海までの直線距離は10キロほどだが、蝋が地形を変えてしまっているし、こちらは足の遅い者に速度を揃えつつ、かつ荷物を運びながらの進軍になる。

 着の身着のままで飛び出し、白魔人に追い回された挙句、路上で夜を迎えた、なんてことになっては目も当てられない。


 俺たちは気力と体力を充実させる。

 避難民は荷物を整える。

 出発時刻を朝に定め、日が出ている間に港へ向かい、船に乗船する。

 この三要素を満たすためには今日を捨て、明日の朝に懸けるしかなかった。


 言葉を尽くした曹長はこの件をどうにか納得させたが、次の問題を口にした瞬間、またしても非難の嵐に見舞われた。

 それは手荷物の制限についての話だった。


 避難民の多くはモール内の物品すべてをかっさらう勢いであれこれ持ち運ぼうとしていた。

 水や食い物、生活用品ならいざ知らず、自転車やテーブル、ベッドに本に原付、紙にペンにコーヒーメーカー、とにかく今後の生活で使えそうなものはすべてだ。

 搬入口に放置されたカゴ台車を使う家族もいたし、大きなテーブルや箪笥にキャスターを取り付ける者までいる始末だった。


 曹長はそうした大量の荷物の運搬を差し控えるよう告げた。

 移動速度が大幅に遅くなることと、いざという時の判断が濁ることを危惧しての指示だった。


 手荷物はナップザックに収まる程度の量にとどめ、両手は常に空けておく。

 万が一のことがあった場合、荷物を捨ててでも命を優先する。

 この話をした瞬間、投石じみた言葉の雨が曹長に降り注いだ。


 自分たちは自衛隊に従ってこの環境を捨てるのに物資を持ち出せないなんてありえない。

 小さな子供を抱えた家族は持ち運びできる量が限られる。不平等ではないのか。

 足を怪我したものや手を怪我したものの資材や家財はどうするのか。

 自衛隊や俺たちが保証してくれるのか。


 そうした声は強風のごとき物理的な力を持っており、俺や群青は思わずよろめいた。

 紫苑は不愉快そうな顔で耳を塞ぎ、優姫はうろたえていた。

 曹長は額に拳を当て、黙ってそれを聞いていた。



 喧々諤々の議論――と言うより、曹長が一方的に袋叩きにされる時間は長く長く続き、やがて終わった。



「……ふう」


 会議室に戻って来た曹長はいささかやつれたように見えた。


「ようこそ色男ハンサムバーへ」


 一足先に帰還していた俺はバーテンダーの衣装に身を包み、空っぽのシェイカーを振った。


「何の恰好だ、それは」


 ふっと噴き出す曹長の前にシェイカーを置き、あらかじめ用意していた冷たい麦茶をサービスする。

 パイプ椅子に腰かけた曹長はテーブルを滑るグラスをキャッチし、床を見つめた。


「……昔、荷物を抱えたまま30キロ走らされたことがあったが――」


 ぎゅっと一息で麦茶を飲み干した曹長は肩を落とした。


「――あれより遥かにキツい」


「お疲れさまでした」


 俺はグラスを拭きつつ、小さなペットボトルを示す。


「冷たーい麦茶がありますよ」


「頼むよ、マスター」


 麦茶をサービスした俺は新品の櫛を髪に入れ、ぱちんと閉じた。

 手鏡を開くと、丸っこい俺の顔と髭の伸びた曹長の顔が映る。


「お前は今日も色男ハンサムだな、陽甲」


「いえ、今の曹長には敵いません」


 俺は曹長ほどの苦難に磨かれてはいない。

 大人の論戦に加わることもできなかった。


「……助けられなくてすみません」


「気にしなくていい。君らはよくやっている」


 そこへ紫苑、群青、優姫が戻って来た。

 紫苑は露骨に悪意を滲ませていた。


「……護ってもらってるくせに文句ばっかりだよね、あいつら」


 彼女の言う「あいつら」は避難民全員のことではない。

 嫁尾曹長や俺たちに向かって声高に権利を叫ぶ一部の人々だ。


「イヤなら自分たちだけで勝手に出てけばいいのに。ねえ陽甲?」


「……そんな風に考えるな、紫苑」


 俺は鏡に映る自分の姿を覗き込む。

 丸っこい俺の顔は笑ってはいなかった。


「あの人たちも必死なんだよ」


 家族や自分の命を守る。その為に必死になる。それは悪いことではない。

 ただ、必死になればなるほど視野は狭くなる。

 視野が狭くなっているのだから、普段は衝突しない相手ともぶつかうことがあるだろう。


 こちらの事情を分からせようとしても平行線になるだけだ。

 まずは、分かってやることから始めなければならない。


「いっつも安全地帯にいるくせに必死、ねぇ……」


 紫苑の怒りは収まらなかった。

 昨夜の事が尾を引いているのだろう。


 昨夜、身近な人間が白魔人に変じる光景を目の当たりにした避難民はあちこちに逃げ惑い、俺たちを盾にした。

 俺や群青、身体能力に長ける優姫などはまだいい。

 紫苑は蝋が無ければただの子供だ。

 その紫苑に囮になるよう声を飛ばし、こっちへ来るなと怒り、早く何とかしろと叫び、めちゃくちゃな指示を飛ばした者が相当数いた。


 俺たちは普段、外の世界で白魔人と戦っている。

 モールの中で戦うのはこれが初めてだ。 

 自分たちが護っている相手が一体どういうものなのか、意識しながら戦ったのもこれが初めてだった。


「二、三十人減ってれば良かったんだよ」


「……紫苑」


「だって……」


 紫苑はむすっと膨れ、椅子の上で膝を抱えてしまった。


「私、別にあいつら守りたくてこんなことしてるわけじゃないもん。私が一緒にいたいのは陽甲とか群青とかだけだもん。曹長たちもだけど」


 不貞腐れた紫苑の言葉に曹長と群青は口を開きかけたが、すぐに閉じた。

 困ったような顔。


 能力が発現した当初、紫苑は身体能力を理由にモールでの待機を命じられた。

 だが彼女は従兄の俺と、その頃には仲良くなっていた群青のために外で戦うことを決めた。

 彼女は社会に対する使命感やモールの人々に対する責任感に駆られているわけではない。


「赤の他人じゃん、あいつら。しかも弱っちいじゃん。水とご飯を減らすだけで何の役にも立たないじゃん」


「しーおんちゃん」


 優姫が紫苑の髪をくしゃりと撫でた。

 紫苑は少しだけ身じろぎしたが、それ以上抵抗することはなかった。

 昨夜俺を庇って負傷した優姫に対する紫苑の態度はだいぶ柔らかくなっている。


「そういうの、ダメだよ?」


「何でですか。あいつら放っておいて私たちだけで生き残った方が効率良いに決まってるじゃん。私、別に間違ったこと言ってないもん」


「言ってる。人、見捨てるようなことしたらダメだよ」


 むにい、と彼女は紫苑の頬を引っ張った。


「そんなやり方で誰かと一緒に生き残ったら、いつか紫苑ちゃん自身が見捨てられることになるんだよ?」


「……」


 紫苑は救いを求めるように俺を見た。

 いや、救いではない。戒めだろう。

 俺は蝶ネクタイをきゅっと結ぶ。


「命を選ぶのは色男ハンサムのやることじゃない」


「私、ハンサムじゃないもん」


 ってか、と紫苑は珍しく俺に怒りを向けた。


「陽甲の『堅実』ってそういうのかと思ってた」


「……」


 この生活が始まった時、それを考えないわけではなかった。


 避難民の人数が減れば減るほど、物資はより長く持つ。

 競合する意見が少なければ少ないほど、物事は円滑に進む。

 本当の意味での『生存』を考えるのなら、人間は間引くべき。

 ――そんな考えが脳裏を過ぎる夜もあった。


 己の生存のためだけに誰かに不利益を押し付け、誰かを見捨ててでも生きる。

 生物として正しいのは、もしかするとそういう道なのかも知れない。


 確かに合理的だ。

 だが、色男ハンサムではない。

 俺に心臓をくれた誰かが、そんな生き方をする俺を見て微笑むわけがない。


 色男ハンサムとは大衆に迎合する男のことではない。

 それと同じく、色男ハンサムとは合理性のしもべでもない。


「ねえ、陽甲」


「ダメだ。いくら堅実でもそれは外道だ」


 めっ、と紫苑の頭にチョップする。

 紫苑は唇を尖らせたが、それ以上何も言わなかった。


「そろそろいいか」


 曹長が手を叩き、会話を打ち切った。 


「陽甲。来るんだよな、お前も」


「……もちろん」


 俺はちらりと優姫の包帯を見た。

 赤い血が滲んでいた。


 外へ出ることが危険なのは変わりない。

 だが、避けられない危険もある。

 避けられないのなら、受けて立つしかない。

 受けて立った上で、最も堅実な道を探す。


 俺はホワイトボードに『解放』の文字を書いた。

 そこにネームマグネットを貼り、最後に『全員』の文字を書き足す。 


「では編成を考えよう」






 その夜の見張りには俺、群青、紫苑、優姫も参加した。


 風が冷たく、化粧水のノリも悪い、嫌な夜だった。

 じきに天気が荒れるのかも知れない。






 夜は何事もなく過ぎていった。


 そして翌朝、俺たちはショッピングモールを発った。






 砂漠を往く隊商キャラバンのごとく俺たちは白い大地を進んだ。


 荷物は、多い。

 カゴ台車も運ばれているし、大量のビニール袋が揺れているし、背中に箪笥を括っている人間もいる。

 ガラガラと車輪が回り、子供たちがはしゃぎ、大人たちが息を切らしている。


 曹長の言いつけを守ったのは半分以下だった。

 結局、俺たちや曹長が首尾よく彼らを守り切れば手荷物を減らす意味は無い。

 そう考えさせるだけの実績が俺たちにあることは嬉しくもあったが、皮肉でもあった。


 どうせあなた達が護ってくれるから、私たちは言いつけを守らない。

 そう言われているようで複雑な気分になる。


「荷物は最低限にっつってるのに……!」


 紫苑が毒づいた。

 避難民は三列縦隊で進んでいたが、各々があれもこれもと荷物を抱えているため、結局幅は広がってしまっている。

 幅が広がると発見される可能性が上がる。

 そして、守る俺たちの負担も増える。


 列の先頭は優姫と曹長だった。

 最後尾は群青と自衛隊員一人。左右は俺たちと残りの三名の隊員。

 数に対して、カバーすべき面積が広すぎる。




 既に探索しつくした地域を越えるのは難しいことではなかった。

 白魔人の姿は無く、地形もこちらである程度把握している。


 蝋に埋もれた世界で最も危険なのは突き出した電柱でもガラス片でもない。

 倒壊しかけた建物と斜面だ。


 一見すると雪景色のように見えるため誤解する者も多いが、蝋の本質は油脂だ。

 足場は硬いので雪山のように雪庇を踏んで谷間に滑落する、なんてことはないのだが、思いがけない場所まで滑り落ちることがある。

 白一色の世界は遠近感を把握しづらく、傾斜も分かりづらい。

 だからできるだけ列は狭く、と伝えたのだが、やはり理解は得られなかった。


 斜面より厄介なのが背の高い建物だ。

 斜めに突き出したビルではぶらぶらとネオン看板が揺れている。

 その近くにはボーリング場のものと思しき巨大なピン。

 こうした物品を留める器具が蝋の重さで歪んだり外れたりし、落下することもある。


 頭上には気を付けて。

 足元にも気を付けて。

 そんな俺たちの声など気にも留めず、避難民たちはずんずん前へ進んでいく。


 既に行程の半分ほどは消化されていた。

 子供や老人のために何度か休憩を挟んだ結果、日はずいぶん高く昇ってしまっていたが、まだ日中であることには変わりない。


(行けるか……?)


 俺が微かな希望を見たその時だった。




 ビイイイイ、ビイイイイ、と。

 二度笛が鳴らされた。




 『白魔人ではないが、何か不穏なものがある』の合図だ。


「!」


 弾かれたように前を見る。

 二人の女が進路に立ち塞がっていた。


 傘を差した少女と、パンツスーツの女。


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