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White White Showdown

 

 時間の感覚が曖昧だった。

 何分経ったのか、何時間経ったのかすら分からない。


 氷漬けにされたマンモスのように、俺が見ているのはただただ真っ白な世界だけだ。

 時折遠くで轟音が聞こえ、好ましからざる何かが起きていることを知る。

 だが、何もできない。

 俺に許されているのはガラス管による呼吸と、思考だけ。


 こー、ほー、こー、ほー、と。

 呼吸音を聞く度に胸部がきゅっと縮こまる。

 俺の脳は移植当時の記憶など何も覚えていないが、切開された皮膚や筋肉はこの音と恐怖を覚えているのかも知れない。


 少しずつ、息苦しくなってきた。

 穴の中の酸素が薄まっているなんてことはないだろう。

 俺自身の活力が萎えかけているのだ。


(……)


 最後に柑橘類を摂取してからかなりの時間が経過した。

 もう蝋を操る能力は使えない。

 蝋を操れなければ、このサンドイッチ状態は突破できない。


 前に進むことができなくなった思考は、自然と後ろを向いた。

 どうして、こんなことになったのか。

 どうして、俺はこの状況を未然に防げなかったのか。


 紫苑。

 俺の従妹。

 あいつが唇月の思想に共鳴しつつあることは分かっていた。

 分かっていたのに、止められなかった。


 勧説する機会はいくらでもあった。

 見捨てろ、とか。食い扶持を減らせ、とか。

 そんな露悪的な言葉を吐く彼女を正座させ、説教し、言い含めることはいつでもできたはずだ。

 なのに俺はそれをしなかった。

 それがいけなかった。


 ――――だが。

 だが、何と言って説得すれば良かったのか。


 お前の考え方は色男ハンサムじゃない、か?

 そんなの、美学の押しつけだ。

 誰が何を正しいと考え、何を美しいと感じるかなんて人それぞれだ。

 俺の美学を他人に押し付けるわけには行かない。

 紫苑が厭世的な考えをするのも、避難民の言動に目くじらを立てるのも彼女の勝手だ。

 彼女の抱いた悪感情を否定することこそ、色男ハンサムではない。



 ――――



 ――――



 いや、違う。

 俺が紫苑を説き伏せられなかったのは、あいつの考えや感情を尊重していたからじゃない。



 ――――



 ――俺も。



 俺も、本当は。




 本当は、あいつらみんな死ねばいいと思っていたからだ。




『私、思うんです。人、増えすぎなんじゃないかなって』

『どいつもこいつも本当にクズばっかり』

『一割ぐらい残して、後は間引いちゃえばいいんじゃないかなって』



 そうだ。

 その通りだと、思った。


 俺たちは酷い目に遭った。

 みんなを助けたのに。何度も何度も助けたのに。浴びせられたのは不満だった。

 もっと。もっと安全を。もっと保証を。

 もっと良い暮らしを。もっと快適さを。

 あいつらの欲望に底は無かった。


 社会はぶっ壊れたんだ。

 もう何かが元に戻ることはない。

 試験も、学校も。

 就活も、卒論も。

 残業も、過労死も

 掃除も、洗濯も、スーパーの惣菜も。

 ぜーんぶ、ぶっ壊れた。


 だからもう、権利なんてこの世には無い。

 俺たちは原始に近い世界を生きているのだから。

 当たり前に手に入るものなど何も無い。


 なのに、あいつらは求め続けた。

 いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、喚き散らした。


 俺だって本当は疲れていた。

 休みたかったし、誰かカリスマのある人に思考を委ねたかった。

 俺はそんなに――タフな奴じゃなかった。


 酒も飲めないガキに頼ってみっともないと思わないのか。

 口ばっかり動かしてないでスコップ掴んで蝋でも掘ってみたらどうなんだ。

 そんな言葉を飲み込んだことも十度や二十度ではない。

 ただ、俺より露骨に不満を口にする紫苑がいてくれたから、俺は取り澄ました顔をすることができた。


 俺は頑張って、頑張って前を向こうとしていた。

 この心臓に誓って恥ずかしくない道を歩め。清い言動を心がけろ。色男ハンサムであれ。

 そんな風に自分に言い聞かせた。 

 その時点ですでに、俺はあの人たちを見限っていたのかも知れない。


 俺の心はとっくに、紫苑や唇月と同じところに堕ちてしまっていたのかも知れない。






 雲が出て来たのだろうか。

 視界を塞ぐ白い蝋越しに見える世界が暗くなっていく。






 命を賭けずに手に入るものなんてない、と唇月が言った。


 俺は生まれてこの方、一度も命など賭けなかった。

 賭ける必要が無かったからだ。

 それに俺は死ねない。

 俺は絶対に生き残らなければならない。


 だが、命さえ賭ければ唇月と妃を止めることのできる機会は何度かあった。

 死ぬことを覚悟して飛びかかれば、手足の一本ぐらい折れたかも知れない。

 頸動脈を噛み千切ることぐらいできたかも知れない。


 俺は、それをしなかった。

 その結果が、これ。


 自衛隊は化け物になった。

 群青も、曹長も白魔人だ。

 津波が人々を飲み込み、噛み殺した。


 俺が刺し違えていれば、防げたかも知れなかった。

 だが刺し違えるなんて考え方はこの心臓の持ち主に――――



 ――――



 そう。

 この心臓の持ち主を悲しませるだけだ。

 俺に命を遺してくれた人のため、俺は命を投げ打たないのだ。


 俺は命を賭けない。

 俺は他人に美学を押し付けない。


 それが色男ハンサムだからだ。




 ――――




 下水がぼこりと泡立つような、奇妙な衝撃があった。




「――」


 ガラス管を咥えた顔に虚ろな笑みが浮かぶ。

 髪が揺れ、汗が頬を伝った。


 心臓の持ち主のために、あれをやらない。

 心臓の持ち主のために、これをやらない。


 俺は初めて、自分が世界に背を向けていたことを自覚した。







 俺が心臓の移植手術を受けたのはまだ幼い頃だ。

 物心つく前。

 自意識すらあるかどうか怪しい年ごろ。


 当時の俺が何を考えていたのかなんてまるで覚えていない。

 だが感じていたことは分かる。

 苦しみと、恨みと、妬みだ。


 心臓が機能不全を起こすことによる壮絶な苦しみ。

 新鮮な酸素が運ばれず、血が濁り、息が詰まり、内臓が腐っていく痛みと苦しみ。

 助けを求める口すら動かせないまま、自分の肉体が死んでいく感覚。

 悶え苦しむばかりの日常。


 そして自分の肉体が不完全であることに端を発する、自分自身への恨み。

 両親への恨み。

 医者への恨み。

 何より、他人への恨み。そして妬み。


 どうして俺だけこんな目に。

 俺が何をしたって言うんだ。

 俺は悪いことなんてしていないのに。

 まだ言葉すら知らない頃に抱いたその想いが、焦げ付くように俺の胸を汚した。


 物心ついてからも、手帳を返還してからも、それは変わらなかった。

 不幸になる度に、理不尽な目に遭う度に、心の奥底で他人を恨み、妬んだ。


 何で俺だけが。

 何で俺ばっかり。

 何でいつも俺なんだ。


 何で人より不幸な目に遭った俺が、また嫌な思いをするんだ。

 それは俺より恵まれた奴が味わえばいいんだ。


 ――そんな風に考えるのがブザマで、惨めだということは知っている。


 でも、仕方ないだろう。


 ちょっと服薬しただけでぶくぶく太る欠陥品の体。

 いつ止まるとも分からない借りものの心臓。

 なのに、健常者と同じ扱い。

 国から毎月補助金が出るわけでもない。進路や就職先を担保してくれるわけでもない。

 宿題が減るわけでもない。遅刻を免除されるわけでもない。

 俺は人より不幸なのに、人と同じ面倒を背負って生きて行かなければならない。

 俺は死ぬほど酷い生まれで、奇跡的に生きているのに、誰もそれを尊重してくれない。


 政府が。

 教師が。

 地域社会が。

 メディアが。

 声を大にして言い触らしてくれてもいいんじゃないか。

 俺は、特別だって。

 大事にしなきゃいけないって。


 何で普通のやつと同じ扱いをするんだ。

 俺より苦しい目に遭わなかった奴ら。

 俺よりずっとずっとマシな身体を持ってる奴ら。

 そんな奴らと俺が、何で同じ扱いを受けるんだ。


 あいつらは恵まれてるじゃないか。

 なのに不平不満ばっかり言って、真面目に生きてないじゃないか。

 だったらもっと俺を大事にしてくれよ。

 でないと、おかしいだろう。


 コールタールのように粘つく恨みが、妬みが、憎しみが、いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、俺の胸に淀んでいた。

 窒息してしまいそうなほどに。


 ――そうだ。

 だから俺は色男ハンサムなんてものを思いついた。


 この心臓の持ち主のために。

 授けられた命のために。

 俺は俺を磨くことにした。

 俺は俺を美しむことにした。

 俺は俺を大事にすることにした。

 俺は、俺だけを見つめることにした。


 そうしている間だけ、狂おしいほどの恨みと嫉妬から解放された。

 俺はこの心臓に、境遇に、逃げ込んでいた。






 何かが焦げる匂いを感じていた。

 胸の奥で悪意が燃え続けているのかも知れない。


 みんな、俺と同じ痛みと苦しみを味わえばいい。

 みんな、俺と同じぐらい不便な体になってしまえばいい。

 みんな、俺より不幸になればいい。


 ずっと昔に封じ込めたそんな感情がとろ火に炙られ、酸い煙を放っているかのようだ。


 こー、こー、こー、と。

 俺の呼吸は穏やかなものへと変わりつつあった。

 今夜が峠と診断された老人のごとき呼吸。


 体を動かさなくなったせいか、眠気が襲ってきた。

 ゆっくりと瞼を閉――




 がりり、と。

 何かが鼻先の壁を引っかいた。




「!!」


 がりり、かりり、と。

 白い壁を引っかくものがあった。


 かりかりかりかり、とハムスターが木組みのおもちゃを齧るような音が続く。

 薄皮を剥くように蝋が薄くなっていく。

 と同時に、鮮烈な色が目に飛び込む。


 蝋には赤いものが付着していた。

 血だ。

 血が付いている。


 透明に近くなった壁の向こうに人間の顔が見えた。

 明るいブラウンの髪。全裸に近いまろやかな肌色。迷彩柄に覆われた胸元。


「……コー?! 大丈――?」


(優姫さん……?)


 蝋の壁を白魚のごとき指が穿ち、小さな穴が開けられた。

 鼻腔周辺に空気が送り込まれ、かろうじて鼻呼吸ができるようになる。


 ちらりと覗いたのは優姫の顔だった。

 彼女の向こうに見える空は淀んだ灰色で、不機嫌そうな雲が天を覆っている。


「大丈夫? 待ってて。すぐ全部剥がすから」


 すっと顔が引っ込む。

 がりり、べきき、と顔の辺りから蝋が剥がれていく。


 べこべこと顔の蝋が外され、試験管を抜かれる。


「うぇげっ! うっ、えっ!」


 激しくむせ込んだ俺は、血だらけの優姫を目の当たりにしていた。

 彼女の爪は剥げ、皮膚は裂け、真っ赤な血に濡れていた。まるでたった今ブドウ摘みを終えたかのようだ。

 額の包帯からも、腰や肩からも血が流れ出している。傷口が開いてしまったのだろう。


 曇り空から差し込む光が彼女を照らしていた。


「ひっどいねこれ。待ってて。全部剥がすから」


「……優姫さん。能力……」


「あー……とね」


 思い出す。

 確か妃が迷彩柄のナップザックを持っていた。

 ということは。


「あはは。ごめん。全部持ってかれちゃった。一応ポーチもあったんだけど雷で破かれちゃって。……咄嗟に蝋の中に隠れたんだけど、ポーチの中身、白魔人にめちゃくちゃにされちゃってた」


 粘土を剥がすように蝋を破る彼女に慌てて言う。


「待ってください。俺のポーチにジャムがあります。それを使った方が簡単に蝋を破れる」


「お? マジ?」


 一瞬嬉しそうな顔をした優姫は、しかし、眉を八の字にして首を振る。


「それ、取っとこうよ」


「な、何で?!」


「他の皆を助ける時に必要でしょ? 今はこうやって無理やり剥がせるし、ねっっ!!」


 べこん、と一際大きな蝋の破片が崩れる。

 古い組織が剥離するように。


「……」


 みんな。

 曹長。群青。自衛隊。避難民。

 助けるのか。助けなければならないのか。

 それは――本当に正しいことなのか。


 避難民はもうどれだけ死んだのか分からない。

 僅かな生き残りを助けても結局、ああだこうだと不平不満が噴き出すのではないか。

 危険を冒して助けるより、このまま間引いてしまった方がいいのではないか。


 外道。

 かつて俺はこの考え方をそう評した。

 だがもう、人の道なんてない。

 社会がぶっ壊れたのだから、正道も外道もありはしない。

 だったら――――


「――」


 諦念の言葉を口にしようとした俺は、必死に蝋を剥がす優姫の顔を目の当たりにした。

 彼女は必死だった。

 必死な人間の顔がこんなにも美しいなんて、知らなかった。

 俺の口からは別の言葉がこぼれた。


「優姫さん」


「んー?」


「俺、間違ってたんですかね。何か、色々……」


「……紫苑ちゃんのこと?」


 身体の半分が外気に露出してもなお、俺は解放感を感じなかった。

 感じるのは息苦しさばかり。

 身体は鉛のように重い。


「人、間引いた方がいいって言われて。俺は言い返せませんでした」


「だねー。私も口挟めなかった。ごめんね」


 でも、と彼女は続ける。


「紫苑ちゃん、間違ってるよ。後でお説教しないとね」


 ついに最後の蝋が剥がされる。

 俺は棺の蓋を開けられたミイラのごとくよろりと前へ出た。

 優姫は俺の両手に巻かれた布をせっせと解いている。


 彼女の汗に濡れた身体は血にも濡れていた。

 妃の雷を浴びたのか、よく見ると肩や脇腹の肉も抉れている。

 指先はボロボロで、能力のトリガーである柑橘類はおろかハンカチの一枚すら持っていない。


 なのに彼女は二本の足で立っている。

 俺よりもしっかりと。


「さ、出よう」


 ぱんぱんと俺の身体を叩き、蝋の粉を落とす。

 優姫は灰色の空を見上げていた。


「何か焦げ臭いの。どこかに火が点いてるのかも知れない」


「……」


「曹長たち助けて、火を消して、紫苑ちゃんとシンゲツを止めなきゃね」


 決然とした表情。

 状況的にあり得ないと分かっていたが、俺の目に彼女は笑っているように映った。


 首を振る。

 否定のためではなく、疑念をはっきりと言葉にするために。


「……何で」


「んう?」


「何でそこまでやれるんです? こうなった以上、曹長たちを諦めるか、船を諦めるかしないといけないのに」


 第一、と俺は続ける。

 喉に詰まったものを吐き出すように。


「さっき紫苑が言ってたじゃないですか。助けたってまた悪さをする奴が出るかも知れない。ちゃんと管理できるかだって分からない。唇月みたいな奴が出て来るかも知れない。何で簡単に……簡単に助けるとか言うんですか」


「何で……って、理由なんて無いよ」


 俺たち二人の視線は、俺の胸部へ注がれた。


 俺はかつて、他人の心臓を移植した。

 その持ち主のために。

 色男ハンサムであるために。

 俺はそんな美学を掲げた。


 優姫は大義も美学も持ち合わせていない。

 教養や常識だって、持っているのかどうか怪しい。

 なのに、俺よりしっかりと地を踏みしめている。


「理由とか、知らない」


 強い眼差し。


「助けるし。私」


 彼女は俺に背を向けた。

 俺を拒絶しているわけじゃない。

 ただ、俺より先に一歩を踏み出した。


 取り残された俺は天を仰いだ。

 湧き上がるのはどうしようもない――――失意と嫉妬だった。


 こんな風になりたかった。

 こんな人になりたかった。


 無心に、純粋に、何の疑いもなく善意ある行動を取れる人間になりたかった。

 恨みなど忘れてしまいたかった。

 人を好いていたかった。


 でも、できなかった。

 結局俺は、生まれた時から人を妬み、恨み、羨んでいた。


 だから偽った。

 打算と下心でべったりと湿っているくせに、天真爛漫な奴を装った。

 周囲の人間に目を向けず、馬鹿のように色男ハンサムだ、色男ハンサムだと繰り返した。

 無邪気な振りをすれば少しぐらい、生きていく難儀さから救われると思っていた。


 だが、違った。

 妬みや嫉みは俺の心を汚したままだった。

 俺は結局、俺以外の人間が大嫌いなままだった。


 俺より恵まれているくせに俺より不幸面をする奴をクズだと思っていた。死ねばいいと思っていた。

 どれだけ小奇麗な理屈で塗り固めても、それが俺の本心だった。

 その腐った心根こそが、今のこの状況を招いた。

 俺が動けば動くほど、状況は悪くなる。


「……」


 見れば優姫は既に前へ進み始めていた。

 血だらけの身体を汗で光らせ、穴の斜面を這い上がろうとしている。


 俺は動けなかった。

 ああはなれない。

 そんな諦念にも似た想いを抱きながら、彼女を遠くから見つめていた。


 もしまた紫苑と出くわしたら。

 もしまた唇月と向き合ったら。

 俺は彼女達を否定できないまま、なし崩しに心を折られる。


 生きてる奴、クズしかいないじゃん。

 そんな紫苑の言葉を否定できない。

 クズのために命は賭けられない。

 命を賭けられないのなら、唇月には勝てない。



 ―――― 



 ――違う。

 クズばかりなんかじゃない。


 少なくとも、優姫がいる。

 それに俺に心臓をくれた人がいる。

 その人も断じて、クズじゃない。


 探せばちゃんと、まともな人もいる。

 まともな人がいるのなら、俺は命を賭けられるのではないか。

 心臓に誓ったりしなくても、俺は――



 はっとする。



 そうだ。

 俺が今ここにこうして立っていられるのは、そうした人たちのお陰だ。


 死を待つばかりだったのに、心臓を授けられた。

 蝋に押し潰されていても、身をぼろぼろにして助けてくれる人がいた。

 俺は俺がさんざん妬み、羨み、呪った人間の善意で生かされていた。


 俺が生きているということ自体が、人間の善性の証明だった。


「……!」


 もしかするとそれは誰もが知っていることなのかも知れない。

 幼い頃に肌で感じ、年を取ると共に心で理解し、誰もが当然のこととして胸に抱いている考え方なのかも知れない。

 だが、俺は。

 嫉妬と怨嗟で塗り固められていた俺は、今この瞬間、初めてそれを理解した。


 人はクズばかりなんかじゃない。

 人は命を賭けるに値する。

 決して俺の心に馴染まなかったその考えが、パズルのピースのごとく、かちりと俺の頭に嵌まった。


「!」


 視界が、少しだけ晴れたような気がした。

 救われた気分にはならなかった。

 ただ、勇気のようなものは湧いて来た。


 俺は走った。

 白い壁に手を掛け、斜面を登ろうとする優姫の隣に立つ。


「お? 動けそう?」


「はい」


 んー、と優姫は俺の顔を覗き込んだ。


「ホントに大丈夫? 何か顔色悪いし、ぼうっとしてたみたいだけど」


「……いえ」


 俺は地に放り出された櫛を見つけた。

 うっかり曲がったそれを拾い、三割ほどが抜け落ちた歯で髪を梳いた。

 割れた鏡を見る。

 ボロボロの俺が何人も映っていた。


「ちょっと――――色男ハンサムらしからぬことを考えただけです」


「お? 悩み?」


「いや。もう解決しました」


 俺は櫛を放り捨て、鏡に背を向けた。

 拳を手の平に叩き付ける。


「助けに行きましょう。みんなを」


「うん!」


 俺はポーチからジャムの瓶を取り出し、中身を舐めた。


「ヨーコー。それ、私にも」


「?」


 優姫は血だらけの指を示した。

 確かにこの汚れた指をジャム瓶に入れるのは衛生的に良くない。

 俺はそっとジャムを掬い、人差し指を彼女に向ける。


 顔を寄せた優姫が首を少しだけ傾け、俺の指を含んだ。

 温かい、感触があった。






 妖墨唇月あやすみしんげつは狡猾だった。


 彼女が『連れて来た』のは津波だけではなかった。

 あの津波の中では時折ガラガラという音が聞こえていた。

 俺はそれをただの瓦礫だと思っていたが、違った。


 唇月は大量のガスボンベやガソリン入りのタンクを津波に混ぜていた。

 それが何かに激突し、火花が散った瞬間、爆発するように。

 居合わせた者を誰一人生かさないように。

 美しくないものを根絶やしにできるように。


「……」


 舞い上がる黒煙が青空を曇天に変えていた。


 固体ではまず着火しないとされる蝋が高温で液化し、そこかしこに水たまりを作っている。

 液化した蝋は更なる高温で気化する。

 気化した蝋は、よく燃える。

 まして布や木材、分厚い本といった燃えやすいモノに絶えず液化した蝋が染みている状況ならなおさらだ。


 穴から這い出した俺たちは、破滅を絵に描いたような世界と対面していた。

 とろとろに溶ける蝋。

 皮膚を焼く熱気。

 そこら中で燃え続ける炎。

 もうもうと立ち昇る黒煙。


 津波が直撃したオフィスビルは倒壊し、近隣の建物も軒並み破砕されていた。

 瓦礫の山。

 それ以外に喩える言葉の見つからない惨状だった。


「!」


 瓦礫の一つから、悲鳴が聞こえた。

 子供の悲鳴だ。

 それも一人ではない。数人いるらしい。

 どおん、どおん、と大きな白魔人が瓦礫を掴み、揺さぶっている。


 俺たちはそれを100メートル以上離れた場所から見つめていた。

 俺は。

 怯え切っていた。


「……」


 炎。

 炎に包まれた世界。

 人を食い殺し、飛び移る炎という化け物。


 尻穴が震え、脇が汗で濡れている。

 悪寒がする。吐き気も止まらない。片頭痛で瞼がぴくぴく痙攣している。

 脚が竦み、歯の根が合わない。


 怖かった。

 本当に、怖かった。

 だが、その恐怖は偽りのものだ。


 俺は本当は、死ぬのが怖かったんじゃない。

 俺が本当に恐れていたのはこの心臓を失うことだ。

 この心臓を失えば、俺は逃げ込む先を失ってしまう。怨嗟と嫉妬に満たされた人生に逆戻りしてしまう。

 そのことへの恐怖が、死への恐怖、炎への恐怖にすり替えられていた。


 克服できるはずだ。今なら。


「陽甲」


 優姫が痛みに顔を顰めながら呟く。


「……私がやるから陽甲は下がっ「いや」」


 俺は手櫛で髪を梳いた。

 濡れた髪から汗が散る。


「俺もやります」


 色男ハンサムの人生には苦難がつきものだ。

 ずっと、自分にそう言い聞かせて来た。


 自分が色男ハンサムなどではないと分かった今でも、苦難は訪れる。

 上等だ。

 受けて立つ。


 俺は、受けて立つ。


 





 瓦礫を揺さぶっていた巨大白魔人が振り返った。

 身の丈は5メートルか、6メートルもあるようだった。


 バフォメットじみた牡羊の頭部に女性の胴体。水かきのついた手。

 二つに分かれた人魚の尾を持つ怪物。

 鱗の代わりに無数の唇が並び、その一つ一つが呪言らしきものを囁き続けている。


 白魔人は一体ではなかった。


 全身に長い針を生やした盲目長身の白魔人もいる。

 大きな裁ちばさみを抱え、下半身が節足動物と化した老人の白魔人もいる。

 ラグビーボールを抱え、首から上にペットボトルを生やしたマッチョな白魔人も。

 その場を動かず、金貨と貝殻を吐き出し続ける噴水型の白魔人も。

 両肩にハムスターのケージを乗せ、中に札束をひらめかせる虎型の白魔人も。


 どの中身が誰なのかは分からない。

 ただ、そいつらは今までの白魔人とは違った。

 先ほど罠に使った布やカーテンを取り込んでおり、体の各所からはみ出させている。

 そこに液化した蝋が染み込み、たてがみを思わせる火が燃え続けていた。


 いや。火ではない。

 炎だ。

 俺が操る偽物イミテーション、白い炎ではない。

 熱い炎。

 本物の炎。



 オレンジ色の炎。



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