White White Lady
「女……?」
俺の話を聞いた群青は眉をしかめた。
ハットには早くも蝋が積もり、眉にも白いものが乗っている。
「気のせいじゃないのか」
「だといいんだけどな」
俺は真っ白な蝋の世界を見渡す。
しんしんと降る蝋の雪が動くものの姿を見えづらくしている。
この状況下で女が悲鳴を上げる理由は二つだ。
人に襲われたか、白魔人に襲われたか。
どちらにせよ、近づけばこちらも危険にさらされる。
堅実を尊ぶ俺としては、蛮勇は避けたいところだ。
とは言え、人であれ白魔人であれ、今放っておけば後で俺たちを襲う可能性がある。
特に人間だった場合、追跡されてモールに入り込まれでもしたら収拾がつかない。
ここは事実を確認しに行くのが真の意味で堅実な道だろう。
そうした事情を話した上で、俺は提案した。
「様子を見てくる」
「単独行動は危険だ。……紫苑、陽甲についていけ」
「えー。また人増やすの~?」
「後で陽甲のパンツをやる」
ぱんぱん、と紫苑は両の頬を叩いた。
「ッシャオラー! ヤッタルゾコラー!」
ひゅひゅ、とフットワークを生かして俺たちを離れた紫苑はシャドーボクシングを始めている。
イヤーカフのチェーンがゆらゆら揺れていた。
「……群青さん。何で俺のパンツとか持ってるんですかね」
「使用済みとは言ってない」
使用前。つまり新品。
物は言いようである。
「俺は先に戻る。こちらの方を巻き込ませるわけにはいかない」
群青はいまだぼんやりしている男性の腰に手を回した。
「分かった。何かあったらブザーを」
俺は群青に防犯ブザーを投げ渡し、爪先で交互に地面を叩いた。
かちりと踵にローラーが飛び出す。
『蝋』というものの本質は『油脂』だ。
白魔人との接敵時は音の聞こえが悪くなるので使わないが、この世界をこの靴で移動するからにはヘルメットが必須だ。
俺と紫苑は声の聞こえた方向へ滑走した。
真っ白な世界には傾いたビルやねじ曲がった電柱、大型トラックの残骸が顔を出している。
地形は決して平坦ではない。
白魔人が不定期に暴れ、時折火災が発生するせいで蝋の大地はところどころ窪み、傾き、歪んでいる。
数メートルも地面が陥没している場所もあれば、何が起きたのか鍾乳石のように突き出している場所もある。
数分ほど走ったところで俺と紫苑は足を止めた。
女が一人、女型の白魔人に追い回されているのが見える。
「うっわ。ホントにいた」
そこは数メートル下方に広がる盆地で、女性と俺たちの間にはざっと200メートルほどの距離が開いていた。
蝋に覆われた真っ白な世界の中を、一人の女がアスリートスタイルで走っている。
モスグリーンのジャケットに明細柄のビキニ。グレーのパンツに包まれた脚は長い。
長い髪は明るいブラウンだ。
追いかける白魔人はシンデレラのようなドレス姿だった。
ただし下腹部にはイカの触手らしきものが生えており、顔は開いたハエトリグサだ。
こういった異形の白魔人は珍しくない。
俺たちの能力と同じように、中に取り込まれた人間の『恐怖』が具現化しているのかも知れない。
「どーする? 見殺しでおっけー?」
「ノーオッケーだ」
「へー。助けに行くんだ」
紫苑は驚いているようだった。
「いや、あそこまで駆け付けるつもりはない。遠くから注意を引いて挟み撃ちに――」
盆地を下りかけたところで、気づく。
女の走り方に迷いが無い。
パニックに陥っている様子も、取り乱している様子もない。
あれは追い回されているんじゃない。
誘い込んでいるんだ。
(……)
俺は彼女の進行方向にひしゃげた民家が二つあるのを認めた。
蝋の雪を浴びた家屋は真上から白いソースを注がれた菓子のようにも見える。
走る女は腰のポーチから緑色の球体を取り出した。
ライムだった。
彼女は口元にそれを運んだかと思うと、家屋の間に滑り込んだ。
数秒遅れ、女型の白魔人がそこに突っ込む。
と、家屋を包む蝋が変化した。
ぽこ、ぽこ、と。
小さなドームが生まれてはぱちんと弾ける。
ぼこぼこと生まれたドームのいくつかは球体となって家屋を離れ、重力に従って下方へ降り注ぐ。
泡だ。『蝋の泡』。
盆地に飛び降りた俺と紫苑が見たのは、無数の泡に包まれた白魔人の姿だった。
性質は泡でも素材は蝋だ。
頭部を覆われれば視界は塞がれ、腕に纏わりつけば重さで身が傾ぐ。
女はその隙を見逃さなかった。
素早く白魔人の側面に回り込み、胴体へ手を突っ込んでいる。
引き抜かれたのは金髪の女性だった。
緑色の女性は崩れゆくる白魔人には目もくれず、慣れた手つきで介抱している。
「……あれ、経験者っぽいね」
「だな」
「合流、する?」
「もちろん」
堅実こそ色男。
白魔人と戦闘経験があり、蝋を操る能力を持ち、しかも見ず知らずの人間を助けるような女性とは確実にコンタクトを取らなければならない。
俺はすぐさまそちらへ向かって滑り始めた。
「すいませーん!」
女性が振り向いた。
ぱあっと明るい笑顔が広がる。
ぶんぶんと手が振られ、見事な胸もぶんぶん揺れる。
男の視線を吸い寄せずにはいられない、ブラックホールじみた乳だった。
「うーわ、超下品。絶対偏差値低いよあれ……」
「やめろ紫苑」
近づくにつれ、女性の背の高さが目についた。
彼女は群青とほぼ変わらない長身の持ち主だった。
俺がブレーキをかけるより早く、女性がはっしと俺を抱き止める。
「おあぷっ?!」
「あー、良かったー! 人いたー!!」
身長差があるおかげで顔からそこに突っ込むことはなかったが、柔らかい乳房は俺の耳のすぐ近くでぷにりと潰れていた。
慌てて離れようとしたが、踵に突き出したローラーのせいで微妙に踏ん張りが効かない。
「ちょっと、セクハラはやめてもらえます?!」
紫苑が俺を引き剥がし、女を睨んだ。
彼女がこんなに大声を発するのは珍しい。
「誰です、あなた。この辺に住んでた人?」
「あー違います違います。私は――――ってか、自己紹介しないとですね」
緑の女性は救出した女が落ち着くのを待ち、俺たちに向き直る。
「葱城ゆーきです。優しいに姫で優姫」
葱城は指で宙に文字を描いた。
その仕草だけで何というか――親しみのある人物であることが窺える。
「絶対アホだよこの人」
耳打ちする紫苑の頭にチョップを見舞う。
「嬉野陽甲です。こっちは嫌坂紫苑」
「この土地の生存者の方ですね。お会いできて嬉しいです~!」
気になる発言ではあったが、元気いっぱいの彼女より優先すべき相手がいる。
俺たちは救助した女性を連れ、ショッピングモールへ向けて歩き出していた。
道中、出自を問われた葱城はとんでもないことを口走った。
「船?!」
「はい! 船です。私、そこから水上バイクで来ました」
紫苑が俺を見た。
クスリか何かやってるんじゃない?と言いたげな表情。
俺は慎重に問うた。
「……海自の船ってことですか」
「うーん。海上自衛隊も合流してはいるんですけど、あっちこっちの救助に大わらわなので基本的に別行動ですねー」
「? じゃあ……民間の船に乗ってるってことですか? 漁船とか、輸送船とか、豪華客船とか」
「えっと、「ぱーべーぱれーしょん」って知ってます?」
俺は思わず聞き返した。
葱城は一言一句正確に繰り返す。
「パーベーパレーション」
「何ですかそれ」
「難しいことは分からないんですけど、海水を真水に変える技術だそうです」
「海水を真水に?」
「何かこう、膜があるじゃないですか。で、そこを通すと海水がぶわーっと蒸発して真水に! すごーい、みたいな?」
「……えぇ……?」
紫苑は匙を投げた顔で俺を見た。
(……)
パーベーパレーション。
語感からするに英単語だろう。
確か「vapor」は気体という意味だ。
そこに「tion」がついて「vaporation」。意味は「気体に変える」あるいは「気化」辺りだろうか。
パーは何だろう。もしかして「per」だろうか。意味は「~毎に」。
正確な意味は不明だが、綴りは「pervaporation」で合っている気がする。
葱城が口にした「蒸発」という単語とも一応マッチする。
口から出まかせを言っているわけではなさそうだ。
「何年か前に日本政府がお金を出して、「海水を真水に変えようプロジェクト」が発足したんです。その船団がちょうど東南アジアから日本に戻って来てて」
あ、と紫苑が呟く。
「聞いたことあるかも。超お金かけて造った、「動く街」みたいな海上研究施設があるって」
「たぶんそれですね。超すごいんですよ? 人いっぱいいるし、自分も船なのに船が寄港できるドックがあるし、宇宙戦艦ってか宇宙要塞みたいなんです」
「……蝋は平気だったんですか」
「はい。船はずっと赤道の近くを航海してたそうです。降って来る蝋は金属板でほとんど溶けちゃったらしいです」
赤道。金属板。
今までこの白い世界に閉じ込められていた俺にとって、それらは思いがけない救済の言葉だった。
世界にはこの『蝋の雪』から逃れられる場所が確かに存在するのだ。
「それで、実際に海水は真水に変えられるんですか?」
「変えられますよ。効率がどうだーこうだーって偉い人は言ってるみたいですけど、今のところ水には困ってないです」
真水を作り出す海上要塞。
もしそれが事実だとしたら朗報だ。
水さえ供給できれば最低限の生活が担保される。
それに真水の使用に制限がなくなればショッピングモールの内部で作物を栽培したり、家畜を育てることで食料も確保できる。
「……で、ネギさんはそこから何しに来たんです?」
紫苑の声には疑念が混じっていた。
「それはもちろん、皆さんを助けに来たんです!」
葱城は朗らかな笑顔で告げた。
「私と一緒に海の要塞に行きましょう!」
それは決して、俺の耳に甘い言葉ではなかった。
俺たちの避難したショッピングモールを見ると、葱城はおおっと声を上げた。
実際、ここは全国でも指折りのショッピングモールだ。
専門店の数は200を超えており、週末にはほぼ必ず芸能人が興行に訪れる。
地下一階、地上四階建てで、数千台の車両を停めることのできる立駐が完備されている。
形状は飯盒に似ており、端から端まで歩こうとすれば優に数分はかかる。
定期的に雪かきならぬ「蝋かき」が行われているので、周囲はすり鉢状になっている。
各入口には白魔人の侵攻を阻む分厚い防壁が幾つも立っており、非常階段には見張りも立っていた。
現在の避難者、約100名。
建物の規模に対して人間が少ないのは、蝋の雪が降り始めてからすぐに館全体が閉鎖されたためだ。
それにほとんどの人々は学校や病院といった指定避難所に逃げ込んでいる。
ここに逃げ込んでいるのは近隣住民か、俺や群青、紫苑のように避難所のことを失念していた連中だ。
内訳は様々だが、夫婦に子供が1セットの家族連れが多い。
老人はほとんどが独り身か二人身。核家族化ここに極まれりだ。
太いチェーンを幾重にも巻きつけて封鎖した玄関ではなく、従業員用の非常口から中へ入る。
電気は死んでいるが、白い大地が陽光を照り返すおかげで館内はそれなりに明るい。
一階はがらんとしているが、停止したエスカレーターを登るとそこら中にブルーシートや毛布が敷かれていた。
「戻りました!」
「……した」
俺と紫苑が挨拶すると、何人かが手を振ってくれた。
むっつりしたままの人々も多い。――昨日より、増えている気がする。
「こんにちはー!!」
ヒーローショーの司会よろしく、葱城があちこちに明るい声と笑顔を振り撒く。
その装いに一部の男性は反応したが、女性陣からは冷ややかな視線が返って来た。
かん、かん、かん、とエスカレーターを登り、三階へ。
寝転がる人々を避け、元は貸し会議室として使われていた大きな部屋に入る。
「戻りました!」
「……した」
俺と紫苑が声を張ると、中にいた数人が振り返る。
上から下まで迷彩服に包まれた陸上自衛隊員が二人と、群青。
「お帰り。無事で何より」
40近い黒髭の男性が声をかける。
嫁尾曹長。
このモールに派遣された――と言うか、ここに避難民がいることを知って駆けつけてくれた数名の自衛隊員の長だ。
小脇には小型の機関銃らしきものを抱えている。
彼はすぐさまもう一人の隊員に目配せし、白魔人に捕らわれていた女性を別室へ運ばせる。
そして葱城を見、不思議そうな顔をした。
「そちらは?」
葱城の説明に曹長は何度か頷いた。
「海上要塞?」
にわかには信じがたい話だろう。
だが葱城は小さな携帯端末を取り出していた。
「これ、画像です」
中に映し出されていたのは海上要塞とやらに避難した人々の様子だった。
おにぎりを頬張る子供や出港する船を見送る人々、海自と思しき隊員の姿やヘリの画像まで映っている。
要塞と呼ばれるだけあって、写真の中には建物が幾つも並んでいた。一見すると港町のようにしか見えない。
「こんなものが海の上をふらふらしていて平気なのか、あっちの方の国は」
「と言うか、よく海賊に襲われませんでしたね、これ」
囁き合う群青と嫁尾曹長をよそに、葱城が身を乗り出す。
でかい乳が線香花火の最後の一滴のようにふるりと揺れた。
「これぜんぶ私が撮ったんですよ~! ……あ、ほらこれ! このショット最高じゃないですか?!」
群青と嫁尾曹長がちらりと俺を見る。
偏差値低そうだなこの姉ちゃん、と言いたげな顔だ。
「で、これは本物か?」
「加工したようには見えませんね」
「あ、そうそう。何か自衛隊系の人にはこれ渡したら分かるって言われてるんですけど」
葱城はポーチの中から小さな防水袋を取り出した。
中にはリモコンのような端末が入っている。
曹長はそれをしげしげと見つめ、指先で少し操作した。
「……。本物らしい」
「と、言うことは?」
曹長が、ふう、とため息を漏らした。
かしゃん、とパイプ椅子に腰かけると、メットを外し、汗に濡れた黒髪をかき上げる。
この人との付き合いもそろそろ数か月になるのだが、ここまで脱力した姿を見るのは初めてだった。
「助かった……」
助かった。
彼が言うと重みが違った。
俺、紫苑、群青の三人もその場にへたり込みそうになるほどの安ど感を覚える。
長い闘いだった。
蝋に埋もれゆくショッピングモールで必死に蝋かきをして。
白魔人から逃げ惑い、自衛隊が銃をぶっぱなし、中の人間を死なせて。
ふとしたきっかけで俺たちが能力のことを知って。
外の世界を探索して、自殺したり殺された人々を何度も見て。
闘って。眠って。また闘って。
その生活が、やっと終わる。
「ピザでも焼きましょうか。コーラも開けて」
群青が笑いながらボードに向かった。
ホワイトボードはテープで『帰還』『出発』に二分されている。
『出発』側に貼られた二枚の薄いマグネット、「嬉野陽甲」「嫌坂紫苑」が『帰還』側に移された。
そこには既に「群青嬌一」の名前がある。
出ていく時はここに『解放』の二文字を書き、避難民全員の名前を書いたマグネットを貼っておきたい。
「葱城さん」
「はい葱城です!」
はーい、と彼女が手を上げると紫苑が小さく舌打ちした。
まあ、この人は女に好かれるタイプではないだろう。
「蝋のことについて、そちらで何か分かっていることは?」
「こっちの皆さんと同じです。原因はなーんにも分かってません!」
「あなたも使えるそうだが、柑橘類を口にすることで蝋を操る能力については?」
「それも同じです。原理はなーんにも分かってません!」
「……我々が白魔人と呼ぶ化け物については?」
「それも全然分かってないです!」
一点の曇りもない笑顔。
群青と曹長の顔に「何でこんな頭悪そうな姉ちゃんを寄越したんだ」という表情が浮かぶ。
「あ、でも化け物の発生?について一つだけ」
「?」
「あれ、やっつけてもやっつけてもあんまり数が減らないみたいなんです」
「と、言うと?」
俺たちの知る白魔人の性質は以下の通りだ。
①人間を核としており、それが抜かれない限り死なない。
②人を襲い、捕食する。捕食された人間は噛み殺されるのではなく、核の一つとして内部に貯蔵される。
③核となった人間は最終的に衰弱し、死に至る。
「……その性質通りだったら、やっつける度に数が減るはずじゃないですか」
「実際にこの辺りでは数が減っている」
「んー。じゃあ皆さんまだ見てないんですね」
顔を見合わせる俺たちに、葱城は告げた。
「ある日突然、人間が白魔人になることがあります」
「?!」
「マジです。私、見ました。口からだらだらーって蝋が流れて、ぶわああって白魔人になるんです」
「感染する、ということか?」
嫁尾曹長の声は低く、慎重だった。
「んー、どうでしょう。海の上では見たことないんで何とも。陸の上ではちょくちょくそういうことが起きてるぽいです。原因は分からないです」
嫌な沈黙が漂った。
今まで俺たちは白魔人が一定数の人間を捕食した後、プラナリアのように分裂していると思っていた。
あるいは、最初に出現した時から数は増えていない、と考えていた。
いつ、どこで、誰が白魔人になるとも限らない。
原因は不明。原理ももちろん不明。
それは白魔人の討伐を主たる仕事としている俺や群青、紫苑にとって最悪のニュースだった。
嫁尾曹長が両膝を押して立ち上がる。
「いずれにしろ、移動の準備をしないとな。一度皆に周知をして、それから――」
「ちょっと待った」
俺が口を挟むと一斉に視線が集まった。
「……危険です。ここに留まった方がいい」
葱城が、ぽかんと口を開ける。
「え?」
俺は部屋の一角に掲げられた地図を示した。
日々の捜索活動で動き回った場所はペンで斜線が引かれている。
「葱城さん、どこに上陸されました?」
「ここ」
彼女が指さしたのは数キロ離れた海辺だった。
その辺りには斜線がほとんど引かれていない。
「今の話を聞く限り、他の避難所の人たちも海へ向かう、ってことですよね。ここの病院とか、ここの学校とか」
「うん。そっちには私と別の人が行ってるはずだよ」
「となると、こんな感じか」
群青は鉛筆でいくつかの学校と病院に丸印をつけ、そこから海へ向けて矢印を伸ばした。
各地に300人集まっていると仮定しよう。
移動する人数は1000人を軽く超える。
「素人考えですみません。今の戦力で護れますか、曹長」
俺のシャツに汗が滲み始めていた。
「この辺りの白魔人は粗方片付けました。でも海側にはまだ白魔人がうろうろしているはず。1000人単位でぞろぞろ歩いてたら絶対見つかります」
「他の避難所にも曹長と同じ自衛隊員がいるはずだ、陽甲」
「私たちと同じように蝋に触れる人もいるよね、たぶん」
「……ああ。それは分かってる」
分かっているが、堅実ではない。
堅実ではないということは、リスクがあるということだ。
この状況におけるリスクとはすなわち、人死にの可能性。
俺は嫁尾曹長の顔をじっと見つめる。
曹長は小さくうなずいた。
「十分な数ではない。それは間違いない」
だが、と彼は機関銃を示す。
「白魔人を一匹残らず殺す前提なら話が変わる。あいつらは銃弾まで弾くわけじゃない」
「……」
知っている。
嫌と言うほど知っている。
銃弾をぶち込んだ結果、中の人間がどんな姿になるのかも。
重要なのは、堅実であるかどうかだ。
1000名の避難民に対して100名いるかいないかの自衛隊が戦場さながらのドンパチをやって、無事に港へたどり着けるかどうか、だ。
俺はより堅実な道を進みたい。
それがハンサムというものだからだ。
「逆の方が良いんじゃないかなって思うんですけど、どうですか」
「逆?」
「その要塞から定期的に水や物資を運んでもらうんです。輸送車の行き来の方が白魔人に見つかる危険性が低いし、人間みたいにパニックにならないから護衛もしやすい」
「……ねえ、陽甲」
紫苑がおずおずと口を挟む。
「それってこの要塞がずっと一か所にいれば、の話だよね」
「っ」
「私が要塞の偉い人なら、一か所に留まることはないと思うよ? 他にも助けを待ってる人、いるだろうし」
葱城を見ると、彼女は気まずそうな顔をしていた。
「紫苑ちゃんの言ってること、合ってます。私たちは一度小さな船に乗り換えて、そこから水上バイクでここまで来たんですけど……戻る戻らないに関わらず、あと1週間ぐらいで要塞は移動しちゃいます」
(……)
そうか。それもそうだ。
助けを求める人々は日本中にいる。
要塞は俺たちのためだけにここへ来たのではない。
言うなればたまたま通りがかっただけだ。
葱城に同行しなければ俺たちはここに置き去りにされてしまう。
食料はともかく、飲料はそう長くは持たない。
待っているのは飢え死にだ。
だが大移動を敢行すれば高確率で白魔人に襲撃される。
そんなことになれば、誰かが死ぬ。
それは俺かも知れない。
死ぬ。
俺が、死ぬ。
――――それだけは、嫌だ。
「なあ、葱城さん。港まで行ったらどうするんだ? 1000人全員が水上バイクで要塞に移動するのか?」
群青は片手を腰に、片手を顎に当てていた。
「いえいえ。海の上に大きな船が停泊してます。私たちの合図で迎えに来てくれるんです」
「乗り降りしているところを襲われたらどうする?」
「白魔人って海の中には入って来ないんですよ。入ったら沈んじゃうので」
「へえ……それは知らなかった」
群青と葱城の会話は膜を隔てたように遠く聞こえていた。
女性を救護室へ運んでいた自衛隊員が戻ると、曹長がぱしんと手を叩く。
「いずれにせよ、まずは皆に経緯と状況を説明する必要がある。……葱城さん」
「はい! 説明なら任せてください!」
葱城はびしっと敬礼のポーズを取った。
俺は懐から取り出した櫛をぱちんと開こうとしたが、いつものようにうまくできなかった。