White White Killing
港へ続く道に白魔人の姿は無かった。
地面のあちこちが大きく抉れ、窪んでいる。
時折白い丘陵がガラガラと崩落し、灰色の砂煙を巻き上げた。
唇月が津波で白魔人をなぎ倒したのだろう。
白い世界を滑走する俺は考え続けていた。
俺は今、自衛隊に代わって敵の元へ向かっている。
唇月、妃、それに紫苑。
彼女達を殺せばいいのか。
それが正義の成就になるのか。
ラガーマンと正面衝突した時に痛めたらしい。
背中以外の骨が軋む。
ごろごろごろと車輪が回る。
降り注ぐ陽光で汗が乾き、首筋がひりつく。
覚悟が決まらないまま、重く濃厚な潮風を嗅ぐ。
青々とした海に面した場所に三人は立っていた。
かつてフェリー乗り場だったそこには蝋が厚く堆積しており、水面にはオレンジ色の浮き輪や木材が漂っている。
船は、ゆっくりとこちらに近づいて来るところだった。
向こうも警戒しているのだろう。
甲板に人が立っていることはかろうじて視認できるものの、それ以上ことは何もわからない。
俺たちの気配に気づき、三人が振り返る。
黒い傘の唇月。灰のスーツの妃。紫のカーディガンを纏う紫苑。
視線がぶつかった瞬間、唇月は笑いも驚きもしなかった。
ただ、俺と同じ目をした。
結末が近いことを悟った目。
地を靴裏で押し、走り出す。
だいぶ摩耗したローラーが律儀に務めを果たし、白い世界が左右に流れていく。
俺が抱えているのは洗濯機ほどもある大型シュレッダーだった。
キャスターがついているのでここまで運ぶのも苦にならない。
前面には分厚い鉄製のドアを括りつけている。正方形にはめ込まれたガラスは割れ、その向こうに彼女達の姿が見えている。
有り物でこしらえた戦車。
しゃあああ、と近づく。
距離、60メートル。
潮風のなせる業なのか、海へ向かうにつれ大地は斜面となっていた。
俺は上。奴らは下。
勢いよく滑り降りていく。
津波の構えを見せた唇月が妃に制止される。
そう。
奴の津波は大量の蝋を消費する。
海を背負った今の状況で使えば、海岸付近の蝋がすべて失われる。
俺ごときのために蝋を使い果たしたら、海岸に近づく船の乗組員を殺す必要に迫られた時、津波を使えない。
前に出たのは妃だった。
手の中で蝋の雷が踊る。
その前に紫苑が立ち塞がった。
殺すな、と言っているのだろう。
肩が小さく震えるのが見える。
唇月の目に微かな濁りが見て取れた。
彼女とて馬鹿じゃない。頭では理解していたはずだ。だが思い知るのは初めてだったのだろう。
「綺麗なもの」を共有できるのは、せいぜい二人まで。三人以上になった瞬間、そこには必ず軋轢が生まれる。
唇月の思想の先にあるのは破滅だけだ。
妃が紫苑を突き飛ばす。
アコーディオンじみた蝋の雲が雷を迸らせる。
次の瞬間、俺は四角にくり抜かれた窓から首を逸らす。
びゅおっと白い雷が通り過ぎる。
遥か後方で地を抉る音。
次だ。
次の一撃が明暗を分ける。
どちらに来る。
また顔か。それとも腹か。
妃が迷う。
自分の雷が分厚い鉄扉と業務用シュレッダーを貫通するか、否か。
狙うべきは俺の頭か、それとも腹か。
時間にして、ほんの二秒。
放たれた雷はドアの上半分に直撃する。
形無き雷の衝撃が俺を転ばせる。
シュレッダーが俺の手を離れ、母の手を離れた乳母車のごとく回転しながら坂を下る。
妃が雷を充填する気配。
紫苑が何かを叫ぶ。
俺の後方に、巨大なドア二枚を連れた優姫が飛び出す。
いや、それはドアではない。キャスターがついている。
俺に追いついた優姫は畳一枚ほどもの大きさを誇る板切れを手放した。
ナイフが閃き、戒めが解かれる。
巾着袋の紐が抜けるように、
斜面を転がる板切れがぱかりと開く。
折りたたまれていた屏風のように。もしくは、扇子のように。
一枚の板切れが、二枚分の広さになる。
二枚の板切れが、四枚に。
四枚が、八枚に。
八枚が十六枚に。
十六枚が三十二枚に。
キャスターを持つ板切れはそれぞれが勢いに乗り、唇月目がけて斜面を滑り落ちる。
ドアではない。
部屋と部屋、あるいはソファとオフィスを隔てる仕切だ。
素材は木目を模しており、向こう側が透けて見えるなんてことはない。
俺は滑り落ちる仕切の一つに身を隠した。
優姫も一つの仕切に身を添えている。
底部には目張りを入れている。靴が見えて居場所が露見する、なんて間抜けな事態は防げる。
瞬く間にそこは仕切だらけの奇妙な空間と化した。
くるくると回る仕切。
倒れる仕切。
滑る仕切。
風鈴の短冊が風に踊るような光景。
妃の雷が一度閃き、二度閃いた。
仕切の一枚が吹き飛ばされ、ぱたりと地に斃れる。
一枚は上半分を失ったことにも気づかないまま、三人の女目がけて滑降を続ける。
どおん、と更に一枚。
もう一枚。
銃火に散る歩兵のごとく、板切れの兵隊が死んでいく。
俺と優姫は死んでいない。
だがいつアレを喰らってもおかしくない。
アレを喰らうより先にたどり着けるか。
焦燥で血を熱くした俺は、ふと横に目をやる。
――白いムカデがぞろりと地を這うのが見えた。
俺と優姫は同時に息を呑む。
ヘビほどの長さを誇るムカデが触角を機敏に動かし、優姫を睨んだ。
あれが一体何を探知しているのか、どのように動かしているのか、紫苑に尋ねたことはない。
そのことを今になって死ぬほど後悔した。
ろろろ、と雷が息づく。
獲物を見つけた喜びを押し殺しているようにも感じられた。
優姫の顔に恐怖が浮かぶ。
妃の腕がしなる音。
きっと投げ槍を構えるようにして上半身を捻っているのだろう。
俺は飛び出し、優姫を押し倒した。
その真上を、雷の槍が貫通する。
テンポ遅れて、ごろろろ、と雷鳴が轟く。
炸裂した白蝋が血しぶきのごとく降り注ぐ。
今や俺たちを覆い隠すものは何も無かった。
妃が次なる雷を構える。俺たちはまだ立ち上がれない。
がどん、と先行するシュレッダーが転倒する。
妃はそちらに注意を向けなかった。
業務用とは言え、シュレッダーは小さな機械だ。
盾として使うのならより丈夫で大きなコピー機かロッカーの方がマシだ。
にも関わらず、俺はシュレッダーを選んだ。
この機械は『紙を細断する』だけでなく、『細断した紙を蓄える』機能がある。
要するに、ゴミ箱を収納するスペースが併設されている。
洗濯機並みに大きな体の、体積の四分の三ほど。
人間を隠すには十分すぎるスペースだ。
中から飛び出した群青が妃に飛びつく。
雷が明後日の方角へ放たれ、蝋に覆われたビルの窓をかしゃんと割る。
二頭の豹のごとく群青と妃がもつれ合う。
長い手足が互いを圧しようと絡まり、獣じみた唸り声が発せられる。
群青の指が妃の目を突いた。
椀状に曲げられた妃の手が群青の耳に叩き付けられた。
マウントを取った群青が妃の首筋に噛みついた。
妃が群青の耳を引っ張り、体勢を入れ替える。
群青がスーツを掴み、それを阻止する。
がるる、ぐるる、と濁った呼吸音を残しながら二人が駆け回る。
とうとう妃がマウントを採る。
妃の拳が群青を滅多打ちにする。
血が飛び、鼻骨がひしゃげる音がする。
妃が肘を振り上げ、群青の顔面に振り下ろす。
骨が鳴く。
妃が十数センチ飛び上がり、杭を打ち付けるように膝を下へ向ける。
すんでのところで優姫が間に合い、タックルで妃を吹き飛ばす。
俺は丸っこい身体が斜面を駆け下りる役に立たないことを呪いながら、血だらけでぐったりする群青を飛び越える。
既に唇月は地に手をついていた。
ざざざ、と周囲の蝋が集まり始める。
接近する船の乗組員に殺人の現場を見られることより、今ここで俺に間合いを詰められることの方が危険だと考えたらしい。
その判断は間違っていない。
決断そのものも、行動も早かった。
ただ、彼女は一つだけ過ちを犯していた。
『一度やった奴は二度やる』。
彼女自身が語った社会のルールだ。
――いや、『一度やった奴は二度やると思われる』だったか。
いずれにせよ、一度罪を犯した者は疑われて然るべき、という考え方は間違ってはいない。
だから彼女は警戒すべきだった。
一度裏切った奴は二度目も裏切る。
それも、簡単に。
紫苑の放ったムカデが投げ縄のごとく唇月の手首に絡まり、胴に絡まった。
華奢な少女はその勢いで体勢を崩し、蝋の上にどっと倒れる。
津波の勢いが止まったところで、俺は再び駆け出した。
水と蝋。
半分の性質を持つ地の上を駆ける。
薄い水が張った地面のように、ちゃぷっちゃぷっと蝋が跳ね、白い波紋が広がる。
驚愕に目を見開いた唇月がムカデを振りほどくが、もう遅い。
だかだかだかだかとドラムのように心臓が鳴る。
地を蹴り、手を伸ばす。
唇月が。
小さな試験管を握っている。
息を呑む俺の眼前で、それが叩き割られる。
海底に舞い上がる白砂のごとく、白い綿毛が散り、舞い飛んだ。
今度は立場が逆だった。
紫苑と優姫は遠く、群青は地面の上で身を丸めている。
俺だけが、綿毛が直撃する位置、高さに居た。
唇月が鼻と口を覆うマスクを嵌める。
俺は喉を押さえ、口を押える。
よろめき、膝を折る。
地に着いた両手の間に頭を置き、土下座の格好となる。
両手で顔面をかきむしり、口からごぼごぼと蝋を吐く。
それが炎ではなく液体の形を取っていることに唇月は満足したようだった。
一歩、彼女がこちらへ近づいた。
俺は顔を上げ、笑う。
そこで初めて、唇月の顔に驚愕が浮かぶ。
種明かしはしない。
ラガーマンを破ったことで火炎へのトラウマが払拭された今、俺は『蝋を炎に変える』能力を失った。
今や俺が触れる蝋は『炎』ではなく不定形のべちゃべちゃしたモノに変わる。
水なのか、泥なのか、それともアミノ酸のスープ的なものなのか。それは分からない。
炎の壁を生み出すことはできなくなった。
だがその代わりに、こうして蝋を口に含むことで白魔人化を偽ることがでいる。
少女に飛びつき、マスクを引っぺがす。
唇月が両手で口を塞ぎ、息を止める。
言葉を喉に押し込む子供のごとき仕草。
俺は両手でその手を引き剥がした。
そして息を吸い、その鼻にキスをする。
液化した蝋で包み、口腔に残していた綿毛をじるるると流し込む。
綿毛は『鼻の粘膜』に触れることで効果を発揮する。
俺を突き飛ばした唇月はよろめき、口元を手で覆った。
血走った眼がこちらを見つめる。
その視線が俺の鼻腔に注がれる。
俺は愛用の耳栓を鼻に詰めていた。
指で潰して穴に詰め、膨らむことでぴったりと穴を塞ぐ耳栓。
追い詰められた唇月は必ずどこかで綿毛を使う。
そう考え、ここへ来る前に嵌めておいた。
「――」
唇月が人間らしい言葉を放った。
悪態のようだった。
聞き返すより早く、彼女の首から上が蝋に覆われる。
鼻、口、目、耳。
穴という穴から白濁した蝋が噴き出す。
「シンッッ!!」
悲鳴を上げた妃が俺を押しのける。
既に唇月の肉体は半分ほどが白い蝋に取り込まれつつあった。
口から次々に溢れる蝋は彼女をドレスのごとく包み、黒いシルエットを白く変えていく。
妃はそこに手を突っ込んだ。
「シンッ!! シンッ!!」
泥をかき分けるようにして蝋をかき分け、妃は目や耳から蝋を噴き出す唇月の顔を両手で包んだ。
死者を呼び起こそうとする遺族のようにも見えた。
「シンッ!」
唇月は答えなかった。
ただごぼごぼと蝋を吐き、魚のように身を痙攣させている。
俺は紫苑を引っ掴み、蝋の地面に潜った。
優姫もまた群青を掴み、蝋の泡に包まれながら地面の下へ。
妃が唇月に唇を重ね、それから鼻に唇を寄せるのが見えた。
次の瞬間、二人の姿が白い蝋に包まれていく。
現れたのは身の丈数メートルはあろうかという巨大女だった。
ロングドレスの裾からは虫の脚のごとく大量の人間の手が生え、いくつかはバチを、いくつかは太鼓を握っている。
長すぎる髪の隙間からは家電、衣服、ビンや缶、雑誌の切れ端といった様々なゴミが溢れ出していた。
女はその場でぐるりと一回転し、そこに誰もいないことを知るや、甲高い雄たけびを上げた。
そして津波のような速度で、世界のどこかへ向かって滑り出して行った。